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「やっべえ……俺、刺されるかもしれん」
「ご愁傷様」
なぜだか妙に機嫌のいい室井が、井崎のぼやきに真顔で返してきた。そんな室井を見上げつつ、井崎はつい溜め息など零してしまう。
「刺されたら自分で縫合すればいいじゃないですか。得意でしょう」
思いがけず、大野がそんなことを言ってきた。どういう風の吹き回しだと唖然とした井崎を他所に、室井が声を上げて笑う。
「確かに。救急隊員に向かって救急救命セット! 急げ! とか言ってそうですよね、こいつ」
「そうそう。局所麻酔の用意が間に合わない! 心室叙細動開始する! と、ぜひとも救急隊員に言って欲しいものです」
大野はカルテを捲りながら面倒くさそうに芝居がかったセリフを口にしていた。いろいろと疑問が湧く。
「ちょ、ちょっと待ってください、大野先生。心室叙細動開始の時点で心臓、止まってるんですから、意識ないでしょ? 俺はどうやって喋ってるんですか、それ」
「井崎先生なら余裕ですよ、それくらい。それで? 今度は何をやらかしたんですか?」
何をやらかしたのか、と聞かれて、井崎は言葉に詰まった。
「プライベートの問題です……」
かろうじて言葉を搾り出したものの、大野は不思議そうな顔をするだけだ。室井がさりげなく小指を立てながらニヤニヤしているのを見て、ようやく彼は納得したらしい。
「まさかとは思いますが、患者さんに手を出したわけではないですよね、井崎先生」
「いやいやいやいや、さすがにそこまで不謹慎なことはしませんよ」
ならいいですが、と呆れたように言い捨て、大野はコーヒー片手にカルテのチェックに戻ってしまった。室井が踊るような足取りで井崎の前にやってくる。
「なあ、井崎。子作りは計画的にやれよ。最近の学生は「ヤればできる!」と教えられるんだと。お前もキモに銘じておけ」
途端、コーヒーを噴き出した大野が盛大に噎せ返っていた。
「なんつーか、まあ、おめでとう、とだけ言わせてもらおうか。先輩として、後輩の恋の成就は嬉しく思うよ」
心にもないことを、と思いつつも、反論できない井崎は黙ってコーヒーを飲むに留めた。そして、室井がやや表情を改めて詰め寄ってくる。
「正直なところ、これからどうする気なんだ?」
「これからって?」
つい聞き返すと、盛大な溜め息をつかれた。
「ヤることヤったらスッキリしちまって次を考えないのは男の悪いサガだ。今後の付き合いのことだよ。どうするつもりだ。お前、おふくろさんから結婚を急かされてたろ?」
思わず言葉に詰まった。だが、思いがけず室井が真剣な顔でじっと凝視してくるので、井崎は腕を組んで睨み返す。
「そりゃあもちろん、結婚前提にってことで、頼んでみるさ」
「それならいいが」
室井が納得したようなので、井崎はこの話題から逃げる意味で、カルテを広げた。そこに視線を落としたとき、室井が「そう言えば」などと言って来て、心底ウンザリさせられた。
「そうそう。ひとつ言っておかないといけないことがあるんだよ」
室井はどこまでも楽しそうである。「後から俺が縫ってやるから殴らせろ」と本気で言いかけた。
「半年くらい前だったかなあ。友ちゃんがお前のことで相談しに来たんだよ、俺のところに」
「友ちゃんが?」
「彼氏のことが好きな気持ちは変わらないんですけど、どうしても井崎先生のことが気になるんです。医者だけは嫌だと思っていたのに、どうしたらいいと思いますかってね」
室井のさりげない暴露に、井崎は思わず絶句した。
「待てよ、お前! 何だ、その話! 聞いてないぞ!」
室井はあくまでしれっとしている。
「全面的に協力するとは言ってない」
「だったら、どのあたりを協力したって言えるんだよ」
彼はにっこり笑った。
「お前が高梨から飯に誘われた時、俺は必ず付いていってた」
「……都合よく減る腹だとは思っていたよ」
「まあな。ついでに、女を作ったらどうだ、ということも繰り返し言って来たつもりだ」
複雑な思いで肩を落とした井崎だったが、室井は少しも悪びれた様子を見せなかった。
「そういうことはな、あくまで本人たちの問題なのさ。他人があれこれ画策しても、いいことにはならん。そうだろ? ただ、高梨と連絡を取り合ってるっていうことだけはな、見過ごせないと思ったわけだ。日々の激務で井崎先生はお溜まりになってらっしゃるようだしねえ、高梨は高梨でそれなりに可愛い顔してるだろ? 酒の勢いでつい、なんてことになったら申し訳ないじゃないか」
「あくまで友ちゃんの味方なのか」
「当然さ。まあ、結果的にはうまくいったんだから、文句は言うな」
確かにそうだ。そう思うことにしておこう。何にせよ、友恵との交際がうまい具合に進みそうなのは自分にとってめでたいことだ。プライベートが充実すると仕事への意欲も増す。土曜日の当直などという憂鬱な仕事も、今夜ばかりは気持ちが軽い。
「今後、お前のことは信じないように気をつけることにする」
悔し紛れに言うと、室井が軽快な笑い声を上げた。
「信じて“すくわれる”のは足元だけだろうが。今頃知ったか」
背後で大野が小さく笑った。
「じゃあ俺は帰るぞ。あんまり調子乗って羽目を外すなよお」
「とっとと帰れ、お節介な既婚者」
室井は最後までニヤニヤしながら医局を出て行った。これみよがしに溜め息などついてみるものの、どうしても口元が緩んでしまいがちになる。大野に見咎められるのを誤魔化す意味も含めて時計を見上げた。もうじき消灯時間である。問題児を見舞っておこうか、などという気になるのも、きっとプライベートの影響だ。
「大野先生、ちょっと響也くんの様子を見て来ます」
「どうぞ。僕は自分の仕事が終わったら帰りますので。お疲れ様」
いつものぶっきら棒な口調で、大野はカルテをじっと睨んだまま答えた。その様子を眺め、井崎はほとんど無意識に白衣の襟を正したあと、病室へと足を向けた。
響也がいる四人部屋に、五十代の男性が新たに入院してきた。男性が使っているのは、少し前まで小野田隆弘が使っていたベッドである。真幸はまだ集中治療室から出られず、もうひとりの住人である老婆は、この時間はまだ静かに眠っている。
「響也くん、調子はどう?」
カーテンの向こうから声をかけた後、少し時間を置いてから顔を見せる。返事はない。テレビも消されている。本人は布団を頭からかぶって不貞寝を決め込んでいる様子だ。夕べ、看護師長の鈴木から大目玉を食らったのが、少しは利いたらしい。
「診察だよ」
苦笑いしながら、薄い布団を捲る。マンガのようにダミー人形でも仕込まれているかと思いきや、本人はちゃんとそこにいた。微かな寝息が聞えてくる。眠っている響也は、余計な感情や思考が削ぎ落とされている分、その肉体本来の美しさが際立っているように見えた。不眠を訴えている彼が眠っている。起こしたら可哀想だと思い、井崎は訪問を改めることにした。
布団をかけなおしてやった時、彼の眉が僅かに動く。あ、と思ったときには、閉じられていた瞼が開いて井崎を見止めた。
「悪いな、起こした。診察していいか?」
響也はふいっと顔を背けてしまった。
「今日はちゃんと入ってるな」
脈拍を測りながら、さりげなく点滴を確認する。点滴の針は、きちんと静脈に入っていた。固定のためのテープも剥がれてはいない。それにしても、心配になるくらい細い腕だった。
「夕べ、自分で針を抜いたのか?」
腕をそっと下ろしてやりながら聞く。響也からの返事はなかった。
「危ないからもうやるなよ。今日は眠れそう?」
どうやら今夜も王子さまはご機嫌斜めらしい。そっぽを向いたまま、一言も喋るつもりはないようだ。脈拍は特に異常なし。ただし、やはり紫斑が目立つ。
「ちょっとごめんよ」
一言断って、聴診器をパジャマの裾からもぐりこませる。胸を露出させないのは、女性患者の聴診を行う際、医師側に求められる配慮だが、彼の場合もそうした方がいいかもしれないと思ったのだ。
胸の音にも異常はない。ざっと見たところ、紫斑病が悪化しているような所見もない。顔は相変わらず白いが、これはおそらく生来のものだろう。
「変わったことはない? 気分が悪いとか、頭痛がひどいとか」
聞きながら、頚部のリンパ管を触診する。特に腫れてはいない。
「そう言えば、ちゃんと薬は飲んだか?」
首から手を離すと、響也は質問に答えることもなく、ふいっと横を向いてしまった。口には出さないが、やれやれ、という思いだ。
「今のところ順調そうだね。もうちょっとだから、頑張れよ」
「……真幸にも同じこと言ったんですか?」
立ち去ろうとした間際、思いがけない質問がぶつけられた。
「別に答えなくていいですけど。おやすみなさい」
布団をかぶる響也を見下ろし、井崎はしばし考えを巡らせた。軽く息をつき、静かに言ってやる。
「あいつも今、がんばってるよ。意識が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。難しいところだ。だけど、響也くんと真幸は何もかも一緒じゃない。真幸を参考にしても無意味だよ」
そう言えば響也と真幸は同年齢だったということを今更ながら思い出した。体格も性格も違いすぎて、つい真幸の方が年上のように思っていたが、彼もまだ十六歳だ。
「集中治療室から出て来られたら、顔を見に行ってやってくれ。今、ぼうずになってるから、頭を見て笑わないようにな」
反応はない。井崎はその場を後にした。




