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愛車を駐車スペースに入れてドアを開いた。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。また今日も一日が始まろうとしている。
「おはようございます、井崎先生」
医局に顔を出すと、デスクの拭き掃除をしていた友恵の柔らかな笑顔が目に入った。窓から差し込む陽の光が彼女の白い頬を照らしている。悲しいが、純粋に綺麗だと思った。
「おはよう。早いね」
他には誰もいない。当直の医師がこの時間にいないのは、昨晩運び込まれた重症患者から目が離せないという可能性が最も高いのだが、不思議と焦燥も不安も感じなかった。自分の手が必要な状況になれば連絡が来るだろう、と恐ろしく冷めた自分がいる。かつて新人だったころには、とても考えられない。慣れとは恐ろしいものだ。
「友ちゃん、コーヒーいる?」
自前のコーヒーメーカーにオリジナル・ブレンドの豆をセットしながら聞くと、友恵が嬉しそうに頷いた。やたら眠たそうなウサギがプリントされたカップが差し出された。残念なことに、井崎のセンスでは、友恵のカップの可愛さは理解できなかった。
「おいしい。落ち着く」
友恵の感想はなかなか個性的だ。苦笑いしつつ、自分もコーヒーを口に運ぶ。今朝は友恵のために淹れたせいか、いつもより香りが甘く感じた。
「先生、次の非番はいつですか?」
「え? 非番? 何事もなければ、明後日の十九日だよ」
「じゃあ、何事もないのを期待して、仕事終わったらご飯行きましょう。前に約束してたの、覚えてますか?」
可愛い顔でにっこり笑いながら言われれば、嫌だと言えるはずなどない。あまり期待を持ちすぎないよう自らに言い聞かせながら、井崎は何でもない顔で了承した。
二人の間に、何ともいえない沈黙が落ちる。
「おーっす! いるかぁ? 検査結果、出たぞお」
微妙に気まずかった空気は、声だけ元気いっぱいの室井が医局の扉を開けたことにより、跡形もなく粉砕した。
「あれ? なんだ、お前らだけか。まあいい。ほらよ」
英数字が大量に並んだプリントを押し付けられて、成り行きで受け取ってしまう。寝ぼけているのか、室井がいったい何の検査結果を持ってきたのか、咄嗟に思いつかなかった。
「これ、頼むわ。俺は今日、内科の方にお呼ばれだ。ああ、それから、真幸の手術の承諾書も入ってるぞ。じゃあな」
そう言って、室井はあっという間に姿を消してしまった。
「室井先生、相変わらず凄い髪型ですね」
友恵がぽつりと呟いた。
「もともとクセっ毛なんだよ。なのに洗ったまま放置したり、寝起きのまま出てくるから、あんな感じになるんだ。きっとね」
二人で密かに笑い合う。そして井崎は、室井が持ってきた検査結果に視線を落とし、申し送りが始まるまでの時間を過ごした。
「田村先生は、ちょっと手が離せないようなので……ええ、とりあえず申し送りを始めます」
部長の言う「とりあえず」の意味がいまいち分かりかねたが、井崎は敢えて何も言わずにおいた。いつもより十五分も遅れている。
「今現在、田村先生が担当されているのは、三十代前半の男性です。午前三時半ごろ、大橋町の交差点で事故に遭われたそうです……」
メガネを押し上げながら、書類を引っ掻き回す部長を見やり、井崎は我慢できずに立ち上がっていた。同時に、小柄な部長がギョロっとした目で見上げてくる。
「すみませんが、重要事項の報告を先にさせてもらいます」
いいですよね、とは聞かなかった。反対する理由はないはずだからだ。時間は有限だ。無駄にはできない。部長は黙って席に着いた。
「先ほど、病理の室井先生から、例の症例が疑われる入院患者について、トキソプラズマ抗体の有無に関する結果を受け取りました。因果関係は今のところ不明ですが、トキソプラズマ脳炎が併発する例が多いこと、一度発症すれば、極めて重篤な結果になることは、すでにご承知のことだと思われます」
井崎は、意図的に書類に視線を落とした。
「トキソプラズマ陽性の患者さんは、すでに死亡退院された患者さんを含めると、全部で十三名です」
そして、井崎は陽性反応が出た患者の主治医に検査結果を手渡した。受け取った各自が、難しい顔で数字を睨み始める。
「例の症例にかかると、必ずトキソプラズマ脳炎を発症するという確証はありません。確固たる結果もないのに、患者に高額な自費診療を負担させるべきかどうか、患者さんか、あるいはご家族とよく話し合われてください。僕からは以上です」
井崎が着席すると、一瞬しんとなった。真剣な顔で書類を睨んでいた部長が、慌てて周囲を見渡した。
「ええ……他に何かありますか?」
挙手したのは、大野だった。部長が何か言う前に、彼はさっさと立ち上がって喋り始める。軽く咳払いした。
「これは、ERだけでなくすべての科のスタッフに注意して欲しいことなんですけど。最近、患者さん同士の間で、勝手に薬をやり取りする人が多いようなんです」
大野の呆れたような口調とは裏腹に、医師たちが興味深そうな顔をする。
「まあ、ご本人には全く悪気はないようなんですよね。痛み止めが残っていたから、隣のベッドに寝ている患者さんが手術の傷が痛いと言っていたので、渡したと。ただ、痛み止めをもらった患者さんの方がね、手術直後でしかも高血圧の持病があったんですよ。おかげでICU(集中治療室)に逆戻りする破目になりました」
解熱鎮痛薬の一部は腎臓の血流を減少させ、塩分や水分を体内に留める作用がある。結果的に高血圧が悪化するわけだが、そんなこと患者が知るはずは無い。
「スタッフの数は限られてますからね、すべての患者がこちらの指示通り、薬を服用したかどうか、監督するわけにはいかないわけで。安易な考えで他人に薬を渡したり、渡された薬を服用したりしないよう徹底していくしかないでしょう。ご協力お願いします」
そして、朝の申し送りはお開きとなった。




