11. 量る者が止まる
朝いちばんの調剤棟は白い。
北の窓から入る光には熱がなくて、乾いた薬草の棚を上から順に照らしていく。天秤の皿の縁だけが細く光って、酢の匂いが夜のあいだに薄まっている。十年、わたしはこの匂いの中へ、朝いちばんに入ってきた。通りを一本越えれば届かない匂いで、だからここへ来ないと嗅げない。
わたしは分銅を右から順に並べ直し、乳鉢の底を指の腹で確かめる。昨日の粉は残っていない。
「先輩、あの貼り紙、まだ剥がしてもらえないんですか?」
シビラが乳棒を抱えたまま、前掛けの紐を片方ほどけさせて立っている。
「ええ」
「うわ。声、平気そうですね」
「平気です。薬師ですので」
「それ、平気じゃない人の言い方ですよ」
言い返せなかった。三日前の夜、扉の糊がまだ乾いていなかったあの紙を、わたしは三度読んでいる。三度読んで、三度とも同じことが書いてあった。
マティルダさまが眼鏡を額に上げたまま入ってきて、紙を一枚、天秤の横に置く。
「ハース薬師。監察室の隣へ。呼ばれています」
◇
照会の部屋は、監察室の隣にある。
絨毯がないので、椅子を引く音がそのまま天井まで行って返ってくる。声も同じで、自分の返事が一拍遅れて耳に戻ってくるのが落ち着かない。使われていない暖炉には、去年の灰がそのまま残っていた。夏に炭を入れる部屋ではないのに、灰だけが冬のまま置き去りにされている。
椅子は四脚。背もたれが硬い。
オズヴァルト・レーンという名の監察医は、白髪混じりを短く刈っている。左手の指を二本、紙の縁に添えたまま動かさない。読む位置を見失わないためだろう、と思った。ラーゲ先生は、わたしから一つ離れた椅子に、眼鏡をかけたまま座っている。
「〈越権〉の申し立てを、〈受理〉しました」
レーン先生は、規則の条を読むように言う。
「申し立て人はラーゲ医師。相手方はハース薬師。関係者はクーレ嬢と、クーレ医師です」
「通知の半券は」
「三十四の七。薬院にあります。ラーゲ医師の署名も」
ラーゲ先生が、そこで初めて眼鏡を外す。
「届きました。わたしが署名しております。争いません」
争う気がないのだ。この方は嘘をつかない。だから争点は一つしか残らない。
――本人の求めは、本人の自由意思によるものにあらず。
あの紙にはそう書いてあった。ネーヴェさまが震える字で二行書いた、あの夜の紙のことである。
「先に、一般の則を申し上げます」
レーン先生は膝の上で紙を揃える。
「〈薬害〉は、患者ご本人でなければ申し立てられません、と規則にはあります。害を受けたと言えるのは、薬を飲んだ体の持ち主だけですので」
「……はい」
「答弁になるのは、わたしが答弁とする旨を告げて、その場で書き取ったもの。あるいは、相手方が書面で出したもの。そのいずれか一度だけです」
「それ以外に、この席で申し上げたことは」
「答弁になりません」
わたしは口を開きかけて、やめる。
喉のところまで、言葉が来ている。あの方は自分で書いたのだと、その字を見たのはわたしだけではないのだと、いくらでも言えた。
けれど今日はまだ、何も言わなくていい。言えば、それが一度きりの一発になる。
「ハース薬師。照会のあいだ、停職となります」
差し出された紙には、こう書いてある。
――照会の受理の日より、裁定の出る日の前日まで、職を離れること。
「給金は半分になります。調剤棟へは入れません。処方も、量りもできません、と規則にはあります」
「裁定は、いつ出ますか?」
レーン先生は時計のほうを一度見る。
「答弁の期間が三十日です。受理の翌日から数えて、七月二十日まで。その満了の翌日を一日目として、三日目に出す、と規則にはあります」
七月二十三日。
わたしは指を折らずに数えた。数えても、動かない。
今日ここで何を申し上げても、明日きれいに片がついても、七月二十三日より前には戻れない。三十日は、三十日として過ぎるだけである。
この部屋の光が、机の端まで来ていた。西向きの窓が一つあって、午後になるとそこだけが明るくなる。話しているあいだに縁がずれていくのを、わたしはぼんやり見ている。
規則は、正しい側を早く助けはしない。それだけのことが、印刷された紙に書いてある。
「クーレ医師も照会を受けます。ですがこちらは処方者としてですので、停職は付きません」
「……なぜでしょうか?」
「わたしの見立てでは、患者から医師を取り上げることになるからです」
診る者は止まらない。量る者が止まる。
五月に、わたしは自分に診立ての権限がないことを何度も確かめている。薬師にできるのは量ることだけで、それが不足だと思っていた。
その量ることが、いま、取り上げられる。
◇
「受理の日に限り、立会いのもとで、引き継ぎのために入れます」
マティルダさまはそう言って、調剤棟の戸をご自分で開けた。中へ入るのは、これで最後になる。
わたしは天秤の分銅を右から数える。十二個。欠けはない。
いちばん小さい分銅は米粒ほどで、指で摘まむと体温ですぐ温くなる。十年、毎朝これを数えてきた。数えるのは規則だからで、規則だからと思っていたのに、いま数え終えると胸のあたりが薄く冷える。
乳鉢を洗い、水気を拭き、伏せて置いた。伏せた鉢が、いちど、こつりと鳴って座り直す。
「主任」
「はい」
「銀月草の詰替は、半月に一度です」
「規則です。存じています」
それだけだった。規則の人は、規則の外で慰めを言わない。
言わないかわりに、この方はご自分で調剤台に立つのだろう。十年ぶりに。
「先輩」
シビラが戸口から半分だけ顔を出す。
「クーレさまのお屋敷の女中さんが、さっき薬を取りにいらして。伝言、預かってます」
「どうぞ」
「『三百歩、歩きました。階段は八段、誰の腕も借りずに降りております。数えました』――だそうです」
数えました、というのが、あの方の言い方である。
五月に、わたしは数えなさいと申し上げた。以来あの方は、ご自分の脈も、歩数も、段の数も、ぜんぶ数えている。
わたしが渡したのは、たったそれだけのことだった。それが、いまはあの方の持ち物になっている。
◇
表へ出ると、門の外にヴィンセントさまが立っていた。
中へは入ってこない。回避の者は、その件の話される場所に立たないのだと、この人は決めている。夏の日が高い。門柱の鉄が、触れないほど熱くなっている。
「七月から、薬代はわたしが出します」
歩調を合わせながら、彼はそれを先に言う。
「俸給は、看護と寝具と炭で埋まっています」
「埋まっています。……ですが、薬は減っていきます。いまは一日に十二滴です。七月八日から八滴、九月二日からは一滴。九月には、いまの十二分の一です。……計算しました」
計算しました、と彼は言う。感情を言わない人が、感情の代わりに置いていく数である。
わたしは門の石に腰を下ろして、鞄から当年分の薬帖を出した。
十一冊ある冊子のうち、患者の欄は十年ぶん埋まっている。わたしの欄だけが、白い。
五月の終わりの夜、この人に突かれたところである。あなたは自分の薬帖に自分の欄を書いていませんね、と言われて、返す言葉がなかった。
その白いところへ、初めて一行だけ書く。
五〇二年六月二十日 ノエラ・ハース 二十四歳 停職
書いてしまえば、二十二字である。手が震えて字が崩れるかと思ったのに、指はふつうに動いた。
白い欄に一行が入ると、そこが急に、他の頁と同じ顔になる。
薬院の戸が開いて、ラーゲ先生が出てくる。わたしを見て、外していた眼鏡をかけ直した。
「三十日は、待たねばなりませんな」




