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「ええっとですね……例の症例に関しての新しい報告があります。ええっとぉ……まずは、保健所からですねえ……どれだったかな」


 じっと下を向いたまま、ひっきりなしに書類を捲ったり、メガネの位置を調整したり、白衣の襟を正したりしている部長に業を煮やし、井崎はつい「代わりましょうか」と言ってしまっていた。


 大野の冷ややかな敵意が籠もった視線を感じながらも、井崎は部長から書類を受け取って立ち上がる。重要事項にざっと目を通した。


「保健所から、例のフィラリア症についての追加報告が来ています。狂犬病のような症状を発症していた野犬を二十五頭ほど捕獲、観察、解剖した結果、狂犬病ウィルスは発見されなかった、とのことです。この周辺の野良犬は徹底的に捕獲し、観察した結果なので、狂犬病ウィルスが蔓延している可能性はほぼ無いといっていいでしょう」


 医局の中に、安堵としか言い様がない空気が流れた。致死率が百パーセント近い狂犬病の患者はいない、という報告は、まさしく歓迎すべき一報だった。緊張を緩める医師たちを見やり、井崎は言葉を続けた。


「しかし、野犬の血液中には大量のミクロ・フィラリアが含まれていたそうです。血液を介して脳内に入り込んだ可能性が高く、実際、犬の脳内には大量の虫が確認されています。犬を狂騒状態から虚脱状態へ、狂犬病に似た症状を引き起こしていた原因はミクロ・フィラリアだと見て間違いないでしょう」


 井崎はいったん言葉を切り、報告書に視線を落とした。


「ただし、すべての犬の唾液腺の中にミクロ・フィラリアは確認されていません。よって、脾臓にフィラリアが食い込む症例の感染ルートは未だ不明だということになります」


 しかし、フィラリアが脾臓に寄生している患者は、必ず犬に噛まれた事実がある。幼虫が何らかの手段で人間の血液中に入り込んでいることは間違いないと見ていいはずだ。


 その一方で、狂騒状態の犬に噛まれた患者のすべてがこのフィラリア症を発症しているわけではない……。今はまだ答えが出ない。圧倒的にデータが不足している。


 静寂を破って、挙手した人物がいた。


「消化管出血とは、何か関係がありますか?」


 質問してきたのは、堀内だった。


「脾臓にフィラリアが寄生している患者さんも多いですが、ここ最近の患者さんでやたら目に付くのは特にこれといった理由もないのに消化管から大量に出血している症例です。中には……」


 その時、廊下を走ってくる慌しい足音が聞えてきた。医師たちの間にいろいろな意味の緊張が走った。


「急患です! 三十代の女性、飛び降り自殺です!」


 またか、と思ったのも束の間、誰より早く立ち上がったのは大野だった。大野はチラリと井崎を見やり、無言で医局を出て行った。彼の瞳に映っていたのは、紛れもない対抗意識だった。


「中には、原因不明のショック死を起こした患者もいるでしょう。今までこんなことは無かったですよ。例のサルから見つかったウィルスとは、何も関係ないんですか?」


 そう言えば、尿路結石で入院していた患者がいきなりショック症状を起こし、そのまま死亡退院した例があった。その患者の主治医を勤めていたのは、確か堀内であったはずだ。


「残念ながら、保健所からのファックスは、消化管出血のことは何も触れていません。ただ、こちらから原因不明の消化管出血を起こしている症例が多いこと、ITP(突発性血小板減少性紫斑病)とよく似た所見を思わせる患者が多いことを、保健所の方に連絡しておきました。追加報告を待てば何か分かるはずです」


 堀内は何とも言えない顔をしながらも、それ以上は何も言わずに引き下がった。「他に質問は?」という声に、時任が挙手した。


「治療方針は、やはり脾臓を摘出するという以外にないんですか」


「はい。大学病院の症例に限りますが、今のところ回復した例は、みな脾臓を摘出しています。回復率は八十パーセントなので、脾摘(脾臓摘出)は適用すべきかと」


 時任が頷く。医局の中を見渡したが、他に質問の手は挙がらなかった。以上です、と言って席につく。


「ええ……では、定例の申し送りに移ります。夕べのERは……」


 部長は、メガネの奥からギョロっとした目を動かし、助けを求めるように医局の中を見渡した。誰も何も言わない。見かねて、井崎は夕べERの担当だったのは大野だと教えてやった。大野は、今現在、再びそのERに逆戻りしている。部長はしばし考えていた。


「では、後方病棟に異常は……」


 これみよがしな溜め息をつき、時任が立ち上がる。医局の雰囲気がギスギスしているのを肌で感じた。これだから会議は嫌いなのだ。しかし参加しないわけにはいかないので、耐えるしかない。


 大人の世界は厳しい。つくづく思った。

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