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「もう、いや! 自殺ばっかり! 堪えられないっ! ねえ、井崎くん、腐乱死体のあの臭いって嗅いだことある? もう、最悪なんだって! 今日のは特にひどくってえ! この季節に死後一ヶ月よ、死後一ヶ月! 鼻が曲がるかと思ったよお!」
ビールのジョッキを片手に、高梨が喚いている。警察も大変だな、と思った。ただ、人間の体が臭いというのは分からないでもない。自分自身も、初めて生きた人間の体の中身を見た時、内臓の臭いに嘔吐しそうになった記憶がある。
「腐ってグチャグチャになった死体を見た後だとさあ、百歳近いおばあちゃんを見ても、この人、美人だなあって思うのよね。腐乱死体と比べられても嬉しくないかもしれないけどさ、生きてるってだけで、人間って本当に綺麗よ」
高梨の愚痴に、室井がひとしきり声を上げて笑った。その後、彼は手の中にある写真に視線を向けた。
「なんとまあ、可愛いじゃねえの。これが流行の「男の娘」ってやつか。もっとエグいのを想像してたんだが、この子は可愛いな」
煮しめを突きながら、室井が楽しげに写真を弄ぶ。
「確かに見た目だけなら女の子としか言い様がないよな。脱がしてみてビックリってやつか。あ、いや、その前に声で気付くか……」
そう言えば、初対面のあの夜、こちらが何を問いかけても「あの少女」もとい「夏川響也」は何ひとつ答えようとはしなかった。
「一口に同性愛者って言っても実際はいろいろ難しいからなあ。だけど、この子の場合、こういうカッコをしてるってことは、頭の中身も女の子で間違いないってわけだな」
つまり、彼にとっては自分は「異性」にあたるわけだ。年若い医師と患者の場合、異性であれば、意識しないように心がけてはいても、どうしても触診の際に妙な緊張が生まれてしまうことはある。
響也を救急外来で初めて診察した際、彼はズボンを脱ぐのを嫌がっていたし、井崎に触診される際に緊張する様子を見せていた。あの時は意味が分からなかったが、ようやく納得できた気がする。
病院の駐車場で見かけた時の記憶が過ぎった。
「どっかで見た顔だと思った」
しかしながら、自分が見てきた夢のことを思うといろいろと心苦しいものがある。誰にも話さずにおいたことがせめてもの救いだ。
「昔、研修医時代にだな、ホモのカップルが真夜中の救急外来に駆け込んできたことがあってな」
珍しくビールを飲みながら、室井は苦笑交じりに語った。どうでもいいと聞き流す井崎と対照的に、なぜか高梨が興味を示した。
「まあ、一方は付き添いだったわけだが。ケツの穴の中に突っ込んだ大人のオモチャのコードが切れて、抜けなくなってしまったと。翌朝まで待ってもよさそうなものだったんだがねえ、付き添いの方が顔色変えて、彼に何かあったら! と延々ほざいてんだ」
「それで、どうしたの? まさか、室井先輩が取ってあげたの?」
なぜそんなことが気になるのだろう。興味津々と言った顔をしている高梨を見て、井崎は少しばかり呆れていた。
「いや、けっこう奥深くまで入り込んでたんでな、モチはモチ屋ってことで、肛門科の先生を呼び出してね。事なきを得たよ。ただし、真夜中に呼び出された肛門科の先生がかなり機嫌が悪くてね、カップルに延々と説教垂れて、正しい肛門性交の講義をかましてた」
「そんなことってあるんだねえ。恥ずかしいわあ、それは」
恥ずかしい、と言いながら目をキラキラさせている高梨を見て、井崎はつい溜め息を零していた。
「……性行為に伴う異物の残留、抜擢困難で医者に駆け込むなんてのはよくある話だろうが。何もゲイに限定する話じゃない」
室井が苦笑を零した。
「そりゃあそうだ。要は、安全安心なプレイを心がけましょうってことだよ。特にケツに関して言うなら、若いうちから無理すると、後々いろいろ大変だ。性感染症もシャレにならんしな」
言いながら、室井は写真を井崎の前においた。その指先は、響也と一緒に写っている中年男性の上に止まっている。
「というわけで、この男、うちの患者だぞ」
なんでもない口調で告げられ、井崎は思わず噎せそうになった。
「なんだって?」
「だから、この男の名前は岡部輝彦。三週間くらい前に尿路結石で緊急搬送されてきたと思ったら、その三日後にいきなり原因不明のショック状態で死亡退院していった人だ」
「岡部……」
覚えている。まさか、あの患者が夏川響也と関係しているとは思わなかった。井崎は、つい写真の中の岡部を見つめてしまう。
「二人の間に性交渉があったとして、もしこの人がフィラリアに感染してたなら、響也くんから移ったと仮定することも可能だがな」
結果はNOだ。報告はすでに聞いている。岡部輝彦にはフィラリア感染の所見はない。
「このフィラリアはヒトからヒトへは直接感染しないってことだろう。犬に噛まれた場合のみ、脾臓に異常が出る場合がある。その他の感染ルートは報告されていない。それはおそらく確定事項だ」
井崎は軽く息をつく。
「どうなんだろうな。岡部さんの死は、堀内先生じゃなくても納得できないものがある」
井崎の意見を聞いて、室井はほんの少し表情を引き締めた。
「幸い、岡部さんの遺族には病理解剖を承諾してもらえたんだ。結果が出るまでもうちょっと待て。それはともかく、俺の個人的な意見なんだが、フィラリアはともかく、消化管出血の方は、ヒトからヒトへ伝染してるんじゃないかと思うんだ」
無意識に麦茶のグラスを握り締めた。
「もう、難しい話ばっかり! 何よ、もう! 私を挟んで!」
突如、高梨が高い声をあげ、一気にグラスのビールを煽った。どうしたものかと室井を顔を見合わせたとき、高梨はテーブルに突っ伏しながら、警察の仕事がいかに過酷なものであるかをダラダラと語り始めた。
「もう、やってらんない。気晴らしににもならないよお。だいたい井崎くんも室井先輩も清潔一筋の病院でしか働いたことないからさあ、知らないんだよお。もう、臭いだけで死ねるよお。もう、たまんないよ、腐乱死体のあの臭い……」
三秒後、いきなり静かになったと思うと、静かな寝息が聞えてきた。井崎と室井は互いの顔を見やり、苦笑いを浮かべた。
「それで、何で消化管出血がヒトからヒトへ感染してると思う?」
室井は少し考え込んでから口を開いた。
「そればっかりは勘としか言い様がない。俺には残念ながら、個々の患者同士の人間関係までは調べられないからな」
井崎は何も言わずに頷いた。どっちにしろ、そういったウィルス学的な所見は近いうちに大学病院が出すだろう。
「それはともかく、俺はどうにも不思議で堪らんのだがね」
あっさりと話を変えた室井は、食べ終わった皿を脇へ押しやった。
「このフィラリア、ITP(突発性血小板減少性紫斑病)とよく似た症状を起こすってことになってるよな? 確かに、フィラリアが寄生して、血管が詰まって、脾臓が肥大して、その結果、血液の濾過っていう役割が過剰になって貧血症状が出るってのは納得できるんだ。なら、なんで患者は全身にアザができてる?」
言われて、井崎は言葉に詰まった。
「ITPで血小板が減少するのは、免疫機能が血小板をアレルゲンに認識してしまうからだろ? 免疫複合体と血小板が結合するのは偶然って話だってのに、まさかフィラリアが原因でそうなったとは考えられないぞ」
確かに……と、思うが、だからどうだと言われても困る。
「しかし、患者の全身にはITPに特徴的なアザが出てるだろ。病理専門医としては、どう説明する気なんだ?」
「通常の血小板の量じゃあ追いつかない勢いで、毛細血管の破壊が進んでる。これは消化管出血というより、むしろ全身からの出血なんじゃないかと俺は考えてる」
何も言わずに水のグラスを傾ける。室井が更に続けた。
「ただ、エボラ出血熱と違ってありがたいのは、進行が比較的ゆっくりしてるから、人間の免疫が応答する時間があるってことだな」
頷いたとき、携帯電話がメール着信を知らせてきた。母親からだ。何となく開封してみる。ただ一言「今日の夕飯はバンクーバーにしました」と書いてあった。
「お前、この暗号解けるか?」
メールを室井に見せると、彼は眉間に皺を寄せた。
「……なぜ夕飯にカナダの大都市を創造するんだ?」
頭の固い室井には難しいかもしれない。バンクーバーではなく、母はおそらくハンバーグと書きたかった。そしてハンバーグは子供のころ好きだった。要は、たまには実家に顔を出せということだ。
「それで、全身からの出血がどうしたって?」
まだ悩んでいる室井を無視して携帯をしまうと、仕事の話に戻った。一瞬考えて、室井は言葉を続ける。
「消化管出血か、もしくはITPそっくりの症状を訴えてきた患者が急増したのは、七月以降だ。僅か一ヶ月で、三十五人。大学病院を入れれば、もっと数は膨れ上がる。患者同士に明確な共通点はない。それを踏まえると、俺はヒトからヒトで感染するタイプの病原体だと思ったわけだ。さて、どうしたもんかね」
軽く息をつく室井を横目にチラリと見やり、井崎は大将を呼んだ。
「何でもいいんで、白い紙とボールペンを貰えますか」
無言で頷いた大将が暖簾をくぐっていく。
「真幸が犬に噛まれたのが六月の初旬だと言っていた」
ややあって、コピー用紙を三枚とボールペンを手に戻って来た。
「ツケといてください」
笑いながら言うと、大将は微妙な表情で頷き、そのまま仕事に戻って行ってしまった。
「例のサルが日本に輸入されて、脱走したのが五月初旬。死体が発見されたって報道があったのが、六月十三日。うちの病院で最初にフィラリア患者が運ばれてきたのが、七月四日」
井崎はその旨を紙に書き付けていった。「内視鏡の腕はともかく、お前、字はヘタクソだな」室井が何か言ったが、無視した。
「脾臓にフィラリア、消化管……いや、全身からの出血、それからトキソプラズマの三つを併発していた遠野久子さんがDOA(搬送時死亡)で来たのが、七月十六日。家族の話だと、二ヶ月ちょっと前くらいに犬に噛まれたってことだったよな。同じ症状の響也くんが……俺と会ったのが本当に響也くんで間違いないんだったら、あの子が犬に噛まれたのは六月の十二日。それで、今日が八月九日。先手を打って入院させたが、そろそろ重篤な自覚症状が出るころだ」
「潜伏期間は不明だが、感染してから自覚症状が出るまでだいたい二ヶ月ってところだな」
文字を見ながら呟いた室井に頷き、井崎はスケジュールを管理していた携帯電話のアプリを閉じた。
「問題なのは、意識障害が出てから決着がつくまでが早いってことだ。遠野久子さんの場合だと、意識障害が出てから二日で持っていかれてる」
井崎は、手の中のボールペンを回した。
「顕著な消化管……全身出血の患者は輸血で持ち直してる例が多い。今のところ、うちでは出血で死亡した例はトキソプラズマ脳炎を併発した例くらいか……」
井崎は改めて紙の上に視線を落とした。
「やっぱり、トキソプラズマの抗体検査は必要だ。室井、明日の申し送りで他の先生たちにもその旨を伝えておくから、よろしく頼む」
室井はただ頷いた。一瞬、部長の顔が過ぎった。軽く息をつく。
「それはそれでいいとして、問題は真幸なんだ。今後の治療方針を話し合おうにも、最初の一回きりで保護者が出てこないんだ。脾臓を摘出するかどうか、それさえ決められない」
井崎の言葉に、室井はただ「そうか」と言って視線を落とした。その反応に、井崎は室井に対して言い知れぬ差異を感じていた。同じ「医者」でありながら、患者の前に出る臨床医とそうでない病理医の間では、ひとりの患者に対する温度差がこれほどまでに違う。
「ヤンキー兄ちゃんの親御さんの住所、教えろ。俺が出向いてくる」
「は?」
いきなり何を言い出すのか、と井崎は思わず室井を凝視した。
「早くしないと手遅れになるって話には賛成だ。ヤンキー兄ちゃんにはこないだの血液検査で、トキソプラズマの抗体が出てるんだ。早いトコしないと一気に持っていかれる可能性があるぞ」
「お前が親御さんに説明して、脾摘(脾臓摘出手術)の同意書を貰ってくるって?」
「そうそう。臨床医と患者、または患者の家族の仲介ってところか」
あまりにも突飛な言葉に、井崎はしばし固まった。
「そんな顔するなよ。前から考えてたんだ。お前らのような臨床医は患者の治療をするだけでも重労働だろ? それに、どっちかって言うと、素人の患者相手に症状の説明をするのが苦手だって連中も多いし、ひとりの患者に二時間、三時間もかけて説明してたら業務に差し支える。その点、俺なら平気さ。患者に何を言われようが、はいはいと聞き流しながら、手術の同意書を取ってきてやれる」
「……一時期、病理科の外来を設立しようって話が一部の病院で出てたような気がするんだが、まさかお前、本気で……?」
室井が得意げに笑った。うちの病院だけは有り得ない、と看護師長の鈴木が断言し、爆笑の渦に包まれたのを覚えている。
「患者自身が自分の病と治療を知って、自分の命と真摯に向き合いたいと思うことは間違ってない。一昔前のように、何でもかんでも医者が一方的に決めて、患者はなぜ自分の体にメスが入れられるのかさえ分かっていない、なんて状態よりずっといい。ただ、医者側の都合ってものもあるだろ」
室井の目に、心なしか力が込められたような気がした。
「大丈夫なのか? 病理科だって激務だろ」
「お前らほどじゃない」
水を飲もうとしてグラスを傾ける。いつの間にか空になっていた。
「臨床医だったころに術中死させた子供がいた。それ以来、ずっと死体と検体相手の病理医をやっていた。何と言われようと構わないさ。なぜかって? それが俺の俺らしい生き方で、病理解剖室以外に、俺の居場所はないからだ。ただ、そろそろ新しい居場所が欲しくなってきたし、お前らを見てたらもう一度、医者として患者の前に立ってみたいと思ったんだ。総合医療センターの病理外来。悪くないだろ?」




