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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
1920年 シベリア編
21/54

19200325 砲艦「江亨」

 一九二〇年、三月末。

 ニコラエフスクの街は、完全に赤軍パルチザンの支配下に置かれ、文明の灯火は完全に消え失せていた。

 だが、その血塗られた港の片隅に、静かに、しかし力強く停泊し続ける鉄の城があった。

 中国北洋政府艦隊だ。

 旗艦である砲艦「江亨」。そして「利綏」「利棲」「利川」。


 艦長を兼任する陳世英少将は、艦橋の窓から、赤軍が日本軍の生存者をアムール川の氷の穴に突き落とす凄惨な光景を、唇を血が出るほど噛み締めながら見つめていた。


「司令官……。これ以上は、もう……」


 副官の趙が、震える声で進言する。艦内には、すでに張福海たちが救い出した平太、明子、凜以外にも、中国人、日本人を含め数十名の居留民が、最奥の船倉に隠されていた。そのほとんどが女子供である…。


 赤軍の斥候たちは、事あるごとに艦に乗り込み、日本人を隠していないかと厳しい検閲を繰り返していた。


「趙。……我々は、今、世界で最も危険な賭けをしている」


 陳世英の声は、驚くほど静かだった。


「赤軍は我々に、日本人を捕らえろと命じている。だが、我々が守っているのは、国家ではない。……『人間』だ。この艦が沈められるその瞬間まで、私はこの子供たちの手を離さない」


 ある夜。

 赤軍の指揮官たちが、「江亨」に対して、日本人を殲滅するための協力が不十分であると難癖をつけ、直接艦内の捜索を行うと通告してきた。

 一歩間違えれば、収容している全員が虐殺され、艦隊も殲滅される。


 その時、十一歳の凜は、平太と明子の手を握り、暗い船倉の隅で震えていた。


「怖いよ……。お父さん、お母さん……」

 七歳の明子が、声を殺して泣き出す。平太は、自分の体も震えているのを必死に抑え、妹を抱きしめた。


「大丈夫だ、明子。馬先生が言ってただろ。この船の人は、仲間だって……」


 その時、船倉の重い鉄の扉が開いた。

 入ってきたのは、老練な水兵、張福海だった。彼は口元に指を当て、沈黙を促すと、子供たちの前に温かい粥が盛られた茶碗を置いた。


「……いいか、今から赤軍の連中が来る。だが、絶対に声を出すな。お前さんたちは、この艦の『一部』だ。鉄の壁だ。……俺たちが、命に代えても追い返してやる」


 張の野太い声が、冷え切った船倉の空気を震わせた。

 その余韻が消えぬうちに、凜は平太と明子の震える肩を抱き寄せ、顔を近づけた。彼女は張の言葉を単に記号として移し替えたのではない。その武骨な優しさと、命を賭した決意の温度を、子供たちの心に染み渡らせるように静かに口を開いた。


「……平太君、明子ちゃん。兵隊さんはね、『これから怖い人たちが来るけれど、絶対に声を出してはいけないよ』と言っているの。そして……『あなたたちはこのお船の一部、強い鉄の壁なんだ』って。だから、私たちが命に代えてもあなたたちを守り抜く。何も心配しなくていい……そう言ってくれているわ」


 凜の瞳には、十一歳とは思えぬ決然とした色が宿っていた。彼女の唇から零れた「鉄の壁」という言葉は、アムールの極寒に震える二人の心に、砲艦の装甲よりも確かな、そして温かな盾となって重なった。平太は、凜の手の温もりを命綱のように握りしめ、溢れそうになる涙を堪えながら、暗闇の中で深く、静かに頷いた。


 そして凜は平太たちの手を握り締めたまま、顔を上げ、張の無骨な顔を見据えた。その瞳には、恐怖を越えた強い使命感が宿っている。


「……兵隊さん、彼らにはちゃんと伝えたわ。私、もっと役に立ちたいの。もし他にもできることがあれば、何でも言って。日本の人達との橋渡しなら、私にしかできないから」

 年増もいかない少女が放ったとは思えない、その大人びた覚悟に、張は一瞬だけ驚きに目を見開いた。だが、すぐにその表情を和らげ、岩のような大きな掌を凜の小さな肩へと置き…

「……大したものだ。お嬢ちゃんは…。」

 張の節くれだった指先に力がこもる。

「いいかい。お前さんは自分にできることをやりな。……俺たちは、軍人だ。何があろうとお前さんたちの未来だけは、この命を盾にしてでも守り抜いてやる。約束だぞ」


 その言葉は、凍てつく船倉の中で、火を灯したように温かかった。凜は張の真っ直ぐな視線を受け止め、明日を信じるように、深く、静かに頷き返す。


――――

 甲板の上では、陳世英少将が、傲慢な赤軍将校と対峙していた。

「艦内を捜索させろ! 日本の犬を隠しているのは分かっているんだ!」


 陳は微動だにせず、鋭い眼光で将校を射抜いた。

 彼の腹はすでに決まっていた。船倉に匿った日本人たちには、あらかじめ中国人の衣服をあてがい、何があっても絶対に口を開かぬよう厳命してある。万が一その姿を見られ、怪しまれたとしても、彼らは雇っている中国人の使用人であり、親族の子供たちだと言い張る手はずを整えていたのだ。


「我が艦は、中華民国の主権が及ぶ領土である。貴殿らの無礼な捜索は、外交問題に発展しかねない」

 陳の静かで、しかし鋼のような声が甲板に響いた。

「百歩譲って艦内を改めたところで、そこにいるのは貴殿らが街にもたらした惨劇の恐怖で、声も出せなくなった哀れな者たちばかりだ。我々が、自国の同胞たる使用人や身内を匿うことに、そちらから文句を言われる筋合いはあるまい」


「なんだと……?」


「どうしても強行するというなら、北京の政府に直接確認を取ることだ。ただし、その間、我々の十二センチ砲4門は、貴殿らの拠点に真っ直ぐ向けさせてもらう」


 その言葉に、赤軍将校の顔色がわずかに強張った。

 十二センチ砲――当時の艦載砲としては、建物ひとつを容易く瓦礫の山に変える絶大な破壊力を持つ。

 至近距離から自陣のど真ん中に榴弾を撃ち込まれれば、部隊はひとたまりもなく吹き飛ぶだろう。

 皮肉なことに、将校はその圧倒的な威力を誰よりも痛感していた。つい先日、日本領事館に向けて行われた砲撃。あの苛烈な光景が、まざまざと脳裏をよぎったからだ。あの凄惨な破壊の矛先が、今度は自分たちの頭上に向くかもしれない。


 張り詰めた空気。


 赤軍将校は、陳の一歩も退かぬ意志と、背後に控える水兵たちの決死の表情、いけしゃあしゃあと「同胞」だと言い放つその圧倒的な胆力、そして眼前に突きつけられた大口径砲の生々しい脅威の前にすっかり毒気を抜かれたように、忌々しい舌打ちをした。


「……フン、いいだろう。だが、裏切りが発覚した時は、この艦ごとアムールに沈めてやる」

 暴徒たちが去った後、陳世英は、崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、夜空を見上げた。

 そこには、尼港の火柱と、凍てつく星空が混じり合っていた。

 凜、平太、明子の物語は、尼港にこう事件の記録にある「中国人に匿われた日本人16人(十数人という記録もあり)の子女が、中国の砲艦によってマゴ(レーザレフ)へ逃れた」という実話をベースに描いています。

 当時、中国艦隊が日本軍を砲撃したことは歴史的事実ですが、その一方で、日本人を密かに匿い、最終的に日本海軍へと送り届けたのもまた紛れもない事実です。

 彼らがどのような思惑や葛藤を抱えていたのか、その真意は想像の域を出ません。しかし本作では、中国艦隊もまた「人道的視点」から平太たちを助け、命がけで守り通したという展開を選びました。

 そう描いた背景には、この艦隊を率いた陳司令官が、後に国民党政府の海軍(現在の台湾海軍のルーツ)で重要ポストを歴任したという記録があります。あの極限状態において、命を救う決断を下した彼の卓越した指揮能力と人徳が評価されたからではないか――そんな歴史への推察を込めて、このエピソードを綴りました。

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