44
「だって、どうしても二重になりたかったんだもん! 整形なんて絶対にダメだって言うから! 可愛くなりたかっただけだって!」
「あんたって子は、もう! 本当にどうしようもない馬鹿ね!」
救急外来の待合室から漏れ聞こえてくる親子喧嘩の声に、井崎と看護師たちは揃って深い溜め息をついた。
「二重になりたいからって、自分で自分の瞼を切ろうとする娘さんも娘さんですけど、娘がナイフで自分の顔を切ったって言って真夜中に救急車を呼ぶ親御さんも親御さんですよね……」
傷口は僅か五ミリ程度。出血も少なく目にも異常は見られなかったので、処置のほとんどは看護師がした。井崎がしたことと言えば、患者と保護者、双方の言い分を聞いたことくらいである。
「まあ、女の子っていうのはいろいろ大変なんだろうな。男の俺には想像も付かない世界だよ。寝てるところを叩き起こされたわけじゃないから、まだマシだってことにしとくさ」
溜め息交じりに立ち上がる。さてこれからどうしようか、と思った時、目の下に派手なクマを作った整形外科の村迫が顔を見せた。彼は処置室の中を見渡し、井崎を見止めて軽く会釈する。
「珍しいですね、村迫先生。こんな時間に」
「全くです。ちょっとお窺いしたいことがあるんですが」
二つ返事で了承し、井崎は看護師たちに後を任せて処置室を出た。
ERで一命を取り留めた外傷患者の多くは整形外科病棟に、内因性疾患の患者は各内科病棟に移っていくのが常だ。
結果的に、井崎は、整形外科と内科の医師とは頻繁に顔を合わせる時間が多い。ここが大学病院であるならばこうはいかないものだが、各医科の医師たちの関係はそこまで険悪ではなかった。井崎としては整形外科に多くの後手を引き受けてもらっているという思いもあるせいか、何か頼みごとをされると断りきれない。
「二週間前に救急からうちに来られた患者さんのことです。石井真紀子さん、四十五歳」
「石井真紀子さん……」
はて、誰でしょう。視線を彷徨わせる井崎を見て、村迫は何も言わずに説明を続けた。
「外傷は両脚の複雑骨折と骨盤のヒビで、何でも三階建てのアパートから飛び降り自殺をされたとか」
言われて必死に記憶を辿る。村迫が持ってきたカルテを見せてもらって、ようやく思い出した。この患者に付き添ってきたのが高梨だ。もう一人、歳若い刑事がいたが、彼はドラえもんの付き添いというイメージが強く、顔は思い出せても名前が思い出せなかった。
「こちらの患者さんが、どうされました?」
廊下ということもあり、声を潜めて聞くと、村迫は眉間にシワを寄せながら首を捻った。
「付き添いで来ていた警察の人は、石井さんについて何かおっしゃっていませんでしたか? 例えば、精神科に既往歴があるとか」
例えば、の話がやけに具体的だと思ったが口には出さなかった。
「いえ、警察は偶然その場に居合わせただけだったようなので」
「そうですか。それから、一応確認なんですが、救急に運ばれて来た時、消化管に出血の所見はありませんでしたか?」
二週間以上も前の患者の所見を詳しく覚えているわけがない。カルテを捲れば、そこには確かに自分のヘタクソな字で骨盤と両脚の骨折という所見が書き込まれていた。その他、目に付く所見があれば、自分は必ず書き込むはずなので、村迫の質問に対する答えは決まっている。
「石井さん、あの後はどんな経過なんですか? 思わしくない?」
「消化管から出血して大量に吐血されましてね、今は循環器内科に入院してます。ついでに、幻覚や幻聴があるような所見も」
頭の中で、警告が鳴り響いた。
「その患者さん、すぐにトキソプラズマの検査をしてください」
久しく耳にしない病名を耳にした村迫が怪訝な顔をするので、井崎は例の症例について簡単に説明した。
特徴的な初期症状は突発性血小板減少性紫斑病に似た皮下出血で、進行すると消化管のみならず全身から出血を起こすようになる。また、もともとトキソプラズマに感染している患者の場合は幻覚、幻聴などの精神障害に似た症状を引き起こす例が多く、末期になると脳内に大量の出血をきたし、意識障害を引き起こす。
今現在、取り得る対策は対症療法程度でしかないが、大学病院ではその対症療法で回復した例もある。今のところ効果のほどは不明だが、トキソプラズマによる脳内出血を防ぐ手立てとして、国内未承認のファンダシール錠の投薬を始めている患者もいる。
その症例と平行して、脾臓にフィラリアが寄生している患者もいるが、関連性はまだ分かっていない……。
「分かりました。すぐに連絡しておきます」
村迫は真剣な顔で会釈し、足早に暗い廊下を立ち去っていった。
「おいおい、なんで他の科に連絡が回ってないんだよ」
部長の顔を思い浮かべつつ、井崎は何ともいえない不信感が上司に対して沸き上がって来るのを感じた。この様子では内科の医師たちにも話が伝わっていない可能性がある。
初期症状の段階で入院させ、経過を観察しつつ血小板の輸血を続けている響也は、回復の兆しを見せているのだ。初期症状を自覚している患者がまず真っ先に訪れるのは、おそらく内科の可能性が高い。井崎は確認の必要性を感じた。それも、早急に。さっそくPHSを取り出した。
「部長、例の症例について各医科に連絡しましたか?」
開口一番にそう問うと、電波の向こうで必死に状況を理解しようとしてる気配が伝わってきた。複数の若い女の笑い声が聞えてくる。普段、患者の前に出ない部長は呑気なものだと苛立ちが募った。
「整形外科の村迫先生はご存じないようでした。各医科に連絡していないんですか?」
強い口調で問い詰めると、整形外科の部長とはあまり仲がよろしくないため言っていないという答えが、つっかえひっかえ返って来た。呆れてものが言えないとはこのことだ。
「けっこうです。お邪魔しました」
乱暴に電話を切る。自分が動いたほうが早そうだ。ふと思う。小柄で、痩せていて、目がギョロっとしていて、なおかつ頭がいい。部長は、響也が言う人物のイメージにピッタリと合う……。
「まさか」
井崎は自分の頭に浮かんだ考えを一蹴した。そして、暇なだけの当直室には戻らず、医局に戻って書類残務を片付けることにした。
医局には、言いつけを守ったらしい響也の姿はすでになく、カップは二つとも綺麗に洗って片付けてあった。両親の様子からして、息子に家事云々を教えるタイプではないような気がしていたので、少しばかり意外だった。
「親より息子の方が常識的なんじゃないか?」
響也の母親から年齢を理由に信用できないと言い放たれた井崎は、ちょっとした皮肉を込めて呟いた。




