20100730 コリドー街
二〇一〇年、七月二十二日。新橋。
将吉たち守護霊の脳裏を焼き尽くしていたアムール川の凍てつく地獄、硝煙と鮮血の記憶が嘘のように、株式会社Rコンサルタントのオフィスは、文明の象徴であるエアコンの微かな低音に包まれていた。窓の外では、東京の湿った夏の日差しがアスファルトを焼き、陽炎の向こうで山手線が銀色の蛇のように滑っていく。
デスクで資料を整理していた小林正博の背後から、上司の江藤が、いつもの軽妙な調子で声をかけてきた。
「小林君。来週の金曜日、夜の予定はどうかな? ――空いてる?」
江藤の隣には、どこか落ち着かない様子の山川も立っている。話を聞けば、本来予定されていた三対三の合コンに、営業部の若手が急遽参加できなくなったというのだ。
「悪いね、急で。江藤さんと俺、それと営業の若手の三人で行くはずだったんだが……代打、頼めないか?」
山川の申し訳なさそうな顔に、正博は思考を巡らせる。
現在、自分はフリーだ。
同僚の由梨江のことが頭の片隅を掠めたが、彼女はあくまで切磋琢磨する戦友。独身の若手社員として、先輩からの誘いを断る「道理」はどこにもない。
「承知しました。お役に立てるなら、喜んで」
正博が快諾したその瞬間、背後で見守っていた守護霊たちの間では、現代の風習に対する「解釈」の嵐が吹き荒れていた。
「……合コン?」
将吉が、首を傾げて呟く。
戦時下の空気を吸って生きた彼にとって、その言葉の響きは未知の暗号に等しい。安倍や次郎座衛門、そして志乃から
「それは、男女が数名ずつ集まり、酒を酌み交わしながら意中の相手を探す場である」
と教わると、将吉は合点がいったように膝を打った。
「なんだ、つまりは『あいびき』の集団戦か。我々の頃も、上官に連れられて下士官仲間で料亭に繰り出したものだ。その後は勢いに任せて、夜の営みの店に転がり込むのが定番だったが……」
「……あなたという人は…なんと下劣な…」
志乃が、冷ややかな視線を将吉に投げた。その声音には、隠しきれない軽蔑と、時代錯誤な男権意識への嫌味が混じっている。
「今の子たちの『合コン』なるものは、もっと洗練された親睦の場でしょう。あなたの語るような、卑俗な放蕩と一緒にしないでいただけますか?」
「まあまあ、志乃。将吉殿は、現代の流儀を見ていないだけだ。武士の世も昭和の世も、男女の機微というものは、戦に似て非なるもの。まずは静観してみればわかることだ」
景隆が朗らかに場を収めると、守護霊たちは一様に、一週間後の「決戦の地」へと意識を向けた。
――――――――――――
七月三十日、金曜日。
時計の針が十八時三十分を回った頃、オフィスの空気は週末特有の弛緩と、残務に追われる焦燥が混じり合う独特の湿り気を帯びていた。
「さあ、小林君! 準備はいいかい。今日は『戦』だからね、早めに行って作戦会議だよ」
デスクで終業の片付けをしていた正博のもとに、同僚の江藤が、浮き足立った足取りでやってきた。その後ろには、すでに鞄を肩にかけ、ネクタイを締め直している山川がニヤニヤと笑いながら控えている。
「ごめん、由梨江さん。今日はちょっと予定があって、お先に上がるね」
正博は、隣のデスクで黙々とキーボードを叩く由梨江の横顔に声をかけた。いつもなら「お疲れ様です、何飲みに行くんですか?」と軽口が返ってくるはずの距離。しかし、返ってきたのは、ガラスの壁を一枚隔てたような、ひどく「丁寧」で冷ややかな声だった。
「はあ〜い。楽しんできてくださいね〜。今日の会議で上がったデータ整理、小林さんの分も私がやっておきますから。もう少しで終わりますし」
由梨江は一度も視線をこちらに向けない。青白いPC画面の光が彼女の瞳に反射し、無機質な輝きを放っている。その指先が叩くブラインドタッチの音だけが、まるで正博への小さな抗議のように、規則正しく、そして鋭く室内に響いた。
「……悪いね、助かるよ。月曜日、フォローするから」
「いいですよ、お気になさらず。どうぞ、存分に『親睦』を深めてきてください」
努めて明るく振る舞おうとしているのはわかる。だが、語尾のわずかな震えと、頑なに目を合わせようとしないその頑なな拒絶に、正博は言いようのない後ろめたさを覚えた。彼女の心の中に渦巻く、言葉にならない「嫉妬」の熱量が、冷房の効いたオフィスの中でそこだけ陽炎のように揺れている気がした。
その場の凍りついた空気感を敏感に察知したのか、江藤と山川が、正博の両脇を固めるようにして小声で急かした。
「……おい、小林君。これ以上いるとマズいぞ。早く行くよ、早く」
江藤に背中を押され、山川に袖を引かれるようにして、正博は逃げるようにオフィスを後にした。背後に残されたのは、由梨江が叩くタイピング音と、彼女が背負う寂しげな静寂だけだった。
エレベーターが下へ動き出す瞬間、正博の胸の奥には、夏の夕暮れの湿った風のような、割り切れない重みが沈殿していた。
――――――
午後七時
銀座と新橋を繋ぐ、享楽の回廊――コリドー街。
ネオンが濡れたように光る夜の帳の中、正博たちは一軒のオシャレな居酒屋の暖簾をくぐった。木の温もりと間接照明が演出する洗練された空間。そこには、正博たちの「ノリ」だけでは決して太刀打ちできない、圧倒的なオーラを放つ三人の女性が待ち構えていた。
有楽町に拠点を置く、大手商社のバックオフィス部門。そのスペックは、正博たちが想像していた以上に凄まじかった。
一人、石川美咲。
情報システム部。その立ち振る舞いには、隠しきれない気品が漂う。親戚には日本のPC黎明期を支え、秋葉原の伝説となったBTOメーカーの経営者が名を連ねる。かのシステムバンクグループのトップ宗氏とも交流があるという。いわば「デジタル界の華麗なる一族」の末裔。
二人、中根紀子。
総務部。和歌山県内では知らぬ者のない、巨大商社の社長を父に持つ令嬢。進学後紀州には戻らず、都内で働く事となった娘に対して、父の計らいで港区のタワーマンションの一室をあしらわれたとか。
そして三人目、馬場澪。
営業部。東京の下町育ちを自称し、気さくな笑顔を見せるが、その奥には鋭い知性が光る。母方のルーツに台湾を持つクォーターであり、三ヶ国語を自在に操る彼女は、米国留学で磨かれた国際感覚と、下町の義理人情を併せ持っていた。
江藤や山川は、元々人材紹介部門のトップセールスとして鳴らした男たちだ。会話を回し、場を盛り上げる技術には自信があった。しかし、彼女たちの会話は、単なる趣味や流行の範疇を超えていた。
「次世代のインフラ投資における、東南アジアの地政学リスクについては……」
「クラウドコンピューティングの進展が、地方企業のDXをどう変えるか……」
カクテルグラスを傾けながら、淡々と、しかし情熱的に語られる持論。正博たちは、これまでの営業経験で培った「食らいつき」の精神を総動員し、必死に気取られないよう背伸びを続けた。
その光景を、背後で腕を組んで見ていた将吉は、感心を通り越して呆気に取られていた。
「いやはや……。今の世の男女の関係というのは、これほどまでに高度な術策が必要なのか。私の時は、もっと直球勝負だったものだが。難しいものだな、正博も苦労している」
「将吉様。感心している場合ではありませんよ」
志乃が、鋭い視線を向ける。
将吉が顔を上げると、そこには異様な光景が広がっていた。正博たちを圧倒している三人の女性。その背後には、彼女たちの血脈と歴史を体現するかのような、壮々たる守護霊たちが軍団のように控えていたのだ。
美咲の背後には、明治の動乱期に茨城の広大な農地から身を起こし、独学で西洋の工学を修めたと思われる、逞しい体躯の男が立っていた。
農作業で鍛え上げられた無骨な手には、精緻な設計図ではなく、泥にまみれた巻尺とレベル(水準器)が握られている。服装は、フロックコートのような洒落たものではなく、作業着の上に無造作に羽織った、継ぎ接ぎだらけの厚手の作業コートだ。だが、その襟元には、明治政府から授与されたと思われる、技士の勲章が誇らしげに光っている。
一方、和歌山のご令嬢である紀子の背後には、彼女の柔和な外見とは対照的な、大地のような力強さを湛えた壮年の女性が控えていた。
紀州の最高級の絹織物を纏い、その腰には江戸時代の「大福帳」を思わせる重厚な帳簿を下げている。荒波の黒潮を越え、江戸の街に物資を送り込み、一国の経済を裏から支配した「紀州商人」の血脈を束ねる大番頭か、あるいはその一族を支え抜いた伝説的な女主人の姿だ。
その中でも、ひときわ静かで、かつ峻烈な存在感を放つ女性霊がいた。
彼女は、澪の背後に立ち、慈愛に満ちた表情を残しながらも、その眼差しは一国を背負う戦士のように鋭い。
彼女はゆっくりと、将吉の方へと歩み寄ってきた。
「……初めまして、小林将吉様とお見受けいたします。私は、馬 凜と申します」
将吉は、反射的に背筋を伸ばした。その女性霊――凜から放たれる気配は、単なる先祖霊のそれではない。深い悲しみを知り、それを強さへと変えた者だけが持つ、魂の輝きだ。
「……私の名を知っているのか」
「ええ。あなたの伴っている霊魂の匂い……。そして、その魂に刻まれた悔恨の記憶。隠しようもありません」
凜は、将吉の瞳を真っ直ぐに見据えて告げた。
「あなたは、尼港と、深い縁をお持ちの方ですね」
将吉の心臓が、死者であるにもかかわらず激しく脈打ったような錯覚に陥った。
「……なぜ、それを」
「わかりますとも。あのアムール川の氷の冷たさ、硝煙の熱さ、そして理不尽に命を奪われた同胞たちの慟哭。それらを背負う者の匂いは、どれほど時が経とうと消えることはありません」
将吉は、絞り出すように答えた。
「……左様だ。私の父、小林善吉は、大正九年の尼港にて……海軍の無線隊として、赤軍の暴虐に抗い、戦死した」
凜の表情に、深い悲哀の影が差した。彼女は静かに、自らの胸に手を当てる。
「……そうですか。あなたのお父様は、私と同じ空間、同じ時間を過ごしたのですね。私はあの日、あの地獄のような診療所から、父に逃がされた、あの少女です」
将吉の脳裏に、先ほど見せられた思念の断片が蘇る。馬先生の娘、凜。平太と明子の手を引き、燃え盛る街を駆け抜けた、あの十一歳の少女。
「そうか、その少女が…」
「ええ。陳世英少将の砲艦『江亨』に救われ、私たちは生き延びました。ですが、あの凍土に置き去りにしてきた魂は、今も尼港の闇を彷徨っています」
凜の声が、居酒屋の喧騒を切り裂くように、凛冽と響く。
「将吉様。我が先祖会も、そしてこの世界に漂う多くの霊魂たちも、今、シベリアの方向から忍び寄る不穏な影を感じ取っております。あの九十年前の惨劇を繰り返そうとする、どす黒い意志の残滓を。おそらく、あなたも気付いておられるのでしょう?」
将吉は黙って頷いた。有楽町の空を覆おうとしていた、あの「目」の感覚。
「私が知る限りのことをお伝えしましょう。あの日、私たちが『江亨』に救助された後、何が起きたのか。中国艦隊が、どのようにして赤軍の目を盗み、日本人や同胞を救い出したのか……。そして、救われた後の私たちが、何を胸に刻んで生きてきたのかを」
凜は、透明な手を将吉の額へと伸ばし、
「これは、尼港の『先』に繋がる物語。あなたの父君が繋いだ命が、どのように大陸を渡り、今のこの日本へと辿り着いたか……。すべてを、あなたの魂にインプットいたします」
刹那。
銀座のオシャレな居酒屋の光景が、激しい閃光と共に消失した。
将吉の意識は、再び、一九二〇年のアムール川――。
砲艦「江亨」の冷たい鉄の甲板の上へと、引き戻されていった。




