43
暇である。
時刻は午後十一時を過ぎようとしていた。井崎は時計を見上げ、ずっと眺めていた医学書を閉じて伸びをした。
「まだまだ暇ですねえ。このまま何事もないといいんですが」
勝手知ったる看護師たちも、今はまだ和やかに談笑している。まったくだと思うものの、経験から油断はできないことを知っている。
この時間は、酔っ払いがまだ店の中で飲んでいるころだ。たいてい、土曜日の当直なんてものは、酔っ払いたちが町をうろつき始める深夜過ぎから明け方にかけて忙しくなると相場は決まっている。
「今日、船津さんのコール何回目だと思う? 一時間で五回よ、五回! 蚊に刺されたとか、布団が欲しいとか、逆に暑いとか、喉が渇いたから自販機に行ってこいとか! 信じられない!」
「出たよ、ホテルと病院を勘違いしてる患者。はっきり言ってやった方がいいよ。一回でもこっちが言うこと聞くと付け上がるから」
「言ってやりましたよ、当然。そしたら、サービスが悪いとか喚かれて、最悪でしたよ。さりげなくケツ触っていくし!」
「そう言えば、斉藤さん! 検査があるから何も食べるなって言ってあるのに、周りの患者があげてるみたいなんですよ!」
「そういう人、いるいる! それで正しい検査結果が出なくて再検査になったら、こっちのせいだとか言ってくる! なんで年寄りってあんなにワガママでジコチューなの!?」
「内科の看護師から聞いたんだけど、こっちが出した薬、飲まないで捨てちゃう人とかいるらしいよ! それも膠原病で免疫抑制剤よ、免疫抑制剤! 病気が悪化するのなんて当たり前じゃない!」
「免疫抑制剤を捨てるとか、冗談でしょう?」
「こんなもの飲んでもよくならん! セカンドオピニオンを聞いたんだ! とか言ってたらしいわよ。開業医でも呼び出したのかしら」
「年寄病棟で仕事してるとストレス溜まるよね。自分たちに求められてることは何にもしないのに、なんでこっちにばっかり神対応もとめるのか、ホントに意味わかんない!」
看護師たちのおしゃべりを聞きながら、井崎はこの場を逃げる口実を探していた。経験上、このままここにいると愚痴の聞き役にされると知っている。無論、自分の仮眠時間を削って、の話だ。
行き先を問う声にトイレ、とさりげなく答え、当直室を出る。暗い廊下を歩きながら、井崎は先ほどの看護師たちの会話に思いを馳せた。自己中心的で理不尽な要求をしたり、度を越したサービスを求めたり、自分の思い通りにならないという理由で暴言、暴力をふるう患者は多い。多い、というより年々増加している傾向にある。
そして、その原因は、スタッフと患者のコミュニケーション不足にあると言われて久しい。だが、ただでさえ激務の中に身をおく井崎たちにしてみれば、ひとりの患者に対して充分な時間を取れていない、とクレームを付けられても困る。だが、これもまた、医療スタッフの都合であり、実際に体を悪くしている患者にしてみれば納得できない理由なのかもしれないが。
それに、医療スタッフは「医師法第十九条」に定めるところによる「応召義務」に縛られている。応召義務とは早い話、診療を求める声があれば、医療従事者はそれを断ってはならない、というものだ。
明らかに過剰な要求、あるいは業務妨害を行う患者に対しても、法律は結局この応召義務を曲げなかった判例もある。
結局、医療スタッフに出来ることと言えば、患者の耳に届かない場所で患者の悪口を言って気を紛らわす程度のことだ。意識が高いスタッフは眉を潜めるかもしれないが、実際、医療現場であれどこであれ、綺麗事だけではやっていけないのだ。
井崎は軽く息をつく。
それにしても、妙に薄気味悪い夜だった。そして、こんな夜につきものなのが、看護師たちに大人気の「病院の怪」である。
「馬鹿馬鹿しい」
自分の発想に苦笑いする。普段忙しくしている時間が多いせいか、医者になってこのからこのかた心霊現象というものに遭遇したことがない。意外と迷信深いところがある室井に言わせてみれば「お前は幽霊が目の前に立っていても、自分からそうだと言われない限り気付かないだけ」なのだそうだが……。
実際、井崎が相手にする患者は顔色が悪く、血まみれで、体が欠損した状態で運ばれてくることが多い。その体で這い回っていれば、救急救命医として普通に対応してしまうかもしれない。幽霊相手にバイタルチェックをする自分。想像すると笑えた。
気を取り直して、井崎は患者の様子を見に行こうと決めた。真幸は未だにこん睡状態にあるし、響也のことも気になる。他にも目が離せない患者はたくさんいる。彼らの顔を思い浮かべながらデータを呼び起こしていると、心霊現象などという馬鹿げた考えは頭の中から早々に消え去っていった。
そんな井崎の背後で、エレベーターのドアがすーっと開いた。誰も乗り込む者がいないまま扉は閉まり、再び上昇していった。
集中治療室に顔を出すと、師長の鈴木がいた。
「真幸くんなら変わりありませんよ。時折、指先を動かす程度です」
呼ばれてもいない井崎の訪問理由をどう思ったのか、鈴木の口調は些か冷たい。敢えて気付かないふりをして、ガラスの向こうで静かに寝ている真幸に視線を向ける。スパゲッティのようにこんがらがった点滴ラインに繋がれている彼を見ていると、何とも言えない気持ちになった。
「そう言えば、こないだ警察が来ましたよ」
「警察?」
思いがけない鈴木の言葉に思わず聞き返せば、鈴木は何とも言えない顔で井崎を凝視する。ややあって、彼女はおもむろに口を開いた。
「飛び降り自殺があったそうなんですよ。搬送先はうちではなくて、大学病院のERだったんですけど。身元が不明で、彼女が持ってた携帯電話に木村君と一緒に写った写真が入っていたとかで」
「聞いてないですけど」
「そりゃそうですよ。若いのが二人、バタバタっと訪ねて来て、聞くことだけ聞いて、それでサヨナラだったんですから」
「……身元は分かったんですか?」
「ええ、自分の元・彼女に間違いないって、木村くんが言ってましたよ。何て名前だったかしら。桜井……桜井、優奈……そんな名前だったと思いますよ」
「そうですか」
警察も忙しいのだろうが、こちらの許可を得ることもなく患者に聞き込みをするのはどうだろうかと思った。井崎は軽く息をつき、改めて真幸を眺めた。どちらにしろ、過ぎたことだ。
「警察には知り合いがいるんで、今度もし会ったら言っておきますよ。最低限のマナーは守って欲しいと」
井崎が言えば、鈴木は微かに表情を和らげる。
「ではお願いします。それより、井崎先生は手が空いていたら病棟内をウロウロする癖を直してください。用があったらこちらから呼びますから! ほら、行った、行った!」
中堅の看護師が笑っていた。あっさりと集中治療室を追い出された井崎は、これまでの自分の行動を思い起こしつつ、今度は一般病棟の方へと足を向けていた。ウロウロ、という自覚はあまりない。
夜の一般病棟は賑やかだ。絶え間ない咳、唸り声、意味不明な声、歌声。健康ではない人間が集まる場所の夜は、つくづく賑やかとしか言い様が無い。自分が受け持つ患者の病室を順番にこっそり見て回り、問題児のいる病室へとやって来た。
ある程度、予想していたことではあるが、響也は今夜もベッドにいなかった。自然、溜め息が出るが、今夜は点滴ごといなくなっているので、まだ許せる範囲内だと思うことにする。探しに行くべきかどうか逡巡していた時、隣のベッドから声がした。
「おじさんが来るんだよ、先生」
夜になるといつも演歌を歌っている老婆の声だ。カーテンを開けて顔を見せると、彼女はしっかりと身を起こして井崎を見ていた。
「昨日も来たんだよ。その前もねえ」
「おじさん……?」
「怖いおじさんだよ。嫌になる。足が動けば、逃げられるのに」
老婆がいったい誰のことを言っているのか、井崎には判断がつかなかった。一瞬、今日から入院している同室の男性のことかと思ったが、昨日もその前も、と言っているので違う可能性が高い。
ついで、老婆が幻覚の類を見ている可能性に思い至った。病院にはありがちな怪談と言ってもいいかもしれない。
「伝えておきます。夜中にウロウロされるのは迷惑ですからね。何か病院側でできることを考えてみますよ」
「お願いね、先生。次は私の番かもしれないから」
「何をおっしゃられるんです。もうじき退院できますよ」
そうだといいんだけど、と呟く老婆の声は今にも消え入りそうなほど小さかった。
病室を出て、井崎は万が一のために響也の居所を確認することにした。また屋上か、と思ったのだが、最も可能性の高いトイレを先に見てみることにした。いない。次に屋上に行ってみる。いない。まさかと思って清掃用具が入っている小部屋も見てみたが、いない。
「あいつ、どこ行ったんだ?」
後方病棟を一通り見て回ったのだが、彼の姿はどこにも見あたらなかった。さすがに総合病院内をすべて見て回るのは大変なので諦めることにした。そのうち帰ってくるか、看護師の巡回で発見されるだろうと見切りをつけ、当直室へと戻る決心をした。
エレベーターで一階に降りる。外来患者の待合室である大ホールを通りかかった際、奥の廊下に据え付けられたソファに小柄な人影を見つけた。
「今日は点滴、抜かなかったんだな」
足音で気付いていたらしい。声をかけても、特に驚いた様子は見せなかった。
「あんまり眠れないようなら、軽い睡眠薬くらい出そうか」
響也は静かに首を振った。てっきり食いついてくるかと思っていたので、井崎としては少し意外だった。
「部屋に帰らないか?」
膝を抱えて蹲っている響也に、目の高さを合わせて聞いてみる。返ってくる反応はなかった。腕をずっと下げていたせいか、血液が管の中を逆流している。クレンメを調節してやると、薬剤はスムーズに血管内に流れ込んでいった。
響也としては放っておいてもらいたいのだろうな、と思うのだが、主治医としてはそうもいかない。だが、頭ごなしに叱れば逆効果だということも知っている。
「なあ、さっき君と同室のおばあちゃんが言ってたんだけど、夜中におじさんが来るって本当か? 心当たりはある?」
とりあえず気持ちを逸らそうと思い、そんな話題を振ってみた。てっきり無視されると思いきや、響也は僅かに顔をあげた。
「知ってるのか? もしかして、不審者が紛れ込んでる?」
井崎としては予想外の展開である。まさか実在の人物だと思っていなかった。
「不審者……なのかどうかは分からないけど、けっこう頻繁に来るオッサンならいるよ」
響也の言葉を聞いて、真っ先に思い至ったのは、同じ病棟の患者だろうか、ということだった。不眠を訴え、あるいは意識障害の一種で、病棟内を徘徊する患者は少ないとは言えない。それならそれで対応策はいくらでもあるのだが、せっかくなのでその人物を会話の突破口にすることにした。
「そうなんだ。それは、どんな人? 特徴が分かるなら教えてくれ。おばあちゃんは怖いおじさん、と言ってたんだけど、それだけじゃ特定しようがないんだ」
響也はほんの少し記憶を辿るように視線を彷徨わせた。いい調子である。
「小さくて、痩せてて、ハゲてて……」
井崎の頭の中に、患者を含めて数百人ほどの顔が浮かんだ。
「目がギョロッとしてて、いろんなことに詳しくて……たぶん、すっげー頭いい人なんだと思う」
外見的な特徴はともかく、頭がいい人物、というくだりで該当者が一気に消失した。考え込んだところで、響也が言葉を続けてくる。
「けっこう、頻繁に来ますよ。何をするってわけでもないけど、真幸があんな感じになってから、やたら俺に話しかけてくるようになって……でも、オッサンの話し相手とか面倒だし、だから……」
「真幸が、あんな感じって?」
正体不明の訪問者の特徴より、今の響也の言葉には別の気になるフレーズがあった。つい彼の話を遮って反射的に聞き返すと、響也は訝しげにこちらを見た。そして、黙り込んでしまう。井崎は自分の失言に気付いた。せっかく会話が成立していたというのに……。この分ではもう巻き返しは難しいだろう。残念だが切り上げ時だ。
「教えてくれてありがとな。夜中にうろついてる患者さんは、こっちで対策を取ってみるよ」
そこで、廊下の端に設置されている自販機を指した。
「何かいるか? ジュースくらいなら多目に見るよ」
「いらない」
あっさり拒否された。やっぱりこのタイプは苦手だ、などと思いつつ、今度はどうやって部屋に押し戻そうかと考えを巡らせる。さすがにベッドに縛り付けるわけにはいかないので、本人がきちんと納得しない限り、また抜け出してしまうだろう。
「コーヒーがいい」
どうしたものかと考えていると、ぽつりとそんな要求が来た。少し迷って、井崎は折れてやることにした。
「分かったよ。なら、医局までおいで。自販機よりうまいコーヒー淹れてやるから」
響也は、驚いた顔で見上げてきた。
「ただし、それを飲んだらきちんと部屋に戻って大人しくすること」
「いいんですか?」
「いいよ。今日の当直は俺だけだから」
「……だって、先生、俺のこと嫌いでしょ?」
あまりにもさらりと言われたので、井崎は返す言葉に詰まった。一瞬、言い訳の言葉が浮かんだが、大人の理性でそれを押し留める。なんと返そうかと逡巡していると、なぜか響也は笑っていた。
「悪かったよ」
結局、まずは謝ることにした。実際、多少の罪悪感はあった。
「なんていうかね、君のその取って付けたような優等生ぶりっていうか、いかにも作りものめいたっていうか、あからさまに表情を作ってますっていう雰囲気が、俺にはどうも……」
「俺が優等生に見えるんですか?」
「……少なくとも、病院の中では優等生じゃないことは確かだな」
響也が特に反論しないので、井崎は彼を促して立ち上がらせる。そして医局へと本当に連れて行ってやった。
「まあ、適当に座ってくれ。危険なものはないけど、無くなったら困るものが多いからあまり触るなよ」
物珍しげに医局の中を見渡していた響也は、長机の一画に遠慮がちに腰を下ろした。彼の目の前にはカルテの山が築かれているが、井崎の言いつけをちゃんと聞いているらしく、手を伸ばそうとはしなかった。こういうところは優等生らしい。
「なんか、ここ、オッサン臭がする」
率直なご意見にほんの少し胸が痛んだ。自分もオッサンと言われて傷つく歳になったのだとしみじみ思いつつも、いちいち気にしてはいられないので、適当に流しておいた。井崎は慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットし、スイッチを入れる。
「響也くんは、学校に友達は?」
無言なのもどうかと思って無難な話題を振ってみた。だが、井崎にとって最も無難な話題は、響也にとってはあまり楽しいものではないらしい。友達、という言葉に顔が曇った。
「休み時間に話するヤツくらいはいるけど、みんな自分のことで精一杯だから」
つまらない学校生活だな、などと他人事ながら可哀想に思う。
「一緒に遊びに行ったりしないのか?」
「行かないよ。学校と塾と家の往復で終わり」
そして彼はふっと表情を変えた。
「俺、新学期までに退院できるかどうかも微妙なんでしょ? 中間テストは絶望的だし。いっそ辞めてしまおうかな、学校なんて。真幸を見てたら、学校の勉強なんてできなくても、充分過ぎるくらい生きて行けそうって思ったんだけど」
「いやあ……君と真幸じゃあ、その……逞しさというか……肝の据わり方というか……生命力が違うっていうか……」
「さりげなく失礼だよ、それ」
精一杯オブラートに包んで言ったつもりだったのだが、響也にはストレートに伝わってしまったらしい。慌てて言い訳しようとしたのだが、何か言うより先に「先生はどうだった?」と聞かれた。
「俺か? 俺はけっこう無茶苦茶やってたけどな。どっちかっていうと、真幸に近いかなあ」
響也は意外そうな顔をした。真幸を見ていると昔の自分を思い出す。だからこそ、妙に肩入れしてしまうのかもしれない。
「遊び呆けて高校三年になって、そっから心機一転して医学部を目指したんだけど、当然すべったわけさ。で、一浪して何とかギリギリで合格。学生でも無ければ社会人でもないあの一年は本当に辛かったな、今思えば。二浪、三浪するヤツは本当に凄いよ」
「確かに、先生ってガリ勉ってイメージじゃないですよね」
「まあな。で、晴れて医学部に合格したはいいが、周りは天才ばっかりなんだよ。おかげで自分がとんでもない馬鹿に思えてね」
砂糖とミルクを多めに入れたコーヒーを渡してやると、珍しくありがとうございます、の一言が返って来た。
「張り合っても仕方ないって途中から諦めたんだよ。その結果、それなりに大学は楽しかったかな」
へえ、と気の無い返事をしながらも、響也の瞳は真剣だった。
「ただ、自分はそれでよくても、周りはそうは見てくれないわけさ。特に、準・最高学府の医学部に来るようなヤツなんて魂の髄の髄までエリート意識にドップリ浸かってるような連中が多いからな」
彼の隣にどかっと座り、淹れ立てのコーヒーの香りを味わった。
「進学のために県外には出たけど、いずれはこっちに帰って来ようって気持ちは、もともとあったんだ。それに、患者さんが思ってるほど大学病院っていうのは自分の技術を磨けるような場所じゃないしね。見学と雑用ばっかり押し付けられながら無駄に時間を重ねるよりは、地方でもいいから、とにかく自分の手術がしたかった」
「先生、なんかマンガの主人公みたいなこと言うね」
茶化したような言葉に、井崎は軽く笑った。確かに、自分が医者を目指そうと思ったきっかけはマンガだった。多大な金銭的負担を請け負ってくれた両親には口が裂けても言えないが。
「それで、こっちに帰って来たのはいいんだけどな、向こうを辞める時にはいろいろ言われたよ。自分では逃げたつもりなんかないんだけどな、周りから見れば俺の行動は一流大学のエリートたちから逃げてるようにしか映らなかったんだろう」
劣った人間を見下すときの、連中の心地よさそうな目。未だに思い出すと苛立ちが募る。
「こっちに帰ってきてからも、なんかそういうのって付いて回るんだよ。どうして大学を辞めてこんな地方に来たんだ? って聞いてくる人の目には、エリートになれなかったお前は、エリートから逃げてきたんだろ? っていう嘲笑が浮かんでるような気がする。自分自身がそう思ってるから、そんな風に見えるのかもしれないけどな。逃げたって事実からは、どうやらずっと逃げられないらしい」
井崎が言いたいことは伝わったらしい。響也は微かに頷いた。
「とりあえず、家から出たい」
そして彼は、カップを握り締めながら、おそらく本音と思しきことを漏らした。主治医として、響也の家族の顔ぶれは知っている。彼が家を出たいと思う理由は、分からないでもなかった。
「父さんは自分以外の人を否定してばっかりだし、母さんはいつもイラついてるし、妹はオカルト入ってるし」
オカルトが入っている、という言葉になぜか笑ってしまいそうになり、必死で表情を取り繕った。
「響也くんの学校、共学だよな? 女の子に告白されたりとかは?」
「ありますけど……でも俺、女の子に興味ないんですよね」
そう言えばそうだった。すっかり失念していた。だが、彼が自分から暴露してきたのは意外だった。
「あんまり驚かないですね。もしかして、知ってました?」
「え? ああ、いや……まあ、そういう人もいるからな」
一瞬、冷や汗が出たが、どうやら誤魔化せたらしい。
「性同一性障害とか言わないでくださいね。障害とか言われたらカチンとくるし、治療して欲しいとも思わない。そもそも、ビョーキなんかじゃないし」
何と答えたらよいものやら、井崎はつい視線を彷徨わせていた。
「でも、響也くんは、その……あんまり女の子っぽい雰囲気ではないよな? 言われるまで分からなかったよ」
「俺、そっちじゃないです」
苦し紛れにそんなことを言えば、あっさり否定された。そっちでないなら、どっちなのだろう。こっちの世界に詳しくない井崎には全く見当もつかなかった。
「恋愛対象が同性だっていうだけで、俺は別に女になりたいって思ってるわけじゃないですよ。あ、でも、前に母さんの浮気相手だったオッサンの注文で、妹のセーラー服を着てやったことはありますけど。本気で最低なヤツだった。ああ、その時の帰りだったかな。俺、井崎先生と会ってるんですよ。知ってました?」
思い出したのは高梨が持ってきたあの写真だった。一緒に写っていたあの男はすでに死亡退院している。相手の男の死を彼は知っているのだろうか、と思ったが、余計なことは言わずにおいた。
「普通に恋人が欲しい。こんな田舎には健全な男子高校生を女装させて縛って強姦するような変態しかいない」
「……さらっと、とんでもないこと言ってくれるよな」
表情が歪んだのが自分でも分かった。
「そんなヤツと何度も会うなよ。危険だろ」
「……俺だってストレス溜まるし、やりたい年頃なんですよ」
自嘲するように笑い、響也はどこか楽しげに井崎の方を見た。
「先生だって、女装した俺に一目惚れしたくせに」
「正体が分かった時点で幻滅だよ」
思わず本音が出た。あっと思ったが、本人は笑っていたのでほっとした。そして、響也は小さく息を落とす。
「俺がそういうことしてるって、知ってたんですね。それで嫌われてるのかと思ってたんですけど。そういうわけでもなかったのは意外だった」
一瞬、固まった。
「前に会ったって言っても、ちっとも驚かないでスルーしたじゃないですか。普通はもっと違う反応するでしょ」
言われて自分の反応のミスに気付く。つくづく、自分は細かいところでボロが出る。落ち込む井崎を横目に、響也は楽しげに笑っていた。そう言えば、彼が普通に笑うのを見るのは今日が初めてだ。そして、ふいに彼は真面目な顔で視線を落とした。
「昨日は、すみませんでした」
「……おいおい。明日は雪でも降るんじゃないのか?」
井崎の使い古された冗談にも、響也は神妙な顔を崩さなかった。
「いいよ、いいよ。医者なんて患者に嫌われてナンボなんだから。まあ、外科は歯医者と小児科ほどじゃないけどな」
それに、結果的には友恵とうまくいったので文句は無い。
「さっき話したオッサン……」
何かを迷うように黙り込んでいた響也が、ぽつりと言った。
「言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど……そのオッサンが、真幸の病気が悪化したのは井崎先生が内臓取ってしまったからだって言ってたんですよ。それで、頭の虫が爆発する結果になったとか」
一瞬、何かが引っかかったのに、あっさりと頭の中を流れていってしまった。井崎の内心とは裏腹に、響也は言葉を続ける。
「真幸とあのオッサンがどんな話をしてたのかは知らない。だけど、俺には、医者は金だけ稼げればいいんだから、患者の病気は悪化してくれた方がいいんだって。そんなことばっかり言ってた。俺、総合病院の先生がそんなことするはずないって言い返したんだけど、じゃあ何で井崎先生は俺たちにきちんと病気のこと説明しないんだって言われたら……」
反射的に言い返しそうになったが、響也に向かって文句を言っても仕方がない。黙って彼の言葉の続きを待った。
「真幸、運ばれるときに「死なせてくれ」って言ってましたよね。最近は、話しかけても答えないでぼうっとしてるか、寝てるかのどっちかで、何かの拍子に「もう死にてえな」って言うこともあって」
「……意外だな」
真幸はもっと剛健、剛直なイメージがあった。つくづく、患者は医者に本当のことを言ってくれないものだと思う。
「本当ですよ。先生の前だと軽口叩いてたりしてたけど。それに、血を吐いて運ばれていく二日くらい前から、幻覚を見てる感じだった。特に夜。あいつ、ずっとひとりで話してるんですよ。なんていうか、まるで目の前に優奈って人がいるみたいに」
響也は、言いながら自分の体を抱きしめるように腕を交差させていた。真幸のことを語る響也の唇が微かに震えているように見えた。
「すっごく、普通のことを言ってるんですよね。コンビニ行くけど、何かいるか? こないだ見た映画の俳優が今度は何とか言う役をやるみたいだけど、見に行こうか? とか。泣きそうな声で、なんで俺じゃなくて隆弘さんなんだよ、とか……言ってたこともありました。たぶん、彼女と前にそういう会話、したことあるんじゃないのかな」
また同じ話を聞いている。響也の話を聞きながら、井崎は強い既視感を覚えた。
「昨日、先生に見つかったけど、夜中に屋上に逃げるの、初めてじゃないんだ。真幸を見てるの辛かったし、あのオッサンが井崎先生のこと、ああだこうだ言うのを聞くのがすごく嫌で……」
「それで、自分で抜いたのか?」
違う、と彼は擦れた声で言った。
「抜いたのは、あのオッサン。それで、昨日はそのままどっかに逃げたみたいだったけど、普段は俺が帰ったら元通り点滴を入れて行くんですよ。そういう経験があるから大丈夫って……」
「何だって?」
聞き捨てなら無いセリフが聞こえたその時、胸ポケットに入れておいたPHSが振動し始めた。一瞬にして空気が変わる。
「響也くん、ありがとう! 参考になった! ああ、カップはそのままそこに置いといていいから! 早く寝ろよ!」
呼び出しがあれば行かなければならない。電話を取りながら、井崎は言うべきことだけ早々に告げて、医局を飛び出した。
その後、ひとり残された響也は、半分近くコーヒーが残ったカップを大事そうに抱えたまま、しばらくそこに座っていた。おもむろに顔を上げ、彼は井崎が放り出していったカップに目を止める。そこに伸ばした指先は、微かに震えていた。逡巡の後、響也はほんの一瞬だけ、カップに唇を押し当てた。そして悲しげに笑う。
「にが……」




