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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
1920年 シベリア編
17/54

19200312 文明の死

「領事館を明け渡せ! ここを革命軍の陣地とする!」


 静寂を切り裂く怒声とともに、雪に覆われた領事館の正門が暴力的に押し開かれた。

 雪を踏みしめる軍靴の音。敷地内に雪崩れ込んできたのは、赤色のリボンを帽子に縫い付けたパルチザンの一団だ。彼らは正規軍とは言い難い、野卑で雑多な風貌をしていた。

毛皮の帽子からは脂ぎった髪が覗き、その眼差しには「革命」という大義名分を隠れ蓑にした、剥き出しの略奪欲がぎらついていた。


「領事! 行かせてはなりませぬ。奴らは言葉の通じる相手ではない!」

 海軍陸戦隊の指揮官、石川少佐が石田領事の前に立ち塞がっていた。

 彼の軍服はこれまでの戦闘で煤け、その眼光には悲壮な覚悟が宿っている。


「石川少佐、どいてくれたまえ。私は日本の、そして文明国の外交官だ。ここには女子供もいる。これ以上の流血を防ぐには、法の下に対峙するしかないのだ」


「彼らに法などという概念はありません! 出れば、即座に撃たれます!」


「……ならば、私が撃たれることで、彼らの非道が世界に証明されるだろう」


 石田領事は、少佐の制止を静かに、しかし鋼のような意志で振り払った。彼は乱れた服装を整え、外交官としての矜持をその背に背負い、一歩、また一歩と、死の待つ玄関へと歩を進めた。

 建物の玄関前、石田領事はたった一人、毅然とした足取りで彼らの前に立ちはだかった。

 背筋を伸ばし、外交官としての威厳を纏ったその姿は、狂気に染まった暴徒たちの中で、唯一残された「文明」の灯火のようだった。


「止まれッ! 貴殿らはここをどこだと思っているのか」


 石田の声は、冬の澄んだ空気に鋭く響いた。先頭に立つ、外套を羽織った尊大な態度の赤軍将校が、冷笑を浮かべて足を止める。


「どこだと? 見ればわかるだろう。帝国主義者の豚どもが、略奪した富で建てた贅沢な隠れ家だ。今日からは、我々民衆の軍の指揮所となるのだよ」


「無礼な!……いいか、よく聞け。ここは日本帝国領事館である。万国公法(国際法)に基づき、この敷地内はわが国の主権が及ぶ不可侵の地であり、治外法権によって守られている。外交官の身体、そしてこの館に避難している居留民の安全を脅かすことは、国際社会に対する重大な挑戦であり、断じて許されぬ蛮行である!」


 石田の言葉は正論であった。だが、それを聞く将校の眉が、嘲るように吊り上がる。


「万国公法? 治外法権?……クッ、ハハハハハ!」


 将校は腹を抱えて笑い出した。後ろに控える賊たちも、領事の言葉が理解できないのか、あるいはその真面目さが滑稽なのか、下品な笑い声を上げる。


「石田領事、貴公はまだそんな紙切れの上の戯言を信じているのか。このシベリアの凍土に、法律などという温い風は吹かぬのだよ。ここにあるのは『銃口』という名の真実だけだ。貴公らの信じる『法』とやらは、我が弾丸一発で粉々に砕ける程度の代物だということを、まだ理解できんのか?」


「法を軽んじる者に、明日を語る資格はない! ここを侵せば、貴殿らの志す革命とやらは、ただの略奪者の火事場泥棒に成り下がるぞ!」


 石田の必死の説得を、将校はもはや耳に入れようともしなかった。彼はふい、と建物の窓に目を向けた。そこには、美しく磨かれたピアノ、そして恐怖に震える女子供の影が見えた。将校の口元に、残忍な欲望が浮かぶ。


「……話は終わりだ。退屈極まりない」


 将校は、目の前を飛び交う羽虫、あるいは耳元で鳴く蚊でも追い払うかのように、無造作に、そしてひどく軽蔑を込めて右手を振り上げた。顔さえ、もう石田を見てはいなかった。


「始末しろ。反革命の残党どもを、一人残らずな」


その背中越しに、将校が振り返ることはなかった。


タタタタタッ!


 一斉に火を吹く銃口。無慈悲な鉛の弾丸が、石田の胸元を、腹部を、容赦なく撃ち抜いた。

 白一色の雪原に、鮮血の花が咲き誇る。石田は、国際法の正義をその瞳に宿したまま、声もなく雪の上に崩れ落ちた。


「野郎ッ……よくも領事をッ! 撃てッ! 応戦しろッ!」


 石川少佐の絶叫とともに、領事館の窓から陸戦隊が一斉に応戦を始めた。善吉も南部式を放つ。だが、それはあまりにも微力な抵抗に過ぎなかった。


 領事館を守っていた海軍陸戦隊員たちは、四方から機銃掃射が浴びせられる。

 割れた窓ガラスが砕け散り、その隙間に、柄付きの手榴弾が、回転しながら投げ込まれた。


「しまっ――」


 轟音。

 視界が真っ赤に染まり、領事館のカーテンが、書類が、そして平穏だった日々が、一瞬にして火柱へと飲み込まれていった。


 火の粉が舞う中、善吉は残弾の尽きた拳銃を捨て、傍らにあった三八式歩兵銃を手に取った。


「うおおおおおっ!」


 煙の中から突入してきた、毛皮帽を被ったパルチザン兵の腹に、銃剣を深々と突き立てる。生暖かい肉の感触。だが、その直後だった。


タタタタタタッ!


 背後から浴びせられた機関銃の掃射。背中を、熱い鉄の塊が次々と貫いていく。


 力が抜け、膝をつく善吉。意識が急速に遠のく。

 崩れ落ちる意識の中、善吉が最後に見たのは、火柱の向こう側。

 

 晴れ着を纏った娘を抱きかかえ、領事夫人が、まるで揺り籠を揺らすように静かに歌を続けている姿だった・・・・・。


「♪ こころざしを はたして……いつの日にか 帰らん……」


 燃え盛る館が、まるで故郷の夕焼けのように部屋を朱に染めている。その地獄の中で、夫人の歌う『ふるさと』の旋律だけが、あまりにも清らかに、あまりにも残酷に響く。


「♪ 山は青き ふるさと……水は清き ふるさと……」


 娘は母の胸に顔を埋め、子守唄を聞きながら、静かに目を閉じていた。爆音も、叫び声も、その瞬間だけは母の愛に遮られて届かない。

 善吉は、その静謐なまでの横顔を見届けながら、命の火を消した。


―――――――


 熱い。

 そして、あまりにも冷たい。


 ‥‥‥‥


 次に善吉が目を開けた時、彼は雪の上に立っていた。自分の死体を見下ろしながら。周囲には、石田領事や守備隊の仲間たち、そして惨殺された居留民たちの霊が、ただ静かに、口を噛み締めながら佇んでいる。


 彼らは帰国を叶わぬまま、その地に縛られた「地縛霊」となった。


 そこから見た尼港は、現世の地獄そのものだった。

 パルチザンは投降した日本兵を辱め、凍ったアムール川に穴を空けて突き落とした。さらに、日本人への協力を疑われた地元のロシア市民や中国の在留者たちも、老若男女問わず、無差別に殺害された。町の反対側にある英国領事館も自分達と同様に、国際法等意味をなさない状態に破壊されている様子だ。


 血が氷を溶かし、アムールの流れは赤黒い泥となって澱む。


「…………ああ、ああああ…………」


 声にならない慟哭が、凍てつく空に響く。

 善吉は、自分の手が、透明な霧のように透けているのを見つめた。

 この恨み、この無念。誰に届くこともなく、百年の時を超えて、この凍土に埋もれていくのか。


 (……やえ。……やえ。……すまない)


 善吉の魂は、激しい吹雪に巻かれ、尼港の廃墟へと溶け込んでいった。


――――――――


 一九二〇年五月。

 流氷が溶け、アムール川が再び航行可能になると、日本の救援隊が尼港に到着した。

 そこで彼らが見たのは、焼き払われた街と、変わり果てた同胞の姿であった。救援隊は、善吉をはじめとする殺害された日本人たちの遺体を慎重に回収し、故国へと移送した。


 その時、善吉の魂は、ようやくニコラエフスクの凍土から解き放たれる。

 日本へ帰る船の甲板で、彼は同じく霊体となった仲間たちと共に、遠ざかるシベリアの大地を見つめていた。


 だが。

 あの凄惨な最期、国際法を蹂躙した者たちへの義憤、そして愛する家族を遺して逝かねばならなかった未練。その強烈な怨念の一部は、肉体と共に帰国することができず、その地に地縛した。


―――――


「戦国の世も、大正の世も、何度同じ悲劇が繰り返されるのでしょうか」

 有楽町のビアガーデン。志乃がマフラーに顔を埋め、声を殺して泣いている。

 父の壮絶な記憶を共有した将吉は、拳を血が滲むほど握りしめ、九九式小銃の銃身を震わせた。


 「許さねえ……。あの凍土で、親父たちを笑った奴らの残滓を……俺がこの手で、一匹残らず墜としてやる」


 有楽町の夜空に、見えない銀翼の咆哮が重なった。父・善吉が繋ごうとした「絆」を、今度は息子である将吉が、その銃身に込めて守り抜く番だった。

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