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苦虫を噛み潰したような、とでも言うのだろうか。田村が、複雑な表情で小野田隆弘のカルテをじっと見つめていた。窓の外には、夕暮れの残り火が微かに燃えている。また今日も一日が終わった。患者を連れ去る夜が来る。
小野田隆弘は順調に回復していた。回復していたはずだった、と言った方が正しいかもしれない。それなのに、なぜ退院を間近に控えておきながら突然死という経過を辿ったのか、井崎には到底、理解できなかった。
だからこそ、田村にかける言葉が見当たらない。他の医師たちも同様の心境らしい。今日ばかりは、どことなく余所余所しい雰囲気が狭い部屋を満たしていた。
「コーヒーでもいかがですか?」
遠巻きに眺めていても仕方が無い。井崎は敢えていつも通りの口調で話しかけた。声をかけられて田村が顔を上げる。その顔には、疲労と、そして深い傷心が浮かんでいた。
「ええ、いただきます」
「では、極上の一杯を淹れますよ」
口元だけで笑い、井崎は自前のコーヒーメーカーに持ち込みの豆をセットした。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。ブルーマウンテンの香りが殺風景な医局を満たすとき、井崎は束の間の安らぎを感じることができる。
田村と自分のカップにコーヒーを注ぎ、好みが分からなかったので備品のスティック・シュガーとミルクを添える。絶品のコーヒーはブラックに限る、というのが井崎の主張だが、好みは人それぞれなので文句は付けるべきではない。
「ありがとうございます」
カップを受け取った田村は、ほんの少し安らいだ顔をした。そしてブラックのまま口に運ぶ。
「ああ、これは美味い。さすがですね」
「疲れている時は最高のコーヒーに限りますよ」
綻んだ笑顔を見せられて、ほっとする。
「井崎先生はコーヒーにも詳しいんですね。淹れ方も手馴れてらっしゃるようだし」
「詳しいというか、趣味の領域ですね。どうせ飲むなら美味いコーヒーがいいという、単純な発想から始まりました。それで、気が付けば豆にこだわり、コーヒーメーカーにこだわり」
田村は微かに笑ってくれた。
「前にテレビで見たんですが、カプチーノの泡の上に絵を描いたりするサービスをする喫茶店があるらしいんですよね。いずれは、そういうジャンルにも挑戦してみたいなと思ってます」
田村は軽く息を落とし、カップに視線を落とした。
「カプチーノの泡に人体断面図でも書いたら、次世代の病院で流行りませんかね?」
「いいですね、それ。せっかくなんで、ダ・ヴィンチのウィトルウィウス人体図を描きますよ。美術の成績、並以下だったんですけど」
おもしろくない冗談だと思いながらも便乗してやった。しかし、それ以上、続けるのは無理だった。
「それで……田村先生、隆弘くんの件はとても残念でしたね」
井崎は慎重に言葉を選びながら目的の話題に切り替えた。途端、田村の表情が沈んでいく。
「私には、さっぱり分かりません。いくら考えても、彼が急死する理由が分からない」
「差し支えなければ、見せていただいても?」
「ええ、どうぞ」
差し出されたカルテを開く。小野田隆弘は二週間前、彼の友人である木村真幸と路上で喧嘩をしているところを救急搬送されてきた。
その時の所見は、意識レベル二ケタ……つまり、鮮明とは言えないがかろうじて自分の名前や住所などが言える程度の意識……木村真幸によるものと思われる頭部、顔面を含む全身二十五箇所の打撲、ガラスの破片で切ったと思われる切り傷、と書き込んである。
外傷はともかく、医師たちの目を引いたのは全身に細かく散らばった紫斑だった。それは、突発性血小板減少性紫斑病の所見によく似ていた上に、尋常でない血圧の低さから消化管出血を疑った田村は、即座に胃カメラを入れ、十二指腸からの出血が確認している。
その後、内視鏡を使って止血処置を施し、輸血を始めてから一時間もしないうちに、小野田隆弘は鮮明な意識を取り戻した。それ以後、検査結果に応じて輸血を受けながら順調に回復していった。
「運ばれてきた時は、ITP(突発性血小板減少性紫斑病)とよく似た所見でしたから、まずは血圧を安定させるために緊急輸血を行いました。実際、所見でも検査値でも治療成果が上がっていた。事実、彼の予後は良好そのものだったんです」
井崎は頷いて返す。その治療は、自分も例の症状を訴える患者に対して行っているし、隆弘が回復していたというのは、理解できる。
「血小板の輸血からフェロミアを使った薬物療法に切り替えてからも、特にアレルギー症状のようなものは出ていなかったんです。あの日も、同じ薬を出しています。なぜ急にショック症状を引き起こしたのか、いくら考えても原因が分からない」
「……病理解剖は、拒否されたんですよね」
「ええ。ご家族の気持ちは痛いほど分かります。こちらも、さすがの室井先生も、強く勧めることはできなかったようです」
正確な死因を突き止めるために、病理解剖は非常に有効な手段と成り得るが、その一方で遺族感情には決して優しくない。死因が特定されたところで家族は帰ってこないのだ。その上、遺体にメスを入れて体の中身どころか頭の中身まで取り出す、というのは、家族を亡くしたばかりの人間には酷な選択であることには違いない。
その時、胸ポケットのPHSが音高く鳴り響いた。




