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「真幸、今日の午後には集中治療室から出れるよ。こっちがびっくりするくらいの、さすがというべき生命力でね」
夕べの経緯をなるべく悟られないように明るい話題を告げると、響也は安心したように柔らかな表情を見せてくれた。今朝は微熱が出ているようで、どことなく気だるげな雰囲気を纏っているが、それでも顔色は悪くなかった。
「会いにいけますか?」
「会いに行くも何も、そこに戻ってくるってことだよ」
ここしばらく主がいないままだったベッドを示すと、響也は自分の言葉に軽く笑った。
「それで、響也くんはどうだ? 少しは眠れるようになったか?」
「……ちょっとした物音で目が覚める」
「それは、なかなか手ごわいな」
夜の病棟がいかに賑やかか知っているだけに、井崎としては苦笑するしかない。
「先生、寝不足ですか。目が赤い」
「え? ああ、まあね。いつものことだけど。いっそ代わってあげたいくらいだよ。今なら三秒で寝れる自信がある」
「三秒って……。先生、野生じゃあ生きていけないね」
どういう理屈だ、と思いながらも彼の軽口に適当に言葉を返して回診を終えた。
廊下を出たところへ、前方から否応なく顔を覚えてしまった患者が歩いてくるのが目に入った。
「おはようございます、館山さん。回診は終わったんですか」
敢えて明るい口調で声をかけると、館山はジロリと一睨みした挙句に唾を吐きかけてきた。そして何も言わずに立ち去ってしまう。
「生活保護の患者さんって、ああいう人が本当に多いですよ」
成り行きを見守っていた看護師が、溜め息交じりに言って来た。
「税金で養ってもらってるって意識、あるんですかね。いいですよねえ、生活保護の人って。病院代はタダ。税金はタダ。毎月毎月、貯金ができるくらいお金を貰って、パチンコ三昧なんて」
「……すべての人がパチンコ三昧ってわけでもないでしょう。最近は生活保護を遊覧費に使い込む市民を監視するような自治体も増えているし。それに、生活保護っていうのは、絶対に無くてはならないものだ」
看護師は深い溜め息をつく。
「分かってますよ。ただ、館山さんみたいな人を見てると真面目に働いてるこっちが馬鹿馬鹿しくなってね、つい文句のひとつも言いたくなるんです。あの人、看護師が目を光らせてないと、すぐに病室を抜け出してパチンコ行くらしいですよ」
言いながら、看護師は憎らしげに館山が歩み去った方を見やった。
「厳重注意しても一向に聞かないどころか、キレて大暴れして点滴を投げつけたり、ナース・ステーションにまで追いかけてきて大変らしいですよ」
井崎はつい溜め息を落とす。
「パチンコねえ……何が楽しいのやら」
ギャンブルにはあまり興味を惹かれない。学生時代に何度か行ったことがあるが、一万近い金額をゲーム機に吸い取られただけで、得たものは何もなかった。
「そういえば、井崎先生って趣味とかあるんですか」
「趣味? 敢えて言うならコーヒーくらいかな。後はスポーツとか」
そう言えばスノーボードももう何年も行っていない、と思うと急にゲレンデが懐かしくなった。外はまだまだ残暑が厳しい。
「先生らしいですねえ」
軽く笑われたところで、PHSが着信を告げる。部長からだった。
*
医局に入るなり、井崎はその顔ぶれに驚いた。
「お久しぶりです、井崎先生。その節はいろいろとお世話になりました」
「……どういうことですか」
井崎は河合を始めとする捜査一課の顔ぶれを順に見渡し、部長に向かって問いかけた。
「ええ……例の、ですね、はい……患者さんについてですね、室井先生から報告がありまして……ええ……」
「要は殺人事件だってことだよ」
しどろもどろに語る部長の代わりに、室井が何でもないことのように言ってくれた。絶句した井崎をチラリと見やり、室井は書類の束を突きつけてくる。
「全身性出血、フィラリア症、トキソプラズマ脳炎。不可解な症例は別にして、どう考えても説明がつかない死亡例が二例あっただろ」
反射的に書類に目を通す井崎に向かって、室井は淡々と語った。
「病理解剖の結果、岡部輝彦さんの死因は溶血性ショックだったことが分かった。問題は、ショックを起こした原因なんだが」
井崎は室井を凝視する。
「それを調べるために、医療事故調査委員会を設立しようということになったんだ」
医局の中がしんとした。
「つまり、我々スタッフの中に殺人犯がいるということですか」
白衣のポケットに両腕を突っ込んだ大野が、心外だと言わんばかりの口調で言った。部長は「ああ、いえ、そういうわけではなく」と、額の汗を拭きながら答えるが、医療事故調査委員会を設立しようとしている時点で、医療スタッフが疑われているのは隠しようがない。
「そうでない、ということを証明する、という意味もあります」
納得しかねる様子の大野に対し、センター長が静かな口調で言った。詭弁と言われれば詭弁だが、無実を証明できるのならば確かに反論はない。
「調査委員会のメンバーは後日、正式に発表されますが、おそらく大学病院から講師を招くことになると思われます。その際には、お手数ですが、ご協力をよろしくお願いします」
センター長は、一同を順に見渡す。誰もが皆、苦虫を噛み潰した顔でセンター長を凝視していた。おもむろに、田村が口を開いた。
「小野田隆弘くんについてですが、彼は正式に病理解剖を適用されていません。よって、死因は不明ということになります。正式な死因も分からないのに、調査委員会の手に委ねていいんですか」
「正式に調査をされるのは岡部輝彦さんの死亡例だけです。ただし、小野田くんの症例は参考までに調査される可能性があります」
小野田隆弘の主治医を勤めていた田村は、ただ視線を床に落とした。センター長の目が、ER勤務の医師たちの上を滑っていく。
「では、他に質問がないようですので、今日のところはこれで」
そう言って、センター長は河合警部と前原を伴って出て行った。続いて、カルテを手にした医師たちが次々と医局を後にしていく。結局、室井と高梨そして井崎だけが、取り残されるような形でその場に留まった。
「そういえば……」
緊張感が消失した空虚な医局の中で、おもむろに高梨が口を開く。
「木村真幸くんだっけ? 聞いたよ、井崎くん。植物人間状態だって? まだ十六歳でしょう? やりきれないよね」
当たり前の顔をして「やりきれない」と呟く高梨に、井崎は軽い苛立ちを覚えた。真幸の母親の顔が浮かぶ。
「……助けなかった方がよかったって言いたいのか?」
「そういう意味じゃないけどっ」
井崎が低く言えば、高梨は慌てたように否定した。そしてそのまま黙り込んでしまう。しん、となった途端、高梨が弾かれたように顔を上げて詰め寄ってきた。
「ねえ、井崎くん、何か知らないのっ?」
「何が」
「何がって……不審死のことに決まってるじゃない! 溶血性ショック死とか何とか、難しい言い方をしてるけど、結局のところアレでしょ? 注射器で血管の中に毒を入れられたっていう、それだけの話でしょっ?」
高梨の言葉に二人は苦笑いを浮かべ、互いの顔に視線を走らせた。
「それだけの話って……。いいか、高梨ちゃん、事はそんなに単純じゃないぞ」
室井の指摘に、高梨は軽く眉を寄せた。
「どういう意味よ。だって、ここ病院でしょ? 人を殺せる薬くらい、いくらでもあるんじゃないのっ?」
「……病院を何だと思ってるんだか。だいたい、そういう薬は、厳重に保管してある。そう簡単に目に付く場所には置いてない」
室井が言えば、高梨はなぜか食い下がってきた。
「別に、薬でなくたっていいじゃない! それこそ、人を殺せれば何でもいいんだもの! そう、元・看護婦さんが注射器で血管に空気を入れて同僚の旦那を殺したって事件、あったじゃない! 注射器なんていくらでもあるでしょ? 人目を盗んでチクって! そしたら完全犯罪じゃない!」
井崎は盛大な溜め息をついた。
「これから調査委員会が開かれるからってワケじゃあないけどな、うちの医療スタッフにそういうことをするヤツはいないよ」
「そんなこと分からないよ! 井崎くんの前ではいい人ぶってるかもしれないけど、本当の顔なんて誰にも分からないじゃない!」
そういうことを言われても困る。井崎は助けを求めるように室井の方を見た。室井がやれやれ、とばかりに肩を竦めてみせる。
「そんなことはどうだか知らないが。だいたい、血管に空気を入れて殺すって簡単に言うけどな、致死量を打ち込むには三十ccは必要なんだ。映画みたいに簡単にはいかないさ」
「空気に限らなくてもいい! 例えば……」
彼女の視線が彷徨い、併設されている給湯室に止まった。
「洗剤とかでもいいじゃない! アルボースだっけ? あの、手を洗う緑色の液体石鹸。あれって、どこの病室にも置いてあるじゃない! 注射器さえあれば!」
「お前、注射されたことないのか? 注射されたら気付くだろ」
井崎が言えば、高梨はふてくされた顔で黙り込む。井崎と室井が溜め息をついた瞬間、再び高梨が立ち上がった。
「点滴してるじゃん! 横からチクッとやっちゃえば、本人は全く痛くないよ、ねえ!」
井崎たちは無言で顔を見合わせた。
馬鹿馬鹿しい、と思いつつも、彼女の言う方法で溶血反応を引き起こすことができないわけではないので、頭ごなしに否定はできない。点滴の管を横からチクッとやらずとも、もともと点滴は横から針の無い注射器を使って別の薬剤を投入できる構造にはなっているのだ。不可能ではない。
ただ、それをやる該当者がいないだけだ。響也からは「オッサン」という情報を得ている。この病院に男性看護師はいない。それに、使用済みの注射器は、医療廃棄物として厳重に処分されるのだ。患者が手にする機会は絶対にない。
ふと、先ほどの看護師との会話が蘇る。
“厳重注意しても一向に聞かないどころか、キレて大暴れして点滴を投げつけたり、ナース・ステーションにまで追いかけてきて大変らしいですよ”
ナース・ステーションには、医療器具が常備されている。無論、その中には注射器も入っている。ただ、医師の指示なく看護師がそれを使用しないだけだ。
“暴れまわって棚の中のものをブチまけるだけならともかく、顔を真っ赤にして、次から次へとパッケージを破って中身を放り投げていくんです! 今月は二度目ですよ。おかげで医事課から嫌味をくらいました”
床に落ちて雑菌に触れた医療器具は処分するしかない。当然、大量に散らばったガーゼや注射器などをひとつひとつ数えながら廃棄物用のコンテナには入れない。ドサクサに紛れてひとつ持ち出すくらい、やってできないことはない。
それに、院内不審死の一例である岡部輝彦の血管内溶血反応による急性重篤型ショック死。患者の容態が急変したとき、あの人物は確かに傍にいた。
“おじさんが来るんだよ”
“怖いおじさんがねえ”
真幸たちと同室の老婆の声が蘇ってきた。高梨の言う通りなのかもしれない。本当の顔は分からない。




