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「トキソプラズマ脳炎? 何ですか、それは」
相変わらずおもしろい顔だな、などと思いながらも、井崎は考えを顔に出さないように注意しながら慎重に言葉を探した。
「ごくありふれた寄生虫の一種です。世界全体の人口では、十人に一人が感染していると言われています。アメリカだけでも七○○○万人が感染しているというデータがありますが、実際はもっと多いでしょう。残念ながら、日本人のデータはありませんが」
「響也が、それに感染しているって言うんですか?」
父親の顔に浮かんでいるのは恐怖そのものだった。そういう反応を少しでも和らげるために「ごくありふれた」という言葉を使ったり、世界的に見て、どれほど多くの人がこの原虫の寄生を受けているか話したつもりだったのだが、どうやら効果はなかったらしい。
「はい。検査の結果、響也くんは感染しています」
「いったい、どうやってっ?」
声を荒げる父親を見て、井崎は無言で冷たい水を勧めた。
「トキソプラズマという虫は、ネコとネズミの間を行ったり来たりしている虫なんです。ネコの体の中で大人になり、子供を作って外の世界に出して、ネズミに食べられることでネズミの体に入って、虫がいるネズミをまたネコが食べて、という具合ですね」
ついさっき寄生虫の専門誌で仕入れた情報を尤もらしく披露しながら、井崎は父親の反応を窺った。
「何事も無く、ネコとネズミの間を往復していてくれればいいんですが、現実はなかなかそうもいかないようなんです。トキソプラズマの子供は、ネコの……主に、子ネコのフンの中に多くいると言われています。例えば、野良ネコが公園や学校の砂場にフンをする、というのは、よくあります。当然、昼間には砂場で子供が遊ぶわけです。その際に、手についたトキソプラズマが口に入ったということも考えられます」
「公園で遊ばせた後はきちんと手洗いをさせろと! あの子が小さいうちからきつく言っておいたはずなのに! これだからあいつはダメなんですよ、まったく! こっちが言っている当たり前のことの半分も出来ないんだ。おまけに何の考えもなしにペットが飼いたいだなどと! 反対しておいてよかった!」
父親の反応を見て、井崎はトキソプラズマが生の豚肉からも感染する可能性があるということは黙っておくことにした。生の豚肉を切った包丁、まな板の洗浄が不十分なまま、生で食べる野菜などを切ったりすることで感染の可能性が増える。響也の母親が無駄に責められる必要はないだろう。
トキソプラズマは、ネコとネズミによって世界中のいたるところにばら撒かれた虫だ。よほど注意していなければ、感染は簡単に起きてしまう。だが、彼には理解するつもりがないようだった。
「感染しても、通常は全く問題ありません。何の症状も出ないまま天寿を全うされる方がほとんどです。問題になるのは、免疫状態に異常が出た時だけだ、と言われていました」
正確には、妊娠初期の女性が初めてトキソプラズマに感染した際、胎児に水頭症などの影響が出る症例があるのだが、それはこの際、関係ないので黙っておく。ついでに、免疫状態が異常になる、という最も有名な例が後天性免疫不全症候群、通称エイズだが、それを持ち出すと更に厄介なことになりそうだったので、そこも口をつぐんでおいた。
「今現在、大学病院と一緒に原因を探していますが、今のところ響也くんが罹っている病気と、トキソプラズマがどう関係しているのかは分かっていません。ただ、彼と同じ症状で入院されていた患者さんの中には、このトキソプラズマが原因で、脳の血管が詰まってしまい、そのまま亡くなられた方がいるんです」
「脳の血管が詰まるって……」
そこは突っ込むのか、と思ったが、ただ視線を落とすに留めた。
「免疫状態が普通の方の場合、トキソプラズマが脳の中にいても、何も悪さをすることなく、じっと大人しくしているんですよ。しかし、免疫が極端に低下すると、トキソプラズマが脳の中で一気に増えて、結果的に血管を詰まらせてしまうんです」
響也の父親は納得したらしく、幾度か頷いて見せた。
「トキソプラズマの増殖を抑える薬はあります。ただ、この薬はまだ未承認なんですよ」
未承認、という言葉で、彼は井崎が言わんとしていることを察したらしい。深い溜め息が聞こえてくる。決断はなるべく急いで、と言おうとした時、彼が難しい顔を向けてきた。
「息子の命には変えられません。使ってください」
潔い決断力に僅かながら感服した。真っ直ぐに彼の目を見ながら井崎は黙って頷いた。ふと、室井ならばどう説明するのだろう、という考えが鎌をもたげたが、午前十時を告げる時計の音に思考はあっさり中断された。
「これから、響也くんの回診に行きます。ご一緒されますか」
「ええ、そうします」
井崎は、響也の父親を伴って応接室を後にした。会話という会話が特に無い人間と連れ立って歩くと、何とも居心地の悪い思いが込み上げる。学生時代から、どちらかというと大勢で馬鹿騒ぎをするのが好きだった井崎は、誰かと一緒にいる時の沈黙が苦手だった。
「響也くんは、なんていうか、すごく繊細な感じの子ですね」
沈黙に耐え切れず、つい話さなくていいことを話してしまう。
「ジャニーズ事務所に入ったら人気者になりそうじゃないですか」
冗談めかして言うと、初めて響也の父親が笑った。
「ありがとうございます。顔だけは、母親似なんで」
見たら分かる。そう思ったが、口には出さなかった。
「小さいころは、よく女の子に間違えられていたんですよ。未だに服装によってはそう見えたりしますね」
その言葉から、彼は息子の性癖や売春のことは全く知らないのだろうと察しがついた。無論、知っていたら穏やかな顔などしていられるはずもない。彼らの家族関係について複雑な思いが沸き上がるが、敢えて考えないようにしておいた。




