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時計の針が午前二時を回ろうとしている。自販機が並ぶ喫茶コーナーは今は無人で、機械の唸り声だけが微かに響いていた。
「お前、何を考えてるんだよ……」
イスの上に体を投げ出し、井崎は誰にともなく呟いた。さすがに疲れた。何より精神的に堪えたのは、やはり昼間の、真幸の母親との一件だった。
例の人物と真幸は、いったいどんな会話をしていたのだろう。考えれば考えるほど、思考は悪い方向に向かっていく。響也の話を聞く限り、例の人物は総合病院の医師たちの評判を落とすようなことばかり口にしていたらしい。
そんな人物が勧める薬を飲んだということは、真幸もまたこの病院の医師に、特に主治医である自分に、疑いの目を向けていたということになる。
死なせてくれ、と言ってきた真幸と、いっそ死なせてやってくれと言ってきた彼の母親の姿が、まるで亡霊のように付き纏う。大きく息をつく。この仕事をしていると、割り切れない思いをすることも多々ある。
特に、若くして植物状態となってしまった患者のことを考えるときは、いつだって答えの見えない迷路に迷い込んでしまったような気分になる。
植物人間を抱える家族は、精神的苦痛だけではなく、多大なる経済的な負担も覚悟しなければならない。そして当然だが、植物状態になる患者のすべてが、経済的に豊かな家柄ばかりではない。
無意識に頭を抱えたとき、廊下を歩いてくる足音が聞えてきた。
「何してるんですか」
大野だった。慌てて身を起こし、白衣の襟を正す。視線が交わり、互いに無言の時間が過ぎた。
「木村真幸くんの保護者との話、聞きましたよ」
最初に口を開いたのは大野の方だった。今一番、聞きたくないと思っていた話題なだけに、つい視線を床に向けてしまう。そんな井崎を、大野は黙って見下ろしていた。
「大野先生なら、どうしますか?」
沈黙に耐え切れず、ついそんなことを聞いてしまう。
「何がですか? 質問の内容は具体的に言ってください」
相変わらずの態度に苛立ちが募る。だが、今は大野と言い争うだけの気力がなかった。
「だから、植物人間になった息子を死なせてくれと言われたら、どう答えるかっていう話ですよ」
「そんなの、現行法では無理だと答えるだけですね」
あまりにもあっさりとした答えに、井崎は思わず絶句した。軽く息をつき、大野は言葉を続ける。
「尊厳死に関する法律ですけど、個人がどう考えようと、近いうちに必ず成立するでしょう。大義名分はどうあれ、国が尊厳死を合法化させたい理由なんて決まってます。少子高齢化の影響で医療費は毎年のように膨れ上がっていて、国の予算を切実に圧迫しているからです。どんなに綺麗事を持ち出してきたところで、税金を納めることができない寝たきりの患者、あるいは治る見込みのない患者に、これ以上、予算を取られたくないという本音は隠せません」
大野は自販機に歩み寄っていき、硬貨を落とし込んだ。ほの暗い喫茶コーナーに、僅かな明かりが灯る。どうぞ、と促された。一瞬、目を開けたまま夢を見ているのではないかと思ったほど戸惑ったものの、好意はありがたく受け取ることにした。
「まあ、国の思惑はともかく、現場ではいろいろ問題が出てくるでしょう。それこそ、死生観なんて人それぞれだし、医者の前では無力な患者のフリをしていても、裏では何を考えているか分かったモンじゃないって人もけっこういるんですから」
大野の言うことは分かる。井崎は手の中のコーヒーをきつく握り締めた。苦痛を取り除くことを目的にした終末期医療や、安楽死とはまた違った意味で、尊厳死とはまた非常に難しい問題だ。
「正直、植物状態になった人や、正常な意識を保っているのに首から下が完全に麻痺してしまった患者に出会うたびに、僕自身、複雑な思いに駆られます。生産力がある人だけが生きる資格があるなんて思いません。しかし、もし自分の身にそれが起きたら、いっそ死なせてくれと頼むでしょうね」
何でもないことのように「いっそ死なせてくれと頼む」と言ってくれた大野に、井崎は再び絶句させられた。そんな井崎を、大野は感情の読めない目で見据える。
「僕は医者としての仕事に誇りを持っているんです。プライベートでは、プラモ作りに心血を注いでいる。仕事も趣味もできないで、ただ生かされているだけなんて、苦痛以外の何物でもないです。あなたはどうですか? 毎日毎日、何をするでもなく生かされていくだけの人生に、耐えられると何の迷いも無く断言できますか?」
黙り込んだ井崎を見下ろし、大野は淡々とした口調で続ける。彼が何を言いたいのか、井崎にはさっぱり分からなかった。
「ただ、五体満足で健康である今だからこそ、そんな風に思うのではないかと思うこともあるんですよ。もしかしたら、土壇場で死にたくないと喚くかもしれない」
え、と顔を上げると、大野はこれみよがしな溜め息をついた。
「あなたもERの勤務医なら、どう頑張っても助からないと思われる患者が、まるで奇跡のように息を吹き返すという経験をしたことが、一度や二度はあるでしょう? 僕はあなたより五年ほど長く医者をしている分、五年分ほど多くそういう患者を見て来ているんです。どんなに最先端の医療器具を揃え、どんなに優秀なスタッフを集め、どんなに万全の態勢で臨んでも、戻らない患者は戻らない」
「……そう、ですね。そういう経験ならありますが……」
「僕は、植物状態であれ、麻痺であれ、息を吹き返すのは患者自身が生きようとした結果なのではないかと思うんです。患者が患者自身の死生観に基づき、何を言っていたかは別にして、生死の境を彷徨った挙句にこちら側に戻って来たということは、患者自身の力で生きようとした結果、生きているんだとね。僕はそう考えてます。それに、考え方なんてコロコロ変わりますよ。生きてるんだから」
大野は軽く息をつき、コーヒーを煽った。
「そして僕たちは、たとえ自分の処置のせいで患者が植物状態になったとしても、その影響で患者の家族が自殺しようとしたとしても、患者がERに担ぎ込まれてきたら全力で救命措置をしなければならない。法律がどうあれ、家族がどうあれ、本人の意志がどうあれ、医師の仕事は命を救うことで、魂を救うのは別の専門家の仕事だからです」
大野は、呆れるほど教科書通りのことを言っていた。だが、その一言一言は紛れもない正論に聞える。初心に返るとは、きっとこういうことを言うのだろう。だが、疑念も浮かぶ。
「しかし……尊厳死の法律は成立するんでしょう?」
大野の表情は変わらなかった。
「ええ、するでしょう。けれど、そういう基本さえ忘れずにいれば、僕は決して重大なミスは犯さずにすむはずだと思っているんです」
そして、沈黙が落ちた。
「ところで、仮に近い将来、尊厳死に関する法律が成立したとして、木村真幸くんは、本当に死を選ぶと思いますか? 僕には、彼はそんな殊勝な性格には見えませんでしたが」
「そればっかりは……分かりません。ただ、真幸が俺を筆頭に、この病院の医療スタッフに不信を抱いていたのは事実だろうと」
「だったらなおさらですよ。このまま彼を死なせてはいけない。あの手術は、間違いではなかったんです」
思わず何かを言いかけて、口を開いたものの、結局言葉は出てこなかった。自分でも、何を言いたかったのか分からなかった。
「ついでに、彼の脳外科手術をしたのは僕なんです。彼が植物状態にある責任の半分は僕にあるということも忘れないでください」
「あ、すみません……」
反射的に謝ってしまった。大野が何ともいえない顔をする。
「井崎先生に謝られると気味が悪いですよ」
そこまで言うことか、と思いつつ、言い返す言葉は思いつかなかった。なぜか、その時、大野が肩の力を抜くのが分かった。
「僕は、井崎先生が苦手です」
思わず顔を上げると、相変わらず表情が読めない大野が自分を見下ろしていた。
「もっとはっきり言わせて貰えば、死ぬほど嫌いです」
「……死ぬほどのことですか、それ」
「ええ。もちろんですよ。あなたは、準・最高学府の医学部卒で、院長直々に向こうの大学病院からこんな田舎の総合医療センターに引き抜いてきた、若手のホープでしょう? 話を聞いた瞬間から虫唾が走りましたよ、本当に」
言葉に詰まった井崎をチラリと見やり、大野はこれみよがしな溜め息をつく。
「準・最高学府の医学部なんて、僕には到底無理です。それでも、救急医療の現場は教科書通りにはいかない。地方大学出身だろうが、有名大学出身だろうが、現場で磨いた腕は決して負けない。そんな風に思ってました。実際、ここにやってきたあなたは地元大学出身の我々を軽視しているように見えた」
「そんなことは……!」
思わず腰を浮かせた井崎を、大野は身振りだけで制した。
「どうでしょうね。例えば、あなたは堀内先生の患者である岡部さんの容態が急変した際、主治医が出向いたにも関わらず、駆けつけていった。僕から見れば、まるで堀内先生の実力を軽視しているような行動に見えました」
咄嗟に返す言葉が思いつかなかった。自分の取った行動が第三者にどう見えるかまでは考えていなかった。
「ただ、今では違うと分かりました。あなたはそこまで考えて行動してない。むしろ、僕がそう思いたかっただけなのかもしれない。誰もが羨む有名どころからやってきた、鼻持ちならないエリート。そう思っていれば、あなたを批判する口実になりますから」
井崎は苦笑を浮かべる。
「僕は、大野先生が思っているような、できた人間じゃないですよ」
正直、意外だった。ただ性格が悪いだけだと思っていた彼もまた、届かなかった場所、辿り着けなかった目標に、付き纏われているのだ。自分と同じように……。まったく、人というものは分からない。
「それならそれで別に構いませんよ。前に、あなたは僕のことを優秀な医師だと言ってくれた。その一言で充分です。いろいろ、すみませんでした」
一瞬、絶句した。
「……大野先生に謝られると、気味が悪いですね」
言ってしまった後でハッとする。大野は特に何も言わない。そして、「では、僕はこれで」と言って颯爽と歩み去って行ってしまった。
ひとり取り残されたような気分で、手の中の缶コーヒーを煽る。今まで倦厭してきたが、缶コーヒーの味も、悪くないと思った。




