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39(手術中の描写アリ 流血注意)

 廊下を、複数の医師や看護師たちが駆け抜けていく。


「先生! 血圧が急激に低下しています!」


「処置室に運べ! まずは輸血だ! 急げ!」


 ストレッチャーに移したその直後、自力で身を起こした真幸が口から大量の血液を吐き出した。看護師が慌てて膿盆を差し出す。激しく咳き込みながら、真幸は噴水のような勢いで血液を吐き出していった。土気色の生気の無い顔を見て、井崎は看護師に家族へ連絡しろという指示を出した。


 吐血が収まると、ぜいぜいと荒い息をしながら、真幸は倒れこむように転がった。二人の看護師がその体を支え、後頭部を守る。そこら中に飛び散った血液のせいで、閑散としていた病室が一気に生臭くなっていく。


 処置室へ向けて病室を出る瞬間、愕然とした顔で立ちつくす響也の姿が見えたが、井崎は構わず、そのままストレッチャーを追いかけた。


「おい、真幸! しっかりしろよ!」


 機器類が唸りをあげる。あちこちで指示と報告が飛び交っている。処置室に運ばれた真幸を、大勢のスタッフが取り囲んだ。


「先生」


 口元にあてがわれる酸素マスクを押しのけ、擦れた声で、真幸が名前を呼んできた。井崎は手を止めて彼の口元に耳を寄せた。


「優奈、死んだんだって……」


 腕を掴んで必死に訴える真幸の力は信じられないほど弱かった。真幸が口にした「優奈」というのが、いったい誰のことなのか、井崎にはさっぱり分からなかった。


「後で詳しく聞く! 後で詳しく聞くから! いいな?」


 幼い子供に言い聞かせるように強く言えば、真幸は力なく笑った。


「頼むからさあ、俺もこのまま死なせてくれよ……」


 井崎が絶句した瞬間、真幸は意識を失ってしまった。素早く機器類に視線を走らせる。血圧が急激に低下している。人工呼吸器から大量に酸素を送り込んでいるにも関わらず、血中の酸素濃度も徐々に下がりつつあった。余計なことを考えている暇はない。


「CTだ! 出血箇所を確認する! 急げ!」


 そう言った瞬間、意識のない真幸が横になった姿勢のまま大量の血液を吐き戻した。人工呼吸器の半透明な器具が、一気に真っ赤に染まってしまう。


「吸引器!」


 言うと同時に友恵が目的のものを差し出してきた。引っ手繰るように受け取り、気管に詰まった血液を吸い上げてやる。そうしている間にも、後から後から血液が噴き上げてくる。血まみれになりながら、井崎は素早く機器類に視線を向けた。


「このままじゃ持っていかれそうだな」


 脾臓摘出手術から僅か二日。恐れていた事態になった。トキソプラズマの増殖を抑える薬を処方していたにも関わらず……。


 幸い、彼の心臓はまだ動いている。微かではあるが自分で呼吸もしている。他力本願は本意ではないが、井崎は真幸の生命力にかけてみることにした。


「EGD(内視鏡)!」


 まずは出血を止める。何事もそれからだ。頷く暇もない様子で、看護師たちが内視鏡を用意した。意識のない相手に麻酔は必要ない、と思っていたのだが、カメラが喉元を通過する際、真幸が苦しげに呻いて、抵抗するような素振りを見せた。


「じっとしてろ!」


 看護師たちに抑えられる真幸にそんなことを言いながら、容赦なくカメラを消化管に差し込んでいく。出血箇所は思いがけず早い段階で見つかった。前回の時よりやや下方に、血液が噴き出している箇所がある。素早くクリップで処置をして、その他の出血箇所を確認し、患者を苦しめるカメラを抜き取った。


「CTだ、急いで!」


 最大の出血箇所を止めてしまえば、多少なりとも時間に余裕が持てる。だが、油断はできない。看護師たちがストレッチャーを押し、真幸をCT検査室に連れて行った。その様子を見やり、井崎はほんの少し息をついた。


 血まみれになったラテックスの手袋を外し、丁寧に手を洗う。他人の血液ほど怖いものはない、というのは医学界でなくとも常識だ。


「だいたいねえ、あんたたちがちっとも治せないからじゃないの!」


 そして、ほっとすると、余計な音声が聞こえてくるものである。


「もう半年よ! 半年も入院してるっていうのに、ちっともよくなならない! みんな言ってるわよ! 医者なんか信じるもんじゃないって! 金儲けのことしか考えてないんだから!」


 声がする方を見やる。そこには苦い顔をしている大野と、二人の看護師、そしてベッドに横になっている中年の女性患者がいた。


「もう騙されたりしないからね! 嘘ばっかり!」


「……ですから、橋本さんが体調を崩されたのは、こちらが出していない薬を勝手に飲まれたからです」


「馬鹿言ってんじゃないわよ! たかだか痛み止めくらいで、どうして体調が悪くなるって言うのよ! 本当は手術を失敗したんでしょう? そうでしょう? あんたたち、医療ミスを隠したいから、田中さんがくれた痛み止めのせいにしてるんでしょっ?」


 どうしてそれだけ喚ける患者が処置室にいるのか、井崎としてはそちらの方が不思議だった。ただ、会話の流れからして、いつかのカンファで大野が言っていた例の患者だということは察しがついた。


「失礼ですが、患者さんはどうされるのが、希望なんでしょう」


 差し出がましいとは思いつつ、井崎はつい口を挟んでいた。患者の女性も、血まみれの術衣を着た井崎を見て、さすがに顔色を変えた。相手の思考が真っ白になったところで、言葉を続ける。


「病院側としては、患者さんの健康を取り戻すために、最大限の努力をしています。意識不明になられた橋本さんを必死に救命したのは、こちらの大野先生です」


「そんなの当たり前よ! だって医者でしょう! 医者なら患者を助けなさいよ! 何のために高い金を払ってやってると思うの!」


「健康はお金では買えません」


 静かに言えば、患者は再び口をつぐんだ。


「橋本さんが健康を取り戻したいと思われるのなら、こちら側の指示をきちんと守ってもらう他にありません。患者さんの協力なしには、どんな優秀な医者でも病気を治すことはできないんです」


 そう言って、井崎はさりげなく大野を見やった。患者の視線が井崎と大野を素早く交差していくのが見える。患者が再び何かを言いかけた時、真幸のCT検査が終わったという報告が入った。


「では、俺はこれで」


 軽く頭を下げると、橋本がまだ話は終わっていないと喚きたててきた。自分から首を突っ込んでおいて途中で逃げるのはどうかと思ったが、正直それどころではない。さっさと処置室を後にした。


「脳内に出血……」


 真幸のCT画像を見るなり、井崎は眉根を寄せた。冗談だろ、と呟きたい気分だった。かなり大きい。経過を知らなければ交通事故でも起こしたのかと疑うレベルだ。


「仕方ない。開けるぞ」


 彼が頷けば、看護師たちが何も言わずに検査室を駆け出していく。一刻も早く脳内にできた血液の固まりを取り去ってやらなければ、頭蓋骨の中で脳が圧迫され続けることになる。言うまでも無く、脳というのは人体の中で最も重要な箇所だ。


 その人の人格にも関わってくるため、そこにメスを入れる際には、いつも以上の緊張を強いられる。だが、躊躇している暇はない。こうしている間にも、彼の頭の中ではじわじわと血腫が大きくなりつつある。


「先生、準備できました」


 呼びに来た友恵に軽く頷き、井崎はCTの画像を最終確認し、深呼吸して患者のもとへ足を向けた。


 処置室に向かうと、そこには見事だった金色の頭髪をすっかり刈られた真幸がいた。ぼうず頭も見せ方次第だ、などと心の中で慰めの言葉を送っておく。それに、髪の毛はまた伸びるものだ。生きてさえいれば。


「始める。バイタルから目を離さないように。矢作先生、よろしくお願いします」


 大至急で呼び出した麻酔科医の矢作が頷いたのを確認し、井崎は頭皮の切開に取り掛かった。途端に流れ出してくる血液を吸引しつつ、頭蓋骨を露出させていく。続いてストライカーを起動させ、頭蓋骨の切断にかかった。毎度のことながら、工事現場のような音だ。


 四角形に切断した骨を外すと、その向こうに脳を覆う三重の膜、髄膜が見える。それぞれ外側から硬膜、くも膜、軟膜と呼ばれるそれらを透かして、どす黒い血が見えていた。メスを入れると、脳と頭蓋骨の隙間を満たしている脳髄液と共に、ゼリー状になった血液がドロリと溢れ出してきた。


 脳挫傷を起こしているわけでもないのに、頭の中にこれだけの出血がある症例というのは初めてだった。だが、やっていることは今まで何百件と担当してきた交通事故の患者と同じなので、戸惑うことはない。しかし……。


「先生! 血圧が急激に下降しています!」


 看護師の声にはっとしてモニターを見る。血圧が下降すると同時に心拍が不規則になり、弱まり始めている。ここへきて、更に心臓への異常が疑われる事態が発生した。


「誰か、手が空いてる先生を早く呼んで……!」


「僕でよければ手伝いますよ」


 看護師に最後まで指示を出すより早く、両手を胸の高さに掲げて手術室に入って来たのは大野だった。


「僕の専門は脳神経外科です。そして、井崎先生の専門は心臓血管外科ですよね? 交代してください」

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