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昼食を食べ終えて十分後、またしても事故で全身状態が非常に悪い患者が運び込まれてきた。血液製剤を文字通り搾り出すように患者の体内に流し込みながら臓器という臓器の損傷を縫合し、なんとか一命を取り留めたと思ったその三十分後、今度はバイク事故で脳挫傷を起こした患者の脳内血腫除去を行い、やっと一息つけたと思った時には、窓の外はすっかり暗くなってしまっていた。
「お疲れ様です、井崎先生。ちょっとお伺いしたいことがあるんですが、よろしいですか?」
書類仕事に意識を飛ばしそうになっていた井崎が、聞きなれた声に顔を上げれば、同じER勤務で、循環器内科が専門の時任が、缶コーヒーを手に立っていた。
「ええ、構いません。何ですか?」
「例の王子さまです。経過はどうですか?」
ちょうどそう呼ばれている人物のカルテを眺めながら頭を捻っていた真っ最中だった。ありがたく差し入れのコーヒーを受け取り、井崎は苦笑いを返す。
「何とも言えません。例のやつの、ごく初期症状だと言えますが、やはり既存の症例と合致するものが無くて、未だに手探りです」
時任は難しい表情をした。
「実は、今日、十八歳の女性がITP(突発性血小板減少性紫斑病)の所見を訴えて駆け込んでこられたんです。全身に、やたらアザができることを気にしているようで、このままアザが消えなくなったらどうしよう、と蒼白になってらっしゃいました。なにかの映画の影響でしょうかねえ」
「……他に所見はありましたか?」
苦笑いしながら聞くと、時任もまた困ったように笑った。そしてカルテを差し出してきたので、井崎は一言断りを言ってから目を通す。
「桜井優奈さん、十八歳……目立った既往歴はなしで、主訴は全身に原因不明のアザができること、だるい、熱っぽい、などの症状が一ヶ月近く続くこと……」
何ともいえない。井崎は難しい顔でカルテの文字を睨んだ。
「最近、妙な症例が多いでしょう。それで、レントゲン検査をしてみたんです。幸い、脾臓に異常は見当たりませんでした。消化管出血については、ご本人は特に何も」
井崎は無言で頷いた。例のフィラリアと平行するように、突発性血小板減少性紫斑病、そして消化管出血を訴える患者が増えている。時任の判断は妥当と言えた。
「血液検査の結果が出るまでは下手な投薬をしないほうがいいと判断しましてね。鉄剤を処方して、今日のところは帰っていただきました。三日後に必ず検査結果を聞きに来るように念押ししてね」
そこが問題なのだ。異常を感じ、勇気を出して病院に来たはいいが、検査をするだけで満足してしまう患者は実に多い。
「ところで、王子様に呼気検査はしましたか?」
「ええ、一応は。結果は陰性だったので、HP(ヘリコバクター・ピロリ菌)を除菌する予定はありません。まあ、HPが関係あるとも思えないですが」
「いやあ、分からないですよ。HPが胃がんだの胃潰瘍だのITPだのの発生に関係しているという事実も、つい最近まで分かっていなかったんですから。世の中にはびこる病原体に比べて、医師の数はあまりに少ないのが現状じゃありませんか」
「……だからって、誰彼構わず医者になってもらっても困りますけどね。ただでさえヤブだのサギだの謂れのない言いがかりを付けられることが多い職業なのに」
軽く笑いあった時、医局のドアが開いて看護師が顔を見せた。
「井崎先生、響也くんのお父様がお見えです」
時計の針は午後八時半を回っている。面会時間としては過ぎているが、仕事帰りに寄ったのだと思えば文句は言えない。
「また何か分かり次第、報告します」
時任に会釈して、井崎は響也のカルテを手に医局を後にした。
「応接室でお待ちです」
「分かった」
白衣の襟を正し、足早に応接室へと向かう。自然、肩に力が入る。深呼吸をひとつして、気持ちを引き締めた。
「お待たせしました」
ドアを開ければ、四十代の中盤かそこらに見える厳しい顔つきの男が目に映った。お世辞にも二枚目とは言えないその男を一目見て、響也は母親似だな、と不躾なことを思った。
「お世話になります、先生」
井崎を見止めてソファから立ち上がった彼は、深々と頭を下げると、流れるような仕草で名刺を差し出してきた。夏川浩一郎。その名の上には、日本で暮らしていれば、一度は必ず耳にしたことがあるメーカーの営業だと印字されていた。
看護師が冷茶を運んでくる。夏川は彼女の方を見ようともせずにグラスに手を伸ばした。
「先日は家内が随分とご迷惑をおかけいたしました。充分に言い聞かせておきましたが、どうも、学歴が違いすぎるとね、こちらが言ってることをまともに理解しないんですよ。それに、女という生き物は子供のこととなると感情に走ってしまうようでして……」
井崎は曖昧に返事をするに留めた。
「いえ、お気遣い無く。大事な息子さんが病気だと聞かされれば取り乱してしまうのも仕方ありませんから」
「それで……」
夏川の視線がちらり、と壁にかかった時計に向けられる。井崎は居住まいを正し、改めて夏川を真っ直ぐに見据えた。
「響也くんの症状は、今のところ貧血と、それから、軽くぶつけただけなのにやたら目立つアザができる、というその二点です」
いったん言葉を切って、夏川の表情に視線を向けた。この時点ですでに苛立たしげな表情を浮かべている患者の家族も決して少なくない。「すぐに治ります」という一言以外、どんな言葉も説明も聞く気はない、という態度を取られると、主治医としても身の置き所に困る。幸い、夏川は難しい顔をしているものの、説明を拒絶している様子は無かった。
「まず疑われるのが、突発性血小板減少性紫斑病という病気です」
言いながら、井崎はすぐ傍に置いてあるホワイトボードに手早くその病名を書いた。
「病気の原因は今現在、不明です。不明だから「突発性」と呼ばれます。ピロリ菌という名前を聞いたことはありませんか?」
「胃がんの原因になるとかいう、アレですか? 水質の悪い井戸水に多いとか何と
か。前にテレビで見たような記憶があります」
「そうです。正確にはヘリコバクター・ピロリ菌と言いますが、その細菌が胃にいる場合、この病気を発症する確立が高くなるというデータがあります」
「まさかとは思いますが、響也がそんな非衛生的な細菌を持ってるなんてことは……」
そう聞いてくる夏川の目に浮かんでいたのは怒りだった。誰に対する怒りか、井崎には理解できなかったが、表情には出さずに言葉を続ける。
「いえ、響也くんは検査の結果、感染していないことが分かっています。呼吸を調べるだけの検査なので、簡単にできますから」
「そうですか……」
ほっとしたような、怒りのぶつけどころを無くしたような、微妙な表情を浮かべる夏川を見やり、井崎は先を続けることにした。
「それで、突発性血小板減少性紫斑病は、名前にある通り、血液の成分のひとつである血小板が少なくなってしまうものです。血小板は、血を止める働きをする成分なので、これが少なくなると、怪我をした際に血が止まらなくなる、鼻血が出る、軽くぶつけただけでもアザができる、などの症状が出ます。その結果、貧血を訴える患者さんも少なくありません。響也くんもそのひとりですが、ITPと症状が似ているというだけで、ITPとは別物だと分かっています」
夏川は無言で説明を聞いていた。それを確認し、井崎は立ち上がってシャウカステンの電源を入れた。
「こちらが、響也くんの腹部を撮影したレントゲン写真です」
夏川の目が、写真に向かう。
「この部分に映っているのが、脾臓と呼ばれる臓器です。ちょうど、左腕を腋に押し当てた時、肘が当たる部分です。よく、いきなり動いた時に脇腹が痛くなったりしますよね。その痛くなっているのが脾臓です」
夏川が無意識にか、腕を脇腹に押し当てるような仕草をしていた。どうやら、彼は身内の病気を理解しようと真剣に耳を傾けてくるタイプのようだ。
「脾臓の役割は、大きく分けて四つあります。まず、免疫。次に血液の貯蔵。先ほど、急に動いた際などに脾臓が痛くなる、と言ったのは、急激な運動によって体内の酸素が足りなくなっていると判断した際、体は脾臓に溜めている血液を送り出して酸素不足を補うからです。脾臓が絞られるようにして血液を送り出すので、それで痛いと認識するんです」
「確かに、経験はありますね。そんな感じだ。そう、絞られるような感じはする」
井崎は頷き、説明を続けた。
「そして造血。名前の通り、血を作る役割です。母親のおなかの中にいる時、人間は脾臓で血液を作っていたのですが、生まれてからは骨髄がその役割を引き継ぎます。白血病なんかで、骨髄が正常に血液を作れなくなった際には、再び脾臓がこの仕事を始めることが分かっています。そして最後に、血液の濾過です」
夏川はメモを取り始めそうな雰囲気だったが、どうやら適当なものを持っていないらしく、特に行動には出さなかった。
「脾臓は、血液の墓場と呼ばれています。血液中の異物や老化した赤血球だとか、それから……」
一瞬、教科書の内容が思い出せなくて言葉に詰まる。幸い、二秒後に思い出せた。空白の二秒は、クシャミで誤魔化した。
「それから、何らかの原因で病的な変化をした赤血球などをキャッチして、処理します。しかし、脾臓が大きくなっていたりすると、その働きが過剰になってしまうんです。要は、破壊しなくていい赤血球まで破壊してしまうから、貧血症状が出るということです」
そう言って、井崎はシャウカステンに向き直り、胸ポケットからボールペンを取り出した。
「画像だとちょっと分かりにくいですが、響也くんの脾臓は腫れている、と言いますか、通常よりも大きくなっているんです」
正常の脾臓の大きさと、患者の脾臓の大きさをボールペンの反対側で示してみせる。
「その……脾臓が腫れる原因は、何なんですか」
難しい顔で聞き入っていた夏川が、ふいにそう聞いて来た。
「響也くんの場合は違いますが、多くは肝硬変です。大動脈から脾動脈、脾臓、脾静脈、胃や腸の血管と流れていった血液が、最後の肝臓を通れなくて、それで血の流れが滞るんです。結果、脾臓が大きくなるという例が一般的です」
「肝硬変、ですか。実は、私の父は肝硬変から肝ガンを患いましてね。三年前に亡くなりました」
夏川の顔に自嘲的な笑みが刻まれた。
「アルコールは控えようと思っているんです。しかし、どうしても付き合いでね……」
「ああ、分かります」
軽く笑った後、井崎はカルテの中から一枚の写真を取り出した。その写真を見せた途端、夏川の表情が消えた。
「これは……」
「フィラリアです。主に犬が罹る寄生虫症として有名ですが、ご存知ですか?」
「ええ、聞いたことはありますが……」
彼の顔には「まさか」という問いが刻まれている。井崎はソファに座り、深く頷
いた。
「それは、つい最近フィラリアに罹った患者さんから摘出した写真です。全部で五匹いました。響也くんの場合、そこまで大きく育ってはいないようですが、息子さんの脾臓も、同じようにフィラリアに寄生されています」
夏川は顔色を無くして写真を凝視していた。
「二ヶ月ほど前、響也くんはフィラリアに罹っていると思われる犬に噛まれています。そこから感染した可能性が高いのではないかと僕は考えていますが、今のところ確かなことは不明です。大学病院でも保健所でも原因特定に躍起になっています。ですが、結果が出るまではまだ時間が必要でしょう」
夏川は写真を凝視したまま微動だにしなかった。
「フィラリアに感染した犬に噛まれることによって、血液の中にフィラリアの幼虫が侵入したと過程して、そのフィラリア幼虫が脾臓に捕まり、そこで成長したというルートが最も現実的です。脾臓には異物をキャッチする役割がありますから。おそらく、脾臓を免れたら肝臓に異変が起きているはずです」
今のところ、肝臓にフィラリアを飼っている症例はないが、有り得ない話ではない、と井崎は考えていた。
「響也くんの脾臓を腫らして、突発性血小板減少性紫斑病によく似た症状を引き起こしているのは、まず間違いなくこの虫でしょう」
「ち、ちょっと待ってください、先生。フィラリアが人間に感染するんですか? そんな話、聞いたことありませんよ! あれは犬の病気じゃないんですかっ?」
夏川がそう言いたくなる気持ちはよく分かる。井崎は僅かに視線を落としていた。
「現代日本で頻繁に見かけるのは犬フィラリアというだけで、人間に特有のフィラリアも存在しますし、症状は違いますが、犬のフィラリアが人間に感染した例もあります」
沈黙が落ちる。冷房が効いているにも関わらず、夏川の額には大粒の汗が光っていた。
「それで……その、回復の見込み……は?」
それこそ最も聞きたいことだろう。井崎は改めて夏川を見据えた。
「幸い、響也くんはまだ、感染してから時間が経っていません。治療方針としては、まず突発性血小板減少性紫斑病と同じ治療を行っていきます。とりあえずは、貧血症状の改善のために輸血と、それから鉄剤を飲んでもらっています」
夏川は頷いた。当然だ。点滴と、薬を飲むだけで治るなら、誰だってそうしたいと思う。思わない方がおかしい。
「ただし、症状そのものは治まっても、フィラリアが寄生している限り、いつまた同じ症状が出るか分かりません。響也くんの脾臓にいるフィラリアは、今の段階でおそらく一センチ程度の長さだと推定されます。細さで言えば、糸くらいでしょうか。小さすぎて、虫だけを取り出すことは不可能です」
「虫が大きくなるのを待つ、ということですか?」
その顔には明らかに「気味が悪い。勘弁してくれ」と書かれている。井崎は頷いた。
「今現在、総合病院ではフィラリアが寄生している脾臓ごと虫を摘出するという方法を考えています。実際、大学病院では、それで回復したという人がいらっしゃいます」
脾臓の摘出、と聞いて、夏川の表情がすっと消えた。その顔色は心持ち青くなっているように見える。
「フィラリアが食い込んでいるのは脾臓です。そして、貧血や倦怠感などの症状を引き起こしているのも肥大した脾臓です。これを摘出してやれば、症状は回復に向かうと考えられるんです」
井崎の説明に対し、夏川は初めて拒絶姿勢を見せた。
「しかし……摘出とは……。こんなことを言うのも、自分の息子が可愛いからですが、できれば、その……息子にリスクを背負わせるようなことは……その、いろいろな意味で、ですね……」
言わんとしていることを理解した井崎は、敢えて軽く笑って見せる。夏川の雰囲気が僅かに変わった。
「脾臓を取り出しても、日常生活にはほとんど影響は出ません。今まで通りスポーツもできます。無論、回復すればという前提ですが」
狐につままれたような表情をしている夏川を見やり、井崎は再びホワイトボードに向かった。簡単に人間の腹腔部の図を書き込む。
「今現在、主流となっている脾臓摘出手術は内視鏡手術です。大きく腹部を切り開いて行う昔ながらの手術に比べて、患者さんの体にかかる負担はとても少ないです」
「しかし、傷跡が残るんでしょう?」
夏川は堪らないとばかりに顔を歪めた。
井崎は複雑な気持ちを抱いた。自分が子供時代には、常に動き回っていたおかげで、生傷が絶えることがなかった。年頃の少女の顔に傷が残るというのならばまだしも、男の腹に多少の傷が残ることのどこがそんなに重要な問題なのか、さっぱり分からなかった。
だが、目の前にいるのはあくまで患者の家族だ。考え方の違いを突きつけることに意味はない。
「傷跡は、ほとんど目立ちません。そうですね、十代であれば、完全に消えて見えなくなる可能性もあります」
夏川の顔を見て、内視鏡手術に反対する意思が薄らいでいる様子が確認できた。説明の順番を間違えたかもしれない、と少しばかり後悔した。井崎は、改めて図の三箇所に印を入れる。
「この穴は、直径一センチ程度です」
「一センチ、ですか」
狐につままれたような顔をした夏川が聞き返してきて、井崎は自分の説明ミスを認めざるを得なかった。
「そうです。一センチ程度なので、傷跡はすぐに見えなくなります。そこから内視鏡を入れます。僕らは、内視鏡の映像を見ながら手術をすることになります。難しい手術ではありません。問題が無ければ、二百分……三時間もかからずに病室に戻れます」
「そう、ですか。何と言いますか……息子の体の中にこんなに気持ちの悪い虫がいると思うと……一分でも一秒でも早く取ってやってくださいと言いたい気持ちはやまやまなんですが、しかし……」
夏川は苦渋に満ちた表情で呟く。井崎は控えめに笑顔を作った。
「幸い、響也くんにはまだ時間があります。今すぐにご決断される必要はありません。いったん家に帰られて、ゆっくり考えてみてください」
井崎の言葉を聞いて、夏川は唇を引き結んだまま幾度か頷いた。そしてはっとしたように時計を見上げ、ソファから立ち上がった。
「こんな時間に失礼いたしました。いろいろとご迷惑をおかけいたしますが、今後ともどうぞよろしくお願いします」
深々と頭を下げられて、井崎も釣られたように腰を九十度に折り曲げた。踵を返した夏川を見て、井崎は大事な確認を怠っていたことを思い出し、慌てて夏川を引きとめる。
「今回の病気のこと、息子さんに告知……話はされますか?」
引き止められた夏川は、一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、その質問を受けてすぐに真顔になった。
「とんでもない。ようやくK高校に入学させたんです。今は勉強以外のことに気をやるようなことは、できる限り避けなければ。あの子には、適当に言っておいてください。くれぐれも、自分が重病だとは教えないでいただきたい」
「……分かりました」
夏川は軽く一礼し、応接室を出て行った。その背を、井崎は何ともいえない複雑な気分で見送っていた。




