29
「それはきっとアレだわよ。実はその子、心の中では妹さんのことをムチャクチャ愛してるんだって。でもシャイだから、堂々とその気持ちを言葉や態度に出せないだけよ」
「そうかなあ。とてもそうは思えないような……」
いつもの居酒屋で、すっかり出来上がってしまっている高梨は自信満々の顔で断言してくれた。井崎としては、その説には全く納得できなかったが、とりあえず曖昧に頷きながら揚げだし豆腐を突っついた。絶妙に利いた生姜がいつもながら最高だ。
この店の店主は、客商売でありながらやって来た客に笑顔のひとつを見せることもなければ、お世辞のひとつを述べることも無い。唇はいつも堅く引き結ばれ、鋭い眼光は食材にのみ注がれている。だが、その職人気質が逆に受けた。実際、出される食事には細部に至るまで職人の仕事を感じさせる。
「例の王子さま、いよいよ謎めいてきてるようじゃねえの」
ウーロン茶のグラスを傾ける室井が意味深に笑う。
「謎めいてきてるって言うのかな。化けの皮が剥がれたって感じだって言った方が言いような気がするけど、どうだか」
「あるいは、妹のために井崎くんを恋人にしようって企んでるとかはどう? どう? いやあ、妬けるう!」
「ちょっと、意味が、よく……」
「だからあ、妹さんは確実に恋人がいないわけじゃん? そこで、兄である彼がひ
とはだ脱いでやろうとしたのよ、きっと! その計画、井崎くんに恋人がいたらまず無理でしょう? だからまずはそれとなく探りを入れたのよお!」
何をどう解釈したらそんな突拍子もない考えが浮かぶのか、井崎には高梨の思考回路の方が不思議だった。隣を見る。室井も似たような顔をしていた。そんな室井が、ふと思いついたように顔を上げ、高梨の方に僅かながら身を傾けた。
「なあ、お兄ちゃんの方はどうなんだろう。話を聞く限りじゃあ、恋人のひとりやふたり、いてもおかしくないらしいってことだ」
「まあ、そうでしょうねえ。そんな美少年なら女の方が放っておかないと思うわ」
「妹の恋人探しには熱心で、自分の方は無頓着だっていうのも変な話じゃねえか?」
「それはそうだよな。まあ、変わった子だから」
思わず本音を言った時、黙ってろとばかりに椅子の下で室井に蹴飛ばされた。
「なあ、刑事としてはどう思う?」
室井の一言に、高梨はプライドを擽られたらしい。ジョッキを七杯も空けてさすがに酔いが回ったのか、高梨は赤い顔をしていたが、表情が僅かに引き締まった。
「それは、調べてみるまでは何とも言えないわね。刑事である以上、証拠なしに憶測だけでいろいろ語るわけにはいかないわ」
高梨の言葉を聞き、室井は大袈裟に肩を落とした。
「そうだよなあ。調べてみないと、何とも言えないわなあ。何と言っても、プライベートな問題だからなあ。さすがの敏腕刑事でも、分からないよなあ。残念だなあ。なあ井崎」
いきなり話をふられて、井崎は戸惑った。だが、室井が表情だけで話をあわせろ、と言ってくる。視線を泳がせながら、曖昧に頷く。
「そ、そうだな、うん。そう思うよ」
実際、響也の恋人関係なんぞどうでもいい。だが、室井はどういうわけか興味津々のようだった。
「分かった。そこまで言うなら、ちょっと調べてあげようじゃない。待ってなさい!」
高梨は得意げに胸をたたき、意気揚々と居酒屋を飛び出して行ってしまった。唖然とした井崎の目の前には、福沢諭吉がひとりでは足らない勘定だけが残された。
「何がいったいどういうことなんだ?」
短時間で積み上げられた空っぽのビールジョッキを眺めつつ、綺麗に残されたつまみの野菜に呆れた視線を向けた。
「さあね。酔っ払いの考えることはよぉ分からんよ」
「嘘つくな。警察に聞かれて困る話でもあるんじゃないだろうな」
苦笑いしながら問い質す。室井は小さく声を上げて笑った。
「お前に報告しときたい検査報告があったんだ。悪い子じゃないんだが、高梨がいるとどうも話が前に進まん。まあ、うちの患者の病状やら検査結果を部外者に聞かれたら困るから、間違いではないが」
「それで付いてくるって言い出したのか」
「腹が減ってたのも本当さ」
言いながら、室井は焼き魚の身をほぐしていた。
「お前、一応それでも既婚者だろ? いいのか? そんなに毎晩毎晩、外食ばっかりで。たまには家族で飯食えよ。息子がグレるぞ」
ついそんなことを言うと、室井はあっけらかんと笑ってみせた。
「よく言われているように、子供は父親の背中を見て育つんだ。言い換えれば、父親は決して正面を見せてはならんってことさ」
井崎は思わず苦笑した。
「俺はATMなんだ。余計な口出しはせず、必要な時に必要なだけ金を出し、しかもほんのり温かい。休日はなく、時間も守れないが、まあ、最高だろ? できれば“マタの”ご利用もさせていただきたいんだが、なかなかねえ……」
「なさけないな、おい」
「俺の場合はこれくらいでちょうどいいんだよ。お前こそさっさと身を固めろ。そうでなきゃあホモだって言いふらすぞ」
くだらない、と呟いた時、室井は盛大な音を立てて味噌汁をすすってから表情を変えた。
「で、明日のカンファで報告しようと思ってたんだが、先に教えておいてやろうと思ってな。お前にとって、きっと興味深い話だ」
恩着せがましい室井の言葉に多少、苛立ちを感じないでもなかったが、ここは何も言わずにおいた。室井相手には、今更である。
「患者は二十五歳の女性で、七月十八日に全身がダルイ、微熱が続く、すぐアザができると言って近所の内科を受診したんだ。で、四日前、我が総合医療センターのERに緊急搬送された。担当は時任先生だったが、患者は一時間もしないうちに顕著な意識障害から呼吸器障害を起こして死亡。なんでも、意識が途切れる寸前までマンガのキャラクターと話してたってよ」
井崎は、無言で続きを待った。
「病理解剖の結果、頭ん中から出てきたのはトキソプラズマだった」
思わず口を開いた井崎を制し、室井は麦茶を飲み干してから先を続ける。
「トキソプラズマと言えば、まずエイズだ。だからHIVの検査をした。結果は陰性だった。つまり、エイズを発症したわけでもないのにトキソプラズマ脳炎を発症してたってわけだ」
井崎は無意識に眉根を寄せていた。
「……似たような患者がいなかったか? そんなに前じゃない。俺の患者でもなかった。申し送りの時に聞いたような覚えがある」
額に手を当てて記憶を呼び起こしていると、室井は腹立たしい笑顔で頷いて見せた。
「よく覚えてらっしゃることで。遠野久子さん、五十五歳。担当したのは大野先生だ。脾臓にフィラリア。ついでに脳挫傷なんじゃねえのって勢いの出血が頭ん中にあった。心肺停止から長時間が経過してたってことで、まあ、形ばかりの救命措置をやったわけだが、解剖したら頭の中からトキソプラズマが出てきた」
「それだ、それ! それで、関係性は?」
「分からん」
あっさり言われて、思い切り拍子抜けした。
「お前、ミステリーが好きで病理医になったんじゃないのかよ」
「現実の症例は皆が皆ミステリー小説のごとく、スッキリと原因と結果が繋がるわけじゃないんでね」
当然だろうな、と井崎は呟いた。
しばし沈黙が落ちる。それで、と促す。室井は小さく息をついて言葉を続けた。
「遠野久子さんだが、家族が随分と協力的でね、こちらの質問にもいろいろと答えてくれたよ。よほど大野先生の印象が悪かったんだろうなあ。それはともかく、傷跡が残っていたように、遠野さんには二ヶ月半前……さすがに正確な日時までは覚えていないってことだったが、犬に噛まれたっていう事実があった。ついでに、台所で倒れている遠野さんを発見する二日くらい前から、よく分からないことを言うようになっていたって話だ」
「よく分からないこと?」
「そうだ。ご主人の言葉を借りるなら、まるで遠野さんの死んだ母親がすぐ傍に立っていて、母娘で何でもない日常の会話をしているように見えた、ということだ。誰もいない場所で一人で会話している遠野さんを見て、本気でビビッたって話だ」
「まあ、普通はそうだろうな……」
「他にも、俺はこういう質問をしてみたんだ。奥さんは最近、やたら何かを怖がってなかったですか? 怖がって悲鳴を上げたりしていませんでしたか? 高い熱が出て、寝込んでいませんでしたか?」
「すべての質問にイエスという答えが返って来た?」
「その通りだ。その結果、ご主人は近所の八幡宮の宮司さんにお祓いを頼むことにしたらしい。ご主人の推理によると、犯人は山本だか山田だか、とにかく、偏屈で有名な近所のじいさんが持ってる山に住んでるキツネだとよ。タチの悪さじゃあ群を抜いてるそうだ」
考え込む井崎を他所に、室井は深々と溜め息を落とした。
「今の話の、どのあたりで悩んでる?」
「遠野さんの症状が、トキソプラズマ脳炎によるものか、それとも狂犬病の症状によるものか」
考えていることをそのまま言うと、室井は満足げに頷いた。
「それならいい。俺も同じことを思ったんで、中枢神経組織を使って狂犬病の検査をさせてもらったわけだ。結果は、陰性だった」
「だとしたら、遠野さんの場合、神経症状を引き起こしていたのはトキソプラズマでほぼ間違いないってことか」
自分で言った後、新たな疑問が浮かんできた。
「例年通りなら、トキソプラズマの患者なんざ年に一回あるかないかだよな」
そう言った後、井崎の脳裏にはなぜか真幸の顔が浮かんできた。
「なあ、真幸は本当に狂犬病に感染してると思うか?」
室井が片方の眉を軽く上げる。井崎は冷水の入ったグラスに手を伸ばし、ほんの少し弄んだ。
「なんだかんだ言って、保健所に狂犬病の疑いがある犬がいるっていう通報をあげてから、一ヶ月だ。本当に狂犬病が広がってるなら、そろそろ一匹くらいはウィルスを持ってる犬が出てもおかしくない。未だに何も見つからないってなると……」
「しかしだな、例のヤンキー兄ちゃんに限って言うなら、俺らの前で、はっきり水を嫌がるところを見せてるだろ」
井崎はしばし、その時の様子を克明に思い起こした。
「……水を嫌がったというより、むしろ薬が嫌だったという可能性はないか?」
室井が絶句した瞬間、井崎の携帯電話が着信を告げた。
「先生、大変なんです! すぐに来てください! 木村くんが!」
滅多なことでは動揺しないはずの看護師が、電話の向こうで冷静さを欠いた口調で喚いている。詳細を聞かないまま電話を切った。店のドアの前まで来て、大事なことを思い出した。
「室井、あとで払うから支払い頼む!」
「おうよ、行ってこい」




