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「遅くなってごめんな」


 そろそろ消灯という時刻、井崎は回診のために響也の病室を訪れた。声をかけてカーテンを開ける。文庫本を読んでいた響也が顔をあげた。


「また難しい本を読んでるなあ」


 表紙とタイトルを見た瞬間、げんなりした井崎を見やり、響也は意味深に笑ってみせた。


「カバーだけね」


 彼がおもむろにカバーを外すと、中から出てきたのは、いわゆるラノベというものだった。しかも、どうやら内容は男性の同性愛を扱ったものであるらしい。


「母さんに、家の本棚から届けてもらったんだ。普段から工作してると、こういう時に便利だよね。妹にはバレたけど」


 ベッド脇には、数十冊の文庫本が紙袋の中に入っていた。これすべてがゲイ小説か、と思うと、今度は別の意味でげんなりした。


「元気そうでよかったよ。変わったことはない?」


 気を取り直して問診にかかる。響也は予定通り脾臓摘出手術を終えた。さしたる問題もなく手術は終わり、予後も検査結果を見る限り、安定していると言える。パジャマのシャツを捲って手術痕を確認すれば、特に化膿している様子も無かった。


 順調そうだ、と思った時、シャツを直しながら響也がふと思い出したように井崎の方に視線を向ける。


「変わったことって言うか、こないだ話したオッサンが、さっき、それ置いていった」


 響也がテーブルの方を指差すので、井崎はそちらを見やる。そこには、パッケージされた錠剤が二粒、置いてあった。訝しく思って文字を追い、井崎は思わず顔色を変えた。


「置いていった? これを?」


 井崎の様子に気付いたのか、響也の表情がやや強張った。


「なに……? なんか、マズイの、それ」


「冗談じゃ済まされないぞ。まさか、飲んでないよなっ?」


 身を乗り出して問うと、響也は僅かに怯えた素振りを見せながらも首を振った。


「飲んでないよ。どんな薬か分からないし」


「本当だな?」


 響也は幾度も頷いた。飲んでないなら大丈夫だ、とほっと息をつく。「なんでこんなものを」思わず呟くと、響也が戸惑いながらも口を開いた。


「あのオッサン、いつもいつも、その……先生たちの悪口ばかり言ってて……ここの医者が出した薬を信じたらダメだって言ってて。それで、明日の朝、朝ごはんの時に配られる薬は飲まないで捨てろって。代わりにこれを飲んだ方が絶対によくなるって」


 そんなわけあるか、と内心で毒づいた。


「医者が言うんだから、間違いないって言ったけど……でも……」


 困ったように言う響也に、井崎は幾度か頷いてみせた。


「相談してくれて良かったよ。響也くんがこれを飲んでたら、ちょっとマズイことになっていたかもしれない」


 僅かに顔色を変える響也を見て、井崎は安心させるように彼の肩を叩いてやった。


「大丈夫だよ。それより、また例のオッサンが来たら、すぐにナースコールしてくれないか。これはもう悪戯とか悪ふざけ、嫌がらせの問題じゃない。明らかな悪意だぞ。昼でも夜でも構わなくていいから。分かった?」


「分かった……」


 いつも以上に青白い顔で頷く響也を見やり、井崎は錠剤を握り締めたまま、病室を後にした。



「免疫抑制剤です。例の症例で入院している夏川響也くんが渡されたと教えてくれました」


 もうじき日付が変わろうとしている時刻にも関わらず、医局の中には緊急招集をかけられた医師たちが一同に会していた。


「……今の状態で免疫抑制剤なんざ飲んだら、頭の中でトキソプラズマが大喜びするだろ。冗談抜きで言ってるのか」


 残って仕事をしていたらしい室井の質問に、井崎は頷いた。


「分かっていて渡したとしたら、明らかな犯罪です。早急に人物の特定をするべきではないかと」


 井崎の視線を受け、部長が曖昧に頷く。


「響也くんには、もしその人物がまた現れたらすぐにナースコールするよう伝えてあります。看護師にもその旨を徹底しました。今回は未遂に終わりましたが、同じことが起きないとは限りません」


 脳裏に蘇ったのは、隣のベッドの患者から貰ったという鎮静剤を安易に服用し、集中治療室へ逆戻りする破目になった患者の姿だった。大野も同様らしい。難しい顔で俯いている。


「しかし、いったいどこでこんな薬を手に入れたんでしょうね」


 解せない、という声をあげたのは時任だった。


「一般の患者さんは、薬剤局にはそうそう立ち入れないでしょう。薬剤師が処方箋もなしに免疫抑制剤なんて出すはずありませんし、医師が処方箋を書いたとしたら必ず記録が残ります。他の医師の患者に処方箋を書けば何かしら言い訳が必要になるし、万が一、盗みに入るにしても……」


 監視カメラで厳重に監視されているのだ。誰にも気付かれずに薬を持ち出せるはずはない。おのおのが真剣な顔で頭を捻り始める。一歩間違えば容易に毒物と成り得るからこそ、薬剤は危険であり、その管理は厳重にされる。普通に考えれば、持ち出す手段がない。


“内科の看護師から聞いたんだけど、こっちが出した薬、飲まないで捨てちゃう人とかいるらしいよ! それも膠原病で免疫抑制剤よ、免疫抑制剤! 病気が悪化するのなんて当たり前じゃない!”


“免疫抑制剤を捨てるとか、冗談でしょう?”


“こんなもの飲んでもよくならん! セカンドオピニオンを聞いたんだ! とか言ってたらしいわよ。開業医でも呼び出したのかしら”


 井崎の頭の中に蘇ったのは、いつか当直室で聞いた看護師たちの噂話だった。井崎はゆっくりと挙手する。次第に、医局の中からざわめきが引いていく。


「おそらく、膠原病その他の免疫疾患を患っている患者さんから譲り受けたか、騙しとったものだと思われます」


 井崎の言葉を聞いて、医師たちは顔を強張らせた。彼らの硬直した様子を眺めながら、ここ最近、内科に入院している患者が薬を飲まずに破棄してしまうことが多いという話をした。


「……監視カメラに見張られた薬局から、まるで怪盗のごとく薬を持ち出すよりは、現実的ですねえ」


 部長の冗談には、誰も笑わなかった。


「早急に内科にも連絡を入れましょう。患者同士で薬のやり取りをするのは、絶対に止めるよう患者さんに徹底しなければ、いつか必ず死亡事故か、それに類する事故が起こります」


 井崎は自分の言葉に激しい違和感を覚えた。取り返しのつかない事故が起きるのは「いつか」ではない。咄嗟に浮かんだのは、真幸の顔だった。


「木村真幸くんですが、意識障害が起こるのが早すぎる」


 井崎の呟くような声に、再び医局の空気が凍りついた。井崎は、手元にあるあらゆる資料を引っ掻き回して情報を整理した。


「まず、一番最初に例のフィラリア症の患者が運ばれてきたのが七月十四日でした。橋本啓二さん、三十八歳。僕の知識不足のせいで、上へ下への大騒ぎになった回虫症の患者さんです」


 幾人かが口元を緩めたが、声を上げて笑う者はいなかった。


「本人に確認した結果、ゴールデン・ウィーク開けに狂騒状態の犬に噛まれたという事実を認めました。緊急手術の予後は良好で、一週間ほどで内科へ移ってもらいました。内科にアナムネ(経過確認)を取った結果、未だに輸血は欠かせないようですが、今のところ悪化はしていないようです」


「橋本さんの場合だけは回虫症があったからな。全身性出血からくる倦怠感を訴えてなくても仕方ないだろう。イレウス(腸閉塞)の激痛に比べりゃあ、倦怠感なんざなあ……」


 室井が言い、井崎も頷く。


「続いて七月十六日、DOA(搬送時・死亡)の遠野久子さん五十五歳。彼女の場合も五月中旬に犬に噛まれたという事実があります。意識障害が出たのが、うちに搬送されてくる二日前。そして響也くんは、犬に噛まれたのが六月の十二日で、八月五日に入院しました」


「つまり、犬に噛まれてからトキソプラズマ脳炎による意識障害が出るまで、最低二ヶ月は必要だということですか。それも、何の治療もしていない状態で」


 大野が言い、井崎は「そうです」と答えた。


「今までの例からすれば、この症例はウィルスに感染してから自覚症状が出るまで二ヶ月は必要で、さらに、そこから意識障害が出るまで多少なりとも時間がかかる。真幸の場合、入院して輸血治療を受けていたにも関わらず、ウィルス感染から二ヶ月弱でトキソプラズマ脳炎を発症した」


「……免疫抑制剤を飲んだ可能性がある、ということか」


 真剣な顔で聞く室井に、井崎は頷いて返した。


「そうとしか考えられない。それに、例の人物が真幸と響也くんたちの病室を訪れていたらしいという話を聞いている。例の人物が真幸に何をしていたのかまでは分からない。なぜなら、響也くんはその間、点滴を外されて外に出ていたから、です」


 つい室井に向かって話していたが、周囲には年配の医師たちもいるということを思い出して、慌てて口調を正した。


「……こういうことは言いたくありませんが、もしかして小野田隆弘くんの死因も、その人物に関係しているんじゃないでしょうか」


 戸惑いがちに声を上げたのは、問題の小野田隆弘の主治医を務めていた田村だった。


「そこまでは……」


 可能性はある。だが、井崎は言葉を濁した。


「それを言うなら、岡部輝彦さんはどうなりますか。尿路結石で入院していたのに、いきなり溶血性のショックで亡くなった」


 問いかける堀内の声は、興奮のせいか掠れて聞こえる。岡部輝彦。響也の母親の浮気相手であり、彼の売春相手だった男だ。一見、紳士にしか見えなかったその顔を思い出しつつ、井崎は微かに表情を歪めた。


「岡部さんに関しては、病理解剖が適用されました。おそらく、血管内で溶血反応が起きたのは間違いないと思われます。ただ、細かい検査結果が出るまでにはまだまだ時間がかかるでしょう。現時点ではまだ何ともいえませんよ」


 解剖とはそういうものだ。井崎が答えると、堀内は納得できない様子ながらも引き下がってくれた。


「分かっていてやっているんだろうか」


 しばしの沈黙の後、大野がぽつりと呟くように言った。


「一般の患者に……それこそピリメタミンとエンドトキシンの区別が付くとは思え

ない。適当に薬を調達して、適当に配った結果なのか、それとも狙ってやっているのか……」


 事実、隣のベッドになったおばさん同士が勝手に薬をやりとりして集中治療室に戻った例もある。その担当者だったのは大野だ。


「本人曰く、自分は医者だと言っていたそうですから、もしかしたら分かっていてやっている可能性もあります。医師免許を剥奪された者か、あるいは自称、という可能性も否定できません」


 医局の雰囲気が変わる。


「分かっててやってるとしたら、警察沙汰だ」


 違いない。井崎は生まれて初めてストレス性の胃痛を感じた。


「とにかく、人物が特定できなければ何を言っても意味がない。今のところ、病院側に協力してくれるのは例の王子だけか?」


 がたん、と音を立ててイスから立ち上がった室井が一同を見渡したが、誰も何も答えなかった。


 その時、宿直の田村のPHSがけたたましい音で鳴り始めた。


「事故が二人来ます。もう一人、どなたか……」


「私が出ましょう」


 井崎が手を挙げる前に、堀内が名乗り出た。


「今日のところは解散しましょう。明日、朝一番に警察に連絡して、患者への聞き込みを手伝ってもらう、ということで」


 堀内の意見に、反対する者は誰もいなかった。

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