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「医者の言うことは聞けなくても、近所のおばさんの言うことはよく聞ける連中ってのは多いもんだからなあ。分からんでもないが、それにしても災難だったな、大野先生」


 コーヒー片手に、それほど気の毒だとは思ってそうにない様子で室井が言った。


「まったくだよ。六時間かけた手術の挙句、ようやく患者を一般病棟に送り出せたと思ったら、勝手に薬を飲んでまた三時間半の救命措置。何とか意識を取り戻せたところで事情を説明したら、感謝されるどころか、医療ミスだの、隠蔽だのなんだのと」


 本日こなした手術の報告書を仕上げながら、井崎は深い溜め息をついていた。


「なあ、井崎。なんで患者が医者の言うことより知り合いの言うことを聞くか、知ってるか?」


 楽しくて堪らない、と言った表情の室井を見やり、井崎は深く息をつく。苦手な書類仕事なのだ。黙ってやらせて欲しいというのが本音である。


「知るかよ、そんなこと。俺にはとても信じられないな。量を間違えれば致命的になる薬だってある。似たような症状だからっていう理由で同じ薬を飲んだら、持病によっては悪化することもある。信頼できる医療機関が処方した薬でもない限り、俺は絶対に飲む気にはならないね。昔から言うじゃないか。毒と薬なんて紙一重なんだ」


 早口に言えば、室井は分かってない、とばかりにかぶりを振る。


「そう思えるのは、お前にそれなりの知識があるからだよ。医者でも薬剤師でも看護師でもない連中が、薬の本当の怖さなんざ、分かるわけねえだろ」


 室井はコーヒーを一気に飲み干した。


「それに、医者は責任があるから厳しいことしか言わないが、無責任なヤツは、大根おろしを食えばどんなに酒を飲んでも肝臓が悪くなったりしない、なんて言って回るんだ。肝臓の悪い大酒呑みにとっちゃあ、無責任な連中の言う言葉の方が、よっぽど都合よく、耳にも優しく聞こえるだろう。そういうことだよ」


「大根おろしって……どこにそんな根拠があるんだ」


 思わず笑ってしまう。そう言えば、随分前に下痢を治そうと思って熱湯を飲み、咽喉部を火傷してきた患者がいたことを思い出した。


「ところで、例のヤンキー兄ちゃんはどうだ?」


「何とか……って、ところだな。あんだけ頭の中を出血してたからな。意識がどうなるか俺には想像もつかない。ただ、幸いなことに出血箇所が良かったんだ」


 もちろん、問題が消えたわけではない。だが一時的には何とかなった、と思った。これが年配者だと、最初の吐血時点で処置をする間もなくあれよこれよという間に血圧が一気に下降し、あっという間に心肺停止状態まで持っていかれてしまうことがよくある。生命力に溢れているとは、まさにこういうことを言うのだろう。


「一時は、どうなることかと思ったよ。こっちは頭の方だけで手一杯だったっていうのに、いきなり心臓に異常が出たんだからな。開けてみたら冠動脈から血が噴き出してた」


 井崎はコーヒーを口に運ぶ。


「大野先生が手伝ってくれたんだ」


「大野先生が?」


「おかげで助かった」


 室井が何か言いかけた時、医局のドアが開いて私服に着替えた友恵が顔を見せた。友恵に一言告げて、井崎は報告書の残りをさっさと書き上げることに集中した。室井の視線が気になる。敢えて無視した。室井と違って井崎はまだ独身なのだ。誰と食事に行こうが、文句を言われる筋合いは無い。


「よおし、終わった。室井、部長に渡しておいてくれ。じゃあな」


 何とも言えない顔をしている室井に書類を押し付け、井崎はさっさと白衣を脱ぎ、車のキーを手に取った。ぐずぐずしているとロクなことがない。室井が食事なら自分も行くと言い出す前に、早々に逃げ出すことにした。


「なんか、いろいろ都合がつかなくて、ようやくって感じですね」


 会話の糸口を探しながら消灯した後の廊下を歩いていると、先に友恵の方から話かけてきてホッとした。


「そ、そうだなあ。結局、今日は真幸が急変して呼び出されたし……」


「仕方ないですね。いろいろありますから。特に救急は」


 そんなたわいない会話をしながらエレベーターの前に立ったとき、井崎は二つあるエレベーターのひとつが稼動しているのに気付いた。こんな時間に、という思いが頭を過ぎり、ついエレベーターが停止する階を目で追ってしまう。


「最上階……」


 友恵も気になったらしく、回数表示をじっと見つめていた。


「屋上か」


 無論、この総合病院では自殺防止のために屋上にはフェンスを張り巡らせてある。だが、その気になればフェンスをよじ登ることもやってできないことはない。ちょうど看護師たちの巡回時間直後という時間がまた、嫌な予感を増幅させていた。


「私、見てきます」


 言うが早いか、友恵はすでに看護師の顔でエレベーターに乗り込んでいた。慌てて、井崎もその後に続いた。


「一緒に行くよ」


 彼女は小さく頷き、屋上のボタンを押していた。何事もなければないで、それでいい。だが、何か起きてからでは遅いのだ。患者の命が失われるということだけでは済まない。入院患者が自殺すれば、病院の評判に関わる。評判はそのまま経営に響く。医療業界も最近はシビアだ。採算が取れずに閉鎖した病院は多い。


 狭い箱の中で、井崎は手術とは違う緊張感を味合わされていた。友恵とは、仕事の関係上、肩が触れ合う距離に立つことが多い。だが、友恵が近くにいる時はいつも患者の血液や汚物の強烈な臭いが付き纏っているものだった。彼女の髪から香るシャンプーの匂いに、心臓が激しい鼓動を打ち始めていた。


 やがて二人を乗せた箱は目的の階に到着した。状況から逃げ出したくて、井崎はドアがまだ完全に開ききらないうちから、廊下に飛び出した。すぐ後ろを、友恵が付いて来た。


「あれ、響也くんじゃないですか?」


 強化ガラスのドアの向こうに見えたのは、簡易ベンチの上で抱えた膝に顔を埋めている響也の姿だった。そろそろ夏も終盤に近付こうという時期、朝夕には確かな秋の気配が滲み出ている。彼はパジャマの上に何も着ていない。井崎は思わず溜め息が出た。


「よかった。自殺って雰囲気じゃ無さそうですね」


 それはそうだが……。同室の老婆は相変わらず夜中になると演歌を歌い出すし、話し相手だったという真幸は今、集中治療室だ。慣れない病院暮らしはただでさえ精神的に疲労がたまる。それを思うと、このまま放っておくべきかもしれない、と思うのだが……。


「この上さらに風邪ひかれたら困る」


 もしそこにいるのが真幸だったら少々は平気だろうから、と放っておいたかもしれない。だが、響也は見ている方が心配になるほど線が細い。人を見た目で判断するのはどうかと思うが、どうも響也の場合はこのまま放っておく、という選択ができなかった。


「響也くん、何してるんだ?」


 驚かせないように、敢えて音を立てながらドアを開く。怒っていない、という雰囲気を前面に押し出しつつ声をかけると、蹲っていた響也がはっとして顔を上げた。


 一瞬、泣いているように見えた。


「どうした?」


 顔を見ようとすると、彼は弾かれたように顔を逸らし、立ち上がって逃げ出してしまった。咄嗟に腕をつかめば、凄い勢いで振り払われる。ほんの一瞬、井崎を睨んだ彼の表情は今まで見たことがないほど、嫌悪と憎悪に満ちていた。


「響也く……!」


 友恵を押しのけるようにして、響也はさっさと病棟に戻っていってしまう。そして、ドアを閉め、挙句に鍵までかけてしまった。


「マジかよ! あいつ……!」


 屋上に締め出される格好になった井崎と友恵は顔を見合わせていた。幸い、連絡手段はいくらでもあるので焦る必要はなかった。


「先生、響也くん、点滴どうしたんでしょう」


 言われてはっとする。二人は同時に屋上の床に視線を走らせた。点滴を止めずに引き抜くと、血液が逆流して大量に出血してしまうのだ。幸い、血痕の痕跡はなかったが、何がどうなっているのか自分で診ていないからさっぱり分からない。井崎は苦い顔でPHSを取り出した。


「室井か? 響也くんの病室に人をやるように言ってくれ。自己抜管(自分で点滴を抜くこと)したみたいなんだ。それで、彼に屋上に締め出された。悪いが外科病棟の最上階まで来てくれ。……ああ、悪いと思ってるよ」


 通話を終えた瞬間、唇に柔らかくて温かなものが押し当てられた。首に回される腕、胸元に当たる乳房の感触……一瞬、頭の中が真っ白になった。

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