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「例の……症例についてですね、新たな事実が……ええ……」

 

 書類を覗き込みながらメガネの位置を直す部長から、井崎は半ば強引に書類を奪い取った。部長は一瞬、不快気な顔を見せたが、周囲を見渡し、自分の味方は誰もいないと悟ったのか、むっつりと黙り込んで席に着いた。


「大学病院と保健所からです。アフリカから密輸入されたサルの体内から、未確認のウィルスが五種類発見され、このうちのひとつが、全身性出血で死亡した患者の血液中から検出されたものと九十パーセント一致したと言って来ています」


 医師たちの表情が変わる。これで、謎の消化管出血は謎ではなくなった。れっきとした原因のある、ウィルス性の感染症である。


「死亡した患者を病理解剖した結果、このウィルスが最も多く含まれているのは、血液と精液、膣分泌液だということです。唾液にも含まれますが、ごく少量なので、動物実験では唾液を介して感染した例はない、とのことです」


 つまり、感染経路は性交渉か、もしくはウィルスに汚染された血液を直接、血管内に取り込むか、に限られるということだ。


「そしてもうひとつ。このウィルスをフィラリアに感染している犬に感染させた場合、犬そのものだけでなく、寄生しているフィラリアにも影響が出たそうです」


「つまり……?」


 部長の質問に、井崎は僅かながら苛立ちを覚えた。頭の回転が遅い、などと思ってしまう。


「七月以降、フィラリアが脾臓に寄生している患者が多く受診していました。患者に共通していることは、「狂犬病のような」症状のある犬に噛まれたということです。ところが、犬に噛まれたと訴えて来院している患者すべてが、脾臓に病変を引き起こしているわけではなかった」


「そうですね」


 部長は邪気の無い顔で相槌を打った。内心で溜め息をつく。


「フィラリアが寄生している野良犬の中には、吐血しているものがいました。そして、ミクロ・フィラリア(幼虫)が最も多く含まれるのが血液です。口の中に血液が残っている犬に噛まれれば、噛まれた人間はウィルスにも感染しますが、同時に血液中のミクロ・フィラリアも血管内に入り込んでしまうということになるんです。犬に噛まれたすべての患者にフィラリア症が発症しないのは、これで説明がつきます」


 部長がようやく納得した様子なので、井崎は改めてファックスに視線を落とした。 


「詳しいメカニズムはまだ調査中のようですが、大学の調査チームによれば、このウィルスはDNA鎖を持たず、RNA鎖だけのようなので、感染を繰り返しているうちに比較的、変異が起こりやすいと見なして間違いないとの見解を示しています」


 よく知られているように、人間を始めとする多くの生物の設計図であるDNA鎖は、二重の螺旋構造をしている。ヌクレオチドが二重に存在しているおかげで、細胞分裂を行う時、設計図がコピーされる際にエラーが起こりにくいというメリットがある。


 一方、設計図の代わりをしているのが一本鎖であるRNAだけであるウィルスなどは、感染を繰り返し、増殖を重ねるたびに、設計図のコピーに失敗する危険が増える。感染の拡大に伴い、ウィルスに変異が起こる理由はこのあたりにあるとされる。


 最たる例がインフルエンザ・ウィルスだ。流行の始めと終わりで設計図が違っているため、次の年にはまたワクチンを打たなければならない。おまけに、RNA鎖しか持たないインフルエンザ・ウィルスの厄介なところは家計に優しくない点だけではない。


 設計図が変わることで、それまで感染しなかった生物がインフルエンザに感染するようになったり、風邪のような症状で済んでいたものが、生死に関わる重篤な症状を引き起こすような劇症に変化することもある。


 豚インフルエンザ、鳥インフルエンザ……。冬になれば毎年のように話題になる新型インフルエンザは、感染を繰り返すうちに、かつては人間に感染能力が無かったインフルエンザ・ウィルスが人間に感染能力を持ったものだ。


「このウィルスに触れたことで、犬のフィラリアが遺伝子に変異を来たし、人間に感染力を持つようになった、と」


 時任がゆっくり聞いてくるので、井崎は頷いた。堀内が唸る。


「無いわけではないですよね。今までにも、数は少ないが、犬のフィラリアが人間に感染した例はあったはずだ。ただ、この場合はレントゲンを撮ると、肺ガンのような影として見られたとか」


 反論は無い。井崎は言葉を続けた。


「ここからは僕の個人的な見解ですが、今までの症例を見る限り、この症例に関しては、フィラリアを媒介しているのは蚊ではなく犬そのものです。脾臓にフィラリアを飼っている患者には必ず犬に噛まれたという所見がありましたから」


「それも、狂騒状態の犬に、だ」


 室井が難しい顔で呟くので、井崎は再び頷いた。


「人間の場合は脾臓を腫らせて貧血症状を起こす程度ですが、犬の場合はもっと激烈な症状として現れるようです。まさに狂犬病のような、ということですが、患者には関係ないので、省略します」


 狂犬病の検査をしても陽性反応が出ないはずである。そんな風に思いながら、井崎は改めて医局を見渡した。


「犬のことはともかく、今まで通り、ITPとよく似た全身への特徴的なアザ、発熱、貧血、倦怠感などの所見がある患者は要注意の上、できれば経過観察のために入院を奨励していただきたい。その上で、輸血を行い、鉄剤と、場合によってはファンダシールの処方を検討してください」


「トキソプラズマについてはどうですか。何か追加報告は」


 田村から聞かれて、井崎は素早く報告書に視線を走らせる。


「残念ながら、今回はまだ。ただ、大学病院の方では、トキソプラズマが原因と思われる意識障害を起こした患者が五名いると言ってきています。うち一名は、頭蓋内に脳浮腫を引き起こすほどの大量出血をきたし、緊急開頭手術で対処したそうですが、予後は悪く、オンザテーブル(術中死)が二例、手術から一週間が経過しても、意識は戻っていない例が一例、病理解剖で脳内出血が確認された例が二名とのことです」


 一例は木村真幸と同じだ、と井崎は言葉には出さずに思った。


「トキソプラズマで、これほど大量に出血する例は過去に存在していない以上、フィラリアと同じく例のウィルスがトキソプラズマに影響を与えている可能性が大いにあります」


 確固たる情報ではない。だが、狭い医局の中には緊張が走り、誰もが押し黙ってホワイトボードを睨んでいた。


「そう言えば、トキソプラズマに感染したネズミは、自分からネコに食われに行くって話があるよな」


 しん、とした医局の中で室井が声をあげ、一同の視線が彼に集中した。意に介さず、室井は言葉を続ける。


「ネズミにとって、ネコってのは天敵だ。健康なネズミにネコのションベンを嗅がせてみると、狂ったように逃げ惑う。ところが、トキソプラズマに感染したネズミの場合、ネコのションベンを嗅がせると、じっとその場に留まるか、逆に臭いの元を探して向かっていくっていう実験結果がある。詳しい作用機序はまだ解明されてないらしいが、寄生虫が宿主の行動を操ると言われる典型的な例だ」


 室井の話を聞いて、井崎の脳裏にいつかの高梨の声が蘇った。


“もう! 最近ホントに自殺ばっかり! いやになっちゃう!”


「飛び降り自殺、服毒自殺、線路への飛び込み自殺、首吊り……ここ二ヶ月ばかりの間に、うちは自殺患者のオンパレードだった」


 誰も室井の言葉を否定しない。否定したくとも、異様な数の自殺患者を相手にしてきたという事実がある以上、否定できないのだ。


「ウソか誠か、トキソプラズマに感染している人間は、感染してない人間に比べて交通事故に遭う確立が高くなるとか、ならないとか」


 室井自身、半信半疑と言った表情で語る。彼の言葉に反応したのは、部長であった。


「そう言えば、最近やけに交通事故患者が多いですよねえ……一晩で三件も四件も運ばれてくる、なんてこと、そう無かったはずです」


 部長の言葉に答えるものは誰もいない。室井がおもむろに口を開いた。


「科学が発見できたウィルス、細菌の数なんざたかが知れてる。抗生物質の量と質に対し、未開の地はあまりに多過ぎる。エボラ出血熱がいい例だ。開拓が間違いだと断言するつもりはないし、文明を否定するつもりもない。だけどな、これから先、こういう症例は珍しくなくなるだろう。未開の地から、野生動物の血液に隠れて未知のウィルスが運ばれてくる。まったく、恐ろしいね」


 その場に、何ともいえない沈黙が落ちた。


「例の症例については、対処法と原因ははっきりしたと思います」


 井崎は報告書を部長に返しながら、静かに言った。


「全力で対処していきましょう」

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