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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
1920年 シベリア編
19/54

19200312 凍れる河の「灯火」

 島田商会の課長、秋山隆三の自宅は、数分前まで確かな家族の温度が宿る場所だった。

 だが、その静寂は「革命」を叫ぶ暴徒たちの軍靴によって無残に踏み砕かれた。


 押し入れの隙間から、九歳の平太は、妹・明子の口を必死に手で塞ぎながら、その凄惨な光景を凝視していた。入ってきた赤軍パルチザンたちは、言葉を交わす間もなく、理不尽な暴力的殺意をもって両親を撃ち抜いた。


 静寂。

 雪の降る音さえ聞こえるほどの静寂が戻ったとき、平太は飛び出した。


「お父さん! お母さん!」


 床に広がった鮮血は、まだ温かい。九歳の少年が縋り付いた父・隆三の胸からは、命の灯火が急速に失われようとしていた。しかし、重傷を負いながらも隆三の意識は、最後の義務を果たそうと研ぎ澄まされていた。


「……平太、聞け。明子を……明子を連れて、逃げるんだ」


「嫌だ! お父さんたちも一緒に!」


「……マー先生のところへ行け。あの方は、助けてくれる……。行け、平太。振り返るな!」


 それが、父としての最後の方術だった‥‥。

 平太は震える手で明子の手を引き、硝煙と雪が入り混じる極寒の路上へと躍り出た。


――――


 馬先生の診療所に駆け込んだとき、平太は喉が焼けるような悲鳴を上げていた。

「馬先生! お父さんとお母さんが!」


 馬先生は、かつて日本への留学経験を持つ高潔な医師だ。日本語も堪能で、尼港において日本人と中国人の絆を繋ぎ、誰からも慕われる穏やかな男だ。彼は、血まみれで震える子供たちの姿を見て、事態の致命的な悪化を悟った。


「平太君、明子ちゃん。よく来たね。……大丈夫だ、おじさんがついている」


 馬先生の傍らには、十一歳になる娘のリンがいた。平太や明子とは、国籍の壁を越えて鬼ごっこに興じた幼馴染だ。だが、診療所の外からは、すでに暴徒たちの下卑た怒号が近づいていた。


 馬先生は窓の外に目をやった。アムールの港に停泊する中国艦隊の砲艦「江亨ジャンハン」が見える。あれが、この絶望の地における唯一の「対岸」だ。


「凜、聞きなさい。平太君と明子ちゃんの手を離してはいけないよ」


「お父さんは……?」


 馬先生は、娘の頭を優しく撫でた。その瞳には、すでに自らの運命を受け入れた聖者のような静謐さが宿っていた。


「お父さんは大丈夫。お医者さんだからね。これから平太君のお父さんたちの診察に行かなければならない。さあ、裏口から港へ走りなさい。ふねへ行けば、お父さんの仲間たちが助けてくれるよ…」


 気丈に振る舞う父の言葉を信じ、凜は二人の手を引いて裏口から飛び出した。


 裏口から飛び出した子供たちの足音が、雪に吸い込まれて消えていく。

 馬先生は、その消え入るような音を背中で受け止めながら、深く、静かな溜息を吐いた。これが、自分に課された最後の「診察」になるだろう。


ガガァァァンッ!


 暴力的な衝撃と共に、診療所の正面扉が蝶番ごと吹き飛んだ。なだれ込んできたのは、赤色のリボンを無造作に帽子に縫い付けた、数人の赤軍兵士たちだ。彼らは冷気と共に、獣のような体臭と安酒の匂いを室内に撒き散らした。


「動くな、ブルジョアの犬め! 隠し持っている金と宝をすべて出せ!」


 先頭の男が、泥に汚れた小銃を馬先生の胸元に突きつける。馬先生は、首にかけた聴診器を指先で弄びながら、眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めた。怯えるどころか、まるで往診に来た隣人を迎えるような、ひどくとぼけた調子で口を開く。


「……おやおや。宝探しも結構ですが、それよりも貴方、その左腕はどうしたんですか? ずいぶんと酷い出血だ。そんな状態で大声を出すと、傷口が開いて革命どころではなくなりますよ」


「な、なんだと……?」


 兵士は一瞬、毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。言われてみれば、彼の軍服の袖はどす黒い血に染まり、指先が小刻みに震えている。馬先生は一歩、あえて死の淵へと歩み寄った。


「そちらの彼も、ひどい顔色だ。おそらく凍傷が回っている。……私は医者だ。主義主張は知らんが、目の前で腐りかけている肉を見過ごすのは、職業倫理に反する。……どうです、まずはその物騒な鉄砲を置いて、温かい茶でも飲みながら傷の手当てをさせてもらえませんか? 命あっての物種ですよ」


 馬先生の言葉には、不思議な重みと慈愛があった。学もなく、ただ飢えと怒りに突き動かされてきた兵士たちは、尼港の聖者と呼ばれたこの医師の「威厳」に気圧され、顔を見合わせた。痛みと疲労に蝕まれた彼らの心に、一瞬、迷いが生じる。


「……おい、どうする。こいつ、本当に診てくれるのか?」

「……確かに…俺は‥腕の感覚がなくなってきてるんだ……」


 銃口が、わずかに下がった。

 馬先生は背後の裏口――子供たちが逃げた方向――に意識を集中させ、あと数秒、あと数十秒の時間を稼ごうと、さらに微笑みを深くした。


 だが、その人道的な静寂を、冷酷な軍靴の音が踏みにじる。


「何を、もたもたしている!」


 後ろから現れたのは、仕立ての良い外套を纏った、知性的な、それゆえに底知れぬ狂気を孕んだ眼差しの将校だった。彼はたじろぐ兵士たちを突き飛ばし、蔑むような視線を馬先生に向けた。


「……マー先生。日本で医学を学び、文明を説く知識人か。だが貴公の説く『慈愛』こそが、階級闘争を鈍らせる阿片なのだよ」


 将校は、馬先生の「とぼけた対話」が時間を稼ぐための欺瞞であることを、その怜悧な頭脳で即座に見抜いていた。


「革命に、医者の慈悲など不要だ。必要なのは清算だけだ」


「……残念です。学がある貴方なら、命の重みを知っているはずだと思ったのだが」

 馬先生は、もはや誤魔化しが効かないことを悟り、静かに背筋を伸ばした。その背中は、裏口を守る盾のように、凛として動かない。


「さらばだ、反革命の遺物め」


 冷たい宣告と共に、将校がホルスターから抜いた拳銃を向けた。


タァンッ!


 乾いた音が一つ。

 馬先生の胸元で、銀色の聴診器が火花を散らして弾け飛んだ。白衣が鮮やかに染まり、彼は一度だけ、遠い港の方角に視線を投げた。


(……走りなさい、凜。……生きるんだ、平太君、明子ちゃん)


 祈りは、言葉になる前に血の泡となって消えた。

 尼港の良心と呼ばれた医師の体は、自らの愛した診療所の床に、物言わぬ骸となって崩れ落ちた。その顔は、最期まで子供たちの逃げ道を塞ぎ続けるように、正面を向いたままだった。


―――――


 降り注ぐ銃弾と悲鳴の中を、三人の子供たちが駆ける。

 九歳の平太は、震える足で七歳の明子の背中を押し、十一歳の凜が先頭を走る。

 港にたどり着いた彼らの瞳に、巨大な鉄の塊――砲艦「江亨」が映った。


 タラップの上で警戒に当たっていた若い水兵、リュウは、泣き叫びながら走ってくる三つの小さな影を見つけ、銃を構えたまま硬直した。


「救命啊!!」

 凜は走りながら、精一杯の大声で、水兵たちに向けて叫んだ。


「……子供だ!。子供が逃げてくる!」

 劉の足が、恐怖で竦む。今、この子供たちを招き入れれば、赤軍への敵対行為とみなされる。艦が沈められるかもしれない。

 だが、その背後から、老練な下士官・ジャンが、弾かれたように飛び出した。


「何をぼさっとしている、劉!」

 張は身を乗り出し、泣きじゃくる明子と平太、そして同胞の娘である凜を、力強い腕で次々と抱き上げた。


「……張さん、まずいです! 赤軍に見つかったら、我々まで!」


「馬鹿野郎ッ!!!」

張の怒声が、硝煙の空を裂き…。

「子供一人助けられない軍隊が、一体どこの世界にある! そんな軍門なら、俺がこの手で叩き割ってやるわ!!」


 その怒号は、艦橋ブリッジにいた司令官、陳世英(少将)の耳にも届いていた。

 副官の趙は、青ざめた顔で進言する。

「司令官、これ以上は危険です。赤軍に悟られれば、艦隊ごと沈められます。我々の任務は、あくまで静観することのはず……」


 だが、陳世英は、窓の外で張が子供たちを必死にかばう姿をじっと見つめていた。その瞳に、失いかけていた「武士もののふの火」が再び宿る。


「趙。……我々は、何のためにここにいる?」


「それは……」


「国家の誇り? 任務の遂行? ……違う。それらはすべて、『人間を人間として守る』という土台の上にあるはずだ。その目的を果たせない組織に、一体何の存在価値があるというのだ!」


 陳の言葉は、趙の冷徹な理論を打ち砕いた。

「即座に命令を出す。タラップ付近に兵を展開させろ。船に逃げ込んでくる者、助けを求める者を可能な限り収容しろ。ただし、赤軍に悟られぬよう、隠蔽を徹底させろ。……一人も死なせるな!」


 趙は一瞬、目を見開いた。だが、次の瞬間には、その口元に微かな笑みが浮かんでいた。

「……承知いたしました。こうなったら、泥水をすする覚悟で、できうる限りの悪あがきをいたしましょう!」


 副官・趙は艦橋を駆け下り、兵たちに迅速な指示を飛ばす。

「各員、聞け! これより『目に見えぬ救助作戦』を開始する。子供たちを一番奥の船倉へ。毛布と粥を用意しろ! 赤軍の斥候が来たら、飯の準備だとでも言って追い返せ!」


 一九二〇年。極寒のアムール川で、国家も、思想も、国際法も死に絶えた場所。

 そこで唯一、息を吹き返したのは「人間としての誇り」だった。

 中国艦隊の兵士たちが、赤軍の脅迫という暗雲の下で、密かに、しかし命がけで繋いだ幼き命。


――その光景を、有楽町の夜空で共有していた将吉の瞳には、熱い涙が溢れていた。

 父・善吉が最期に見た地獄の中で、それでもなお「救い」は存在していたのだ。馬先生の自己犠牲、張の怒声、そして陳世英少将の決断を。


 父の怨念を晴らすため、そして、あの日子供たちを守り抜いた無名な英雄たちの名誉を汚さぬため。将吉は、闇に潜む怨霊たちへ向けて、静かな、しかし峻烈な殺意を研ぎ澄ませた。

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