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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
1920年 シベリア編
18/54

19200312 中国艦隊

 アムール川の冷気は、アセチレンランプの光を奪うほどに深く、重かった。

 中国北洋政府艦隊の砲艦「江享」。

 その狭く、湿った環境(艦橋)で、指揮官 陳世英ちんせいえいは、古びた海図台に両手をつき、泥のようにうなだれていた。


ズドォォォォンッ!


 ――数時間前、自らの艦が放った形式的な、しかし決定的な砲声が、まだ鼓膜の奥で熱く燻っている。急所を外したとはいえ、同じ海軍を、文明を共有する友軍を、赤軍の脅迫に屈して撃った。

 その事実が、鉄の枷のように彼の魂を締め付ける。


 陳は、アムールの氷下に閉ざされた「声」を聞いていた。

 この艦隊には、陸上戦力など存在しない。陸上戦闘経験のない乗員二百人そこそこ。

 その全員の命を、彼はこの凍土の最果てで預かっている。

 彼らの命を失わせることは、すなわち彼らの故郷、中国の家族の人生を奪うことだ。

 そして何より、この組織の、北洋政府の本来の任務は何か。それは、尼港に在留する二千人もの中国人同胞の命を保護することだ。


(……だが、私は今、目の前で、彼らの命が踏みにじられるのを、ただ黙って、あるいは加担して、見ているだけではないのか)


 陳の心の中で、数日前の記憶が、濁流となって押し寄せる。

 ‥‥‥‥

 四千を超える赤軍パルチザンの軍勢が町へ雪崩れ込んできた日。

 陳は、彼らの指揮官である僅か二十三歳の若造、トリャピーツィンと、妄信的な共産主義の思想に取り憑かれている女、ニーナの前に立っていた。

 

 その時、陳は意図的に、懐柔する姿勢を赤軍に見せていた。


『なんと素晴らしい民衆の軍隊だ! 革命の同志よ、我々もまた、帝国主義に抗う同じアジアの兄弟である!』


 陳のその称賛は、もちろん本意ではなかった。彼らに与すると見せかけて、統制のない暴徒の内情を探り、中国人同胞を守るための機を窺うための、虚飾の言葉に過ぎなかった。


(実践経験はあると聞いた。だが、二十三歳の若造が、妄執に囚われた女と何ができる。……垣間見た奴らの内情は、革命などという高尚なものではなかった。ただ賛同する面々が、各々の欲望を満たそうと、略奪の機会を狙っているだけの、欲望の集まりだ)


 統率など、微塵もない。それは、町の不良どもであればまだ、笑って済ませられるかもしれない。だが、それが「武力」を持ってしまった以上、文明は死に、秩序は崩壊する。陳は、彼らの任務を果たすためには、一旦懐柔を見せ、時間を稼ぐしかなかったのだ。


(だが……その姿勢が、甘かったのだろうか。私は、奴らに『加担』したことで、結果的に、赤軍の暴挙を助長し、文明国の外交官を殺害する手助けをしてしまったのではないのか)


 陳の心の中は、自己嫌悪と迷い、そして無力感でうごめいていた。自分は何のためにここにきているのか、何を守るべきなのか。その答えが、硝煙の尼港の闇に溶けて、見えなくなっていた。


 陳の重苦しい沈黙を破ったのは、副官・趙景瑞ちょう けいずいの冷静な声だった。彼は艦橋の窓から、硝煙と炎に包まれる尼港の町を、ただ黙って眺めていた。日頃から陳に対して現実主義な意見を述べてくる趙は、陳の葛藤を見抜いたように、振り返ることなく諭した。


「司令官。……我々が今、このアムール川の氷の下に沈められては、何の意味もありません。中国人同胞の命も、我々の乗員の命も、ここで全滅すれば、誰が彼らの無念を故国へ届けるのです」


「趙……」


趙は、ゆっくりと陳の元へ歩み寄った。その瞳には、陳のような自己嫌悪ではなく、冷徹なまでの機を狙う光が宿っている。


「機を見極めるのです。赤軍は、統率のない暴徒の群れ。欲望が満たされれば、必ず内側から崩壊を始めます。日本領事館への砲撃も、奴らへの忠誠を形式的に見せるための、苦肉の策に過ぎない。……奴らも、我々が本気で狙っていないことは、分かっているはずです。だからこそ、ガトリング砲を奪った。我々の砲撃では、日本軍を壊滅させられないと見抜いたのです」


趙の言葉は、冷たい氷のように、陳の迷いを凍らせ、現実へと引き戻した。


「奴らが我々を利用しようとするなら、我々もまた、奴らを利用して、中国人同胞を守り抜く。……そのためには、一旦、奴らに従うフリをする。沈黙し、機を見極め、反撃の時を待つ。……それが、今、我々が果たすべき、唯一の任務です」


 陳は、趙の冷徹な現実主義に、微かな救いを感じていた。趙の言う通りだ。ここで沈められては意味がない。中国人同胞を守り抜くためには、文明の矜持を一時的に捨て、泥水をすすってでも生き延び、機を見極めねばならない。

 陳は、重く、しかし確固たる決意を込めて、趙の視線に応えた。


―――――――――


 日本領事館への形式的な砲撃を終えた艦隊は、赤軍の目を誤魔化すように、英国領事館そばの桟橋へと移動した。

 陳の命令で、水兵たちに小銃を持たせて桟橋に展開させ、英国領事館への警戒に当たらせようとした。

 だが、陳たちの願いも虚しく、英国領事館は既に火に包まれていた。

 日本領事館と同様、国際法など意味をなさない状態に破壊されている様子だ。

 遠目に見ても、おそらく領事はじめ関係者は惨い状態になっていることが垣間見える。


 桟橋に展開した若い水兵、りゅう 志成しせいは、冷気と硝煙、そして英国領事館の慘状に、震えながら銃を抱えてタラップの前で警戒に当たっていた。彼はまだ二十歳にも満たない、故郷の村を愛する素朴な青年だ。彼にとって、この尼港の地獄は、あまりにも残酷で、恐怖に満ちていた。


「劉、よォ。ちびりそうか」


 劉の震えを察したように、老練な下士官、ちょう 福海ふくかいが近づいてきた。彼はアムールの冷気にさらされた、古びた毛皮の帽子を深くかぶり、劉の小銃を軽く叩いた。その瞳は、劉のような恐怖ではなく、数々の修羅場をくぐり抜けてきた、老練な兵士の光が宿っている。


「そりゃあ、そうだよなあ。こんなのを垣間見ちゃあなあ。日本人も、中国人も、ロシア人も、みんな……赤軍の暴動で、殺されていく。英国人まで……。文明なんて、ここでは何の役にも立ちゃしない。ただの……地獄だ」


 張の声は、冷気と硝煙の闇に溶けて、どこか寂しく響いた。


「ただよ、劉。お前、何のためにお前がここにいるのか。それを、忘れるな。

……お前がここにいるのは、同胞を守るためだ。故郷の村を、愛する家族を、赤軍の暴動から守るためだ。……同胞を一人でも多く助け出し、故国へ送り届ける。それが、お前の、我々の、本来の任務だ」


 張の言葉は、劉の恐怖を、故郷への思いへと切り替えさせた。


「英国領事館も、日本領事館も、赤軍に焼き払われた。だが、我々は……まだ生きている。この艦隊は、まだ沈められていない。同胞を守るための、中国人としての任務を果たすための、唯一の希望だ。……だから、劉。お前も、ここで生き延びるフリをするな。沈黙し、機を見極め、同胞を助け出す。……それが、お前がここにいる、唯一の理由だ」


 張は、劉の肩を力強く叩き、英国領事館の火を見つめた。


 文明の矜持、国際法の正義。それらは、ここでは踏みにじられた。だが、軍人としての任務、同胞を守るという人道の思い。それだけは、アムールの凍土に閉ざされたとしても、決して消えることはない。

 張の言葉は、冷気と硝煙の桟橋で、艦隊の沈黙の誓いとして、劉の魂に宿った。

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