13. 数えるだけの三日
七月八日から、一回に四滴になる。
六滴から四滴。落差は三割三分で、これまでのどれよりも大きい。〈戻り〉は三日、来る。
わたしは行かない。
行けば、薬師が病者を誘導したという争点を、自分の手で強くする。届け出れば会えると規則にはあるけれど、会いに行った薬師の顔を、あの部屋の誰かが覚えてしまう。
下宿の二階は三畳ほどで、北窓が一つしかない。朝のうちだけ日が入って、昼を過ぎると板の色が沈む。階下は靴屋で、膠と革の匂いが階段を上がってくる。
金槌が鳴りはじめると、朝である。三日のあいだ、わたしはその音で目を覚まし、その音が止まるまで待った。
◇
一日目。
日が落ちてから、通りの下でシビラの声がした。
「先輩、届きました」
降りていくと、二つ折りの紙を差し出される。封もしていない。夜の数まで入っている。
朝の脈、九十二。夕、百六。夜、百十四。歩数、〇。
字が短い。主語を省かない人の字である。
「主任さん、ご自分で調剤台に立ってます」
「マティルダさまが?」
「十年ぶりだって、みんな言ってますよ。あと、そればっかり言うんです。『規則で決まった量を、規則どおりに量っています。それ以上のことはしません』って」
それ以上のことはしない。それがあの方の、できるかぎりなのだ。
規則の人が規則の内側でできることを全部やると、こういう形になる。誰にも見えないし、誰も礼を言わない。
「先輩、痩せました?」
「量っていないだけです」
「それ、答えになってませんけど」
「……そうですね」
シビラは紙を渡してからも、すぐには帰らない。
「あの、先輩」
「はい」
「クーレさま、大丈夫でしょうか?」
「三日です。三日目の夜がいちばん重くて、四日目の朝に引きます」
言ってから、自分の声が思ったより低いことに気づく。
「言い切りますね」
「薬の話ですので」
シビラは前掛けの紐を結び直して、走って帰っていった。結び目は、明日にはまたほどけている。
◇
二日目。
紙が来るのは、日が落ちてからと決まったらしい。届いた刻限までの数しか、紙には載らない。
朝、九十八。夕、百十四。夜、百二十二。
歩数の欄は、また〇である。
わたしは紙を膝に置いて、三つの数を並べる。
第一段のとき、わたしは同じ部屋にいる。同じ手首を指で押さえて、それでも〈戻り〉と本物の発作の区別がつかなくなった。あの夜、栓に指をかけている。
いまは、体が目の前にない。数しかない。
脈を指で押さえれば、速さのほかに深さが分かる。〈戻り〉の脈は速いが深く、本物の発作は速くて浅い。紙にはその区別が書けない。
数しかないのに、分かる。
夜の脈が、上がりかたを落としている。一日目は夕から夜へ八。二日目も八。上がりはするが、加速していない。
三日目の夜に頂上が来て、四日目の朝に引く。第一段のときと同じ形をしている。落差は大きくなっているのに、上がりかたの形だけは変わらない。
わたしは返事に一行だけ書いた。
――三日目の夜が頂上です。四日目の朝、下がります。
書いてから、この一行は薬師の仕事なのか、それともただ言いたいだけなのかを、しばらく考えている。
「先輩、返事、預かりますよ」
「お願いします」
「……先輩、これ、当たりますか?」
「はい」
シビラが紙を両手で持ち直した。
「そういうの、外れたらどうするんですか?」
「外れたら、わたしの目が十年ぶん間違っていたということです」
「うわ。重い」
重くはない。数えれば分かることである。
断定してから、口の中が乾いた。薬の話だけは断定すると決めている。それが五月からいまも変わらない、わたしの一つきりの持ち物である。
量ることは取り上げられた。処方も書けない。診立ては、もともとわたしの権限ではない。
それでも、数を読むことだけは、誰にも止められていない。
◇
三日目。
その日は、日が落ちるのを待たずに来た。昼に届いた紙には、朝、百四。夕はまだ空欄で、歩数の欄に〇とだけ入っている。
届いたきり、夜まで何も来ない。
わたしは北窓の下に座って、日が板の上を移っていくのを見ている。三畳の部屋は、日が動くのがよく分かる。板の節を一つ越えるのに、たぶん四半刻かかる。
夜、階下の金槌が止まっても、まだ何も来ない。
窓を開けると、通りの向こうに薬院の門が見える。中の天秤の音は、この時刻には聞こえない。
わたしは膝の上で、三日ぶんの数をもう一度並べた。並べても、増えも減りもしない。
五月の第一段のとき、わたしはあの部屋にいて、栓に指をかけて、それでも戻さなかった。あのときは、手の届くところに瓶がある。
いまは、手を伸ばす先に何もない。
「先輩」
シビラの声が、通りから聞こえた。走ってきたらしく、息が続いていない。
「これ、いま」
紙を開く。
「これ、いま届いたんです。走れって言われました」
「ありがとうございます」
「先輩、手」
「はい?」
「震えてますよ」
夕、百二十。夜、百二十六。それから下がりはじめた時刻が、四半刻ごとに三つ。
当たっている。
嬉しくはない。当たったということは、あの方が三日、そのとおりに苦しんだということである。
紙の隅に、数ではない一行があった。
「今夜は、わたしが起きています」
◇
四日目。七月十一日。
紙は、朝のうちに来た。シビラが、息を切らさずに持ってくる。
朝、九十六。歩数、七。
七歩。寝台から窓まで、七歩である。
五月十六日に、あの方が誰の腕も借りずに歩いた数と、同じ数がそこに書いてある。
「先輩、これ、少なくないですか?」
「いいえ」
「でも、こないだ一千歩って」
「一千歩の人が七歩に戻って、また歩きはじめます。段を一つ下りるたびに、そうなります」
同じ七歩でも、五月とは違う。あのときは、十年ぶりに立った七歩だった。今度のは、落ちたところから戻ってくる七歩である。
わたしはその数の横に、指を置いた。
それから、三日目の紙をもう一度、膝の上に広げる。隅の一行は、まだそこにある。
「今夜は、わたしが起きています」




