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廊下の向こうから、凄まじい声が響いてた。
「この人殺しっ! 優奈を返せ! 優奈を返せ! 優奈を返せ!」
「静かにしてください! ここは病院ですよ!」
「優奈を返せ! どうして助けるんだ! どうしてあんなヤツを! 殺してやる! 優奈をメチャクチャにしやがって! 優奈を殺して、どうして生きてるんだ! あんなヤツのせいで! 優奈はっ!」
集中治療室へと続く廊下の真ん中で、数人の看護師たちに掴みかかっている男がいた。汚れた作業着を着た男は、土気色の生気のない顔をしていて、憑かれたような目をしている。
「会わせろ! あいつに会わせろ! 殺してやる! 俺がこの手で殺してやる! 放せ!」
男が腕を振り回し、傍にいた看護師の顔面に当たる。短く悲鳴を上げた看護師の鼻から、真っ赤な血が流れ出した。だが、男は一向に構う様子もなく、集中治療室へと強引に押し入ろうとする。
「落ち着いてください! どんな理由があっても集中治療室に無関係な方を入れるわけにはいきません! お引取りください!」
井崎は看護師の間に割って入って、男の肩を思い切り掴んだ。
「無関係だとっ? ふざけるな! 俺の娘を殺したやつがそこにいるんだ! どこが無関係だって言うんだ! いいからさっさと会わせんか! そこをどけ! 放せ! お前からぶっ殺すぞ!」
傍にいた看護師に警察へ連絡するよう伝える。井崎は、腕を振り回して暴れる男を背後から羽交い絞めにした。腕力には少しばかり自信がある。そこへ、遅れて研修医の大崎がやって来た。
「人殺しを助けるお前らも人殺しの仲間だ! あんなヤツ、死んで当然なんだ! 何で助けた! 殺してしまえばよかったのに!」
二人がかりで押さえつけられながらも、男は決して諦めようとはしなかった。男の息は酒臭い。どうやら相当に飲んでいるようだ。
「落ちついてください! 何の話ですかっ?」
井崎が耳元で怒鳴れば、その言葉がすっと頭に入ったらしい。男の顔つきが変わり、井崎を凝視してきた。負けじと睨み返せば、向こうがすっと視線を逸らし、集中治療室の方を見やった。
「あんた、医者だろ……? 医者なら、どうしてうちの娘を助けてくれなかったんだ」
「お嬢さんの名前は何でしょう?」
男の顔から決して目を逸らさずに問えば、集中治療室から井崎に視線を戻した男の顔が歪む。
「桜井……桜井優奈だよ……! 体中にアザができると言って……病院で診てもらうって言ってたんだ! あいつが伝染したんだよ! 優奈が泣きながら言っていた! 付き合ってた男も体中にアザができてたとか、なんとか! 本当なんだ!」
「信じますよ」
男の手がすがり付いてくる。白衣の襟を掴むその手は、激しく震えていた。
「こんな病院、クソだ! 信じるなら何で優奈を助けてくれなかったんだ! 被害者を助けないで、病気を伝染した犯人を助けるなんて、そんなことあってたまるか! 俺が殺してやる! 法律があいつを殺してくれないってんなら、俺が代わりに仇を討ってやる!」
男は病院中に響き渡るような大声で叫んだ。暴れ出すその腕を、井崎と大崎の二人で必死に押さえつける。それから警察が到着するまでの十五分間、男は汗みずくになりながら大声で木村真幸を罵り続けた。彼を抑える井崎と大崎も、身柄を警察に引き渡した時には、全身汗だくになっていた。スポーツ以外で、こんなに汗をかいたのは久しぶりだった。
「もう、嫌になっちゃうわ」
ようやく静かになった廊下で、ぽつりと呟いたのは鼻血を流していた看護師だった。同僚たちが慰めの言葉をかけているが、本人は耳を傾けている様子ではなかった。
看護師の離職率は、本当に高い。
「やれやれ、だな……」
井崎は、額の汗を拭い、白衣の襟を正しながら呟いた。
「井崎先生としては、どう思われます?」
「どうって?」
「前にテレビ番組で見たんですけど、風邪を引いている人と一緒に狭い場所にいるとするじゃないですか。オフィスなんかでは、そういう機会って、けっこうあると思うんです。それで、風邪を引いている方が、マスクをしていなかったせいで、風邪を引いていなかった方に、風邪が伝染ったと。その結果、風邪を伝染された方が、伝染した方を訴えたんですよ」
「……へえ」
「その結果、風邪を伝染させた方に賠償命令が出たとか、何とか」
大崎が無言で反応を待っている。井崎は無意識に腕を組んでいた。
「そんなこと知るかよ。法律問題は弁護士に任せておけばいいんだ。俺たちには関係ない」
突き放すように言えば、大崎は小さく「すみません」と呟いた。
特に時間が迫っているわけではなかったので、井崎は真幸の顔を見てから戻ろうと決めた。看護師に一言声をかけてから、集中治療室へ続くドアを開く。どういうわけか、大崎も一緒に付いて来た。
ドアの横に、やつれ果てた顔の中年女性が立っていた。誰だろうと思考を手繰り、真幸の母親だと思い出した。はっとして表情を取り繕う。そんな井崎を見て、彼女は慌てたように頭を下げた。頬には、涙のあとがくっきりと残されている。
「……あまり気になさらないでください」
十中八九、真幸の母親は、先ほどの男の声を聞いている。大崎は目に見えてうろたえ始めていた。そんな彼を背中で隠すように、井崎は一歩前に進み出た。
「さっきの方、ひどく酔っ払っているようでした。あまり真剣に受け取らないでください。真幸が彼女に病気を伝染したなんて、まだ決まったわけじゃないんですから」
井崎の言葉を聞き、真幸の母親は再び頬を濡らしてしまう。
「それでも、先生、人の口に戸は立てられないんです……」
その言葉に、思わず硬直してしまった。
「主人が……主人が、やっと見つけた仕事を……退職させられました……。そういう話は、どこからともなく広がるんです……。息子が新しい伝染病に罹っているという理由で……イジメに……」
母親の頬に、涙が伝った。
「夕べ、酒を飲んで線路に……おそらく自殺です……。原型は、残っていませんでした」
かける言葉がない。井崎もまた、思わず俯いていた。
「鉄道会社から、賠償請求が……。相続放棄をすれば、あの人名義の家も……土地も……! いっそ、娘を連れて、実家に帰りたいと思ったんです……。でも、ここにはあの子が、まだ……あの子が、まだここに……」
両手で顔を覆い、真幸の母親は泣き崩れてしまう。
「いい子なんです、先生! あの子は、本当に……!」
「ええ、知ってますよ」
「高校に行っていないせいで、あんな見た目してるせいで、いろいろ言われていることは知ってます! でも、でもあの子は、真幸は、私のために進学を諦めてくれたんです!」
背後で大崎が身じろぐ気配が伝わってくる。つい振り返れば、大崎は堪らないと言った顔でじっと床を見つめていた。
「父親が頼りなくて……本当に、幼いころから苦労させてばかりだったんです! 私が病気がちで……! あの子が代わりに働いてくれて……! 人並みに、遊びたかったはずなのに! 何もかも諦めて……! 朝早くから、夜遅くまで……!」
どうしてあんないい子が、と訴える母親の声は、ほとんど言葉になっていなかった。最愛の子供が事故や病気で致命的なダメージを負ってしまったその家族の嘆きようは、いつ見ても心が締め付けられる。本音を言うと、十年経っても慣れることなどできなかった。
「お気持ちは、痛いほど分かります。真幸くんを助けるために、僕たちも、できることはすべてやっていきます」
けれど、これから先どうなるかは運次第だ。
「私たちは……私たちは、これからどうすれば……どうやって生きていば……!」
母親は床に突っ伏すようにして、泣き崩れてしまった。井崎は膝をつき、彼女の肩に手を置いた。
「真幸くんには、我々がちゃんと付いています。何かあれば、すぐにご連絡いたします。ですから、今日はもう家に帰られてゆっくり休まれてください」
涙に濡れた顔が上がる。
「いいえ、いいえ、ここにいます! ここにいさせてください!」
「できません」
冷酷なほどはっきりと、井崎は告げた。規則は規則だ。
「娘さんもいらっしゃるんでしょう? 今、お母さんが倒れたらどうするんですか。どうか、ここは我々を信じて、今日はお引取りください。お願いします」
「いいえ! いいえ! 傍にいさせてください! 少しでも、ほんの少しでも長く、真幸の傍に! お願いします!」
叫ぶような声で泣きながら、真幸の母親は再び床に突っ伏してしまった。真幸の名を呼びながら、彼女はひたすら謝り続ける。「真幸、ごめんね」「真幸、ごめんね」呪文のように繰り返される言葉が、傍で聞いている井崎の胸にも暗い影を落としこんでいく。
「このまま戻らないのなら……」
ふいに母親が顔を上げた。憑かれたような目が、自分を見つめている。痩せ細って震える手が、白衣の襟元を意外なほど強い力で掴んできて、思わずぎょっとした。
「このまま戻らないのなら、いっそ死なせてやってくれませんか」
一瞬、母親が言った言葉の意味が分からなかった。
「辛いばかりです……悲しいばかりです……もう、嫌です! もう耐えられない! いっそ終わらせてください! 真幸も、きっと苦しんでる! 楽になりたがってる! ねえっ、先生!」
「何を馬鹿なことを言ってるんですか!」
井崎は思わず声を荒げていた。
「真幸は今、必死に頑張ってるんですよ! 危ういところだったんです! それでもあいつは戻って来ました! 本人が頑張ってるっていうのに、お母さんが先に諦めてどうするんですか!」
“このまま死なせてくれよ……”
突然、脳裏に真幸の言葉が蘇ってきた。今の今まで忘れていた。無意識に、拳を握り締める。深く、息を吸い込んだ。
「大声を出して、すみませんでした……。今、お母さんも冷静ではないはずです。お気持ちは察します。さぞ、お疲れであることも。今日のところは、家に戻られてください」
がくり、と肩を落とし、項垂れた様子の母親はしばらく蹲ったまま嗚咽を堪えていた。ややあって、看護師に付き添われるようにして、その場を後にした。小さな、とても小さな背中だった……。
「何も、怒鳴らなくたっていいじゃないですか」
もらい泣きしてしまったらしい大崎が、余計なことを言って来た。波立つ心を無理やり押さえ込み、無表情に徹する。
「珍しいですよね。先生が患者さんの家族にキレるなんて」
大崎が鼻をすすりながら言った。
「お前ならどうする? 辛いから息子を殺してくれと言われたら、はい分かりましたって引き受けるか?」
大崎は黙り込んでしまった。無言のまま廊下を進み、一階にある救命センターに戻る。ちょうど友恵が新たにやって来たらしい外傷患者の手当てをしているところだった。
「いてえ! いってえ! 痛いって言ってるだろ! いてえんだよ、このヘタクソが! もっとマシな手当てはできねえのか!」
「人間が人間の手当てをしてるんだから、痛くて当然です」
喚き散らしている三十代前後の男に向かって、友恵が言った一言を、井崎は一瞬、意味を掴み損ねた。
「偉そうなこと言うな! こっちは金払ってんだぞ!」
「神様が無償でくれたのは命だけです。薬を作ったのは人間です。人間が作ったものなんだから、サイフが痛くても仕方ないんです」
井崎と大崎は、互いに顔を見合わせつつ苦笑いを浮かべる。
「何ていうか、野沢さんらしい考え方ですね」
まさしくその通りだ、と思ったところで、友恵と目が合った。何となく照れ臭かったので、そのまま目を逸らして仕事に戻った。




