12. 同じ二行
六月二十五日。ネーヴェさまは、自分の足で薬院まで来た。
門から玄関までの敷石を、一枚ずつ踏んで歩いてくる。日傘の影が首から肩へ落ちて、そのふちが揺れていない。
照会の部屋へ入る前に、廊下で息を整えている。付き添いはシビラで、日傘を畳むのにひどく手間取っていた。夏の日は、この人にはまだ強い。
「一千歩、休まずに来ました」
わたしが訊く前に、あの方はそう言う。
「……前は、二度休まれました」
「今日は、休まなくてよかったのです」
わたしが見たのは歩数ではない。息の上がっていない顔のほうである。頬に血の色があって、唇が乾いていない。爪の根元には、白い半月が三日月ぶんだけ戻ってきている。
「石が、あたたかいです」
ネーヴェさまが、廊下の壁ぎわの敷石に掌を当てている。
「十年、わたしが触った石は、みんな冷たいものでした。病室の床とか、冷めた湯たんぽとか」
「夏ですので」
「はい。夏です。夏の石は、あたたかいのですね」
「先輩。それ、当たり前だと思うんですけど」
シビラが日傘を畳みそこねて、二度やり直している。
「シビラ。当たり前を十年ぶりに言う方がいます」
「……あ。すみません」
「謝らなくてよろしいのです。わたし、いま自慢しております」
◇
椅子が四脚。声がよく響く。
ネーヴェさまの陳述は短かった。長く話せないのではなく、話すことが少ないからである。
「わたしが書きました。誰にも言われておりません」
「字が」
ラーゲ先生が、机の上の紙を指で押さえる。五月五日の〈求め〉である。
「震えております。これは、書かされた者の字だ。お嬢さん、あなたがそう書かせた」
お嬢さん、とこの方はわたしを呼ぶ。五年前からずっと変わらない。
薬師として数えていない、ということである。そう分かっていても、この呼ばれ方をされると、いつも耳の裏が熱くなる。
わたしはそこで初めて口を開く。
「手の震えは、この薬の害の三つ目です」
「……なんですと」
「銀月草の連用で出るものを、わたしは六つ数えております。食が細る。立ちくらみ。手が震える。日中に眠い。筋が落ちる。切れ際に動悸が戻る。三つ目です」
「では、あの字は」
「薬が書かせた字です。あの方の意思が書かせた字ではありません」
声が、思ったより真っ直ぐ出た。薬の話だけは断定すると決めている。決めているというより、そこだけは足の裏が床に着く。
レーン先生の指が、紙の縁から離れる。
「ハース薬師。いまのを、ハース薬師の答弁として書き取ります。答弁は一度きりです。よろしいか?」
「……はい」
レーン先生は書いた。書き終えるまで、誰も何も言わない。
筆が紙を擦る音だけが、絨毯のない部屋で妙に大きい。
そのときのわたしは、この一枚が何を閉じたのかを知らない。
「クーレ嬢。では、いまここで、同じ二行を書いていただけますか?」
ネーヴェさまが筆を取る。
二枚が並んだ。
五月五日と、六月二十五日。同じ二行が、五十一日ぶん離れて置いてある。
五月五日の字は、線の終わりが細かく上下している。今日の字は、払いが最後まで一本で通っている。
わたしは二枚に指を近づけて、紙の裏を返した。五月のほうは、筆圧で紙が波打っている。今日のは、平らである。
この方が震えていたのは、こわかったからだけではない。手が震えていたのだ。そして震えを作っていたのは、この方に十年飲ませてきたものである。
告発の武器が、そのまま裏返って机の上に載っている。
わたしは一度も「やめなさい」と言っていない、「数えなさい」と言っただけだ、とネーヴェさまが答えた。
ラーゲ先生は、二枚を長く見ている。眼鏡を外しも、かけもしない。
「……字は、変わりますな」
そう言って、この方は帰った。
◇
廊下で、ネーヴェさまがレーン先生に訊く。
「わたしからも、申し立てられますか?」
「できます。あなたにしかできません」
「では」
レーン先生は時計のほうを一度見てから、指を二本立てた。
「ただし、先の件が満了するまでは受理できません、と規則にはあります。七月二十一日から、二十三日の裁定の前日まで。二日です」
「二日ですか?」
「答弁の期間が走っているあいだは、先の件の形が定まりませんので」
ネーヴェさまが、指を二本立てて数えている。この方は何でも数える。
レーン先生は、そこで一度、言葉を切った。言いにくいことをあとに回さない人である。
「もう一つ申し上げます。併合すれば、ハース薬師の停職は一か月延びます」
石の床が、急に硬くなった気がする。
一か月。給金が半分の一か月が、いま、わたしの側に積まれた。
下宿代と、食べる分と、それだけでも足りるかどうか。頭の中で数が動いて、動いたぶんだけ、指の先から温度が引いていく。
「……では、二十一日にまいります」
決めたのは、あの方である。
わたしは止められる場所に立っていた。ひとことでいい。日を遅らせなさい、と申し上げればよかったのだ。二十四日まで待たせれば、裁定はもう出ている。わたしは七月二十三日に戻れる。
そのかわり、この方は二度と申し立てられない。
言わなかった。
「レーン先生」
「はい」
「わたしは、この方に何も申しません。そのように、残してください」
「答弁ではありませんね」
「違います」
レーン先生が、紙の縁から指を離す。
「……〈陳述〉として記録します。陳述は、答弁を書き足すものではありません」
指が冷たくなっている。困ったときにいつもそうなる。この癖だけは、十年前から一つも変わらない。
それでも、わたしは口を出さない。役に立たないほうを、自分で選んだのである。
五月から今日まで、わたしは自分の手で何かを動かしてきた。動かせるものを見つけては、その手で動かしている。
今日、初めて、動かさないことを選んだ。それが同じくらい力の要ることだとは、腰を下ろすまで知らずにいる。
◇
門を出ると、ヴィンセントさまが立っていた。
中の話は、何も聞こえていない。この人は建物の内に入らない。
わたしは今日あったことを、順に話す。震えた字のこと。二枚のこと。ネーヴェさまがご自分で日を決めたこと。それから、わたしが何も申しませんと言ったこと。
話しているあいだ、彼は一度も口を挟まなかった。組んだ指も、ほどけない。
彼は理由を訊かない。
「わたしは、その場にいませんでした。……いま、あなたの言葉で聞きました」




