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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第32話 名前を失ったもの

〔編集者注:以降の数頁は、本文とは異なる筆跡で記されている。筆圧は極めて弱く、使用された顔料の成分は特定されていない〕


広間の冷えが、その日、いつもより低い場所から立ち上がっていた。


ここから先の頁を、彼の手はもう書けなかった。


彼が持ち込んだ帳面の、最後の頁の縁に、彼の指先の影だけが薄く残っていた。


残された影の上に私は指先をしばらく重ねなかった。


重ねれば、また、彼の手の置き場の上に、私の手が被さる。


被さらない位置から私は彼の最後の頁を、最後まで、読んだ。


読み終えた頁の上に、私の指先の影は、最後まで、降りなかった。


降りない代わりに私は筆をここから先の頁に静かに置いた。


---


私は彼が、最後の息を、置く時を、見届けた。


私は止めなかった。


止めれば、彼が最後に選んだ場所の上に、私の手がもう一度被さる。


だから私は被さらない側に立った。


立ったまま私は彼の身体が、初代王の封印の図の中央の縁の上でゆっくりと止まるのを、見ていた。


止まった彼の身体の上に私は短く手を伸ばしかけた。


伸ばしかけた手は、触れる手前で、止まった。


止めたのは、私の罪の重さではない。


彼が、その日選んだ、最後の場所の形を守るためだった。


私はその夜、泣かなかった。


泣かなかったことを私は自分の冷たさの方には置かない。


長く私の中で止まっていた、ある水音の方が、その夜から他の音に変わった。


変わったのは、地下の広間の、一番古い氷の層の、内側の音だった。


内側の音はもう凍り続ける側の音ではなかった。


ほどける側の音でも、なかった。


止まる、をもう選ばない場所から鳴る、低い音だった。


---


彼が最後に世界へ預けた重さは、その日から、いくつかの場所で、別の形に変わり始めた。


戦場の縁の、ある日の朝、命令の声の途中で、命じる者の口の動きが、短く止まった。


止まった口の動きの中で、命じる者は、自分の口の中の言葉に、別の誰かの喉の渇きを見た。


見た先で、命じる者は、その日の命令の方を、最後まで、置かなかった。


置かなかった。


それが、その日の、その者の、ひとつの選択だった。


すべての場所で、命令が止まったわけではない。


止まらなかった命令の方も、ずっと多かった。


止まった命令の数の方が、その日の前の数より少しだけ増えた。


それだけだ。


乾いた地域の、ある町の井戸端で、水の配分の表の前に、立っていた者たちの一人が、自分の手の中の表の縁をしばらく見ていた。


見ていた縁の上にその者は別の一行を、書き加えた。


書き加えた一行は、ここでは引かない。


書かないまま、その一行の中に、配分される側の手の位置が、その日から、表の上に、立った。


立った位置の上で、ある町の井戸端の水音は、その日から、他の音に、変わった。


ある病室では、毛布の中に入っていた手が、その日、ほんの少しだけ外へ出された。


誰かが、それを開かせようとはしなかった。


開いたとも、記録しなかった。


外へ出た、とだけ書いた。


保護施設のある一人用の室の中で、ある日、本人の発話の欄に、ある問いが、塗られない側で書き留められた。


「私の手は、私のものです」


その問いの方を、施設の側の所見の枠は、まだはっきりとは、扱えなかった。


扱えないまま、その問いは書き留められた。


書き留められた。


それが、一番大きな変化だった。


世界の、すべての机の上で、その問いが書き留められたわけではない。


書き留められなかった場所の方が、ずっと多かった。


書き留められた数が、その日の前より少しだけ増えた。


大きな変化では、なかった。


しかし、その少しだけは、次の朝にも、また少しだけになった。


次の朝の少しだけは、その次の朝の少しだけへ薄くつながっていった。


つながりは、誰の手の中でも、握り直されなかった。


握り直されないまま、つながりだけがゆっくりと自分の重さで、それぞれの場所に、残っていった。


---


私の机では、その夜、ふたつの古い手を、見直していた。


長兄の手は、守るために外を選ばなかった。


次兄の手は、届かせるために外へ伸び続けた。


私はその二つの間に立てなかった。


立てない代わりに、止めるという形の中へ二人を収めた。


彼は違った。


守る角度と、届かせる角度を、ひとつの手の中に立てた。


そこにあったのは、止めるではない。


止められる、だった。


---


私はそれでも、自分の罪を、彼の選択の上で軽くする場所には立たない。


軽くすれば、彼の選択の意味が再び私の手の中で握り直される。


握り直す前に私は自分の罪を、罪のまま目の前に置いておく。


置いたままで私は彼の選択の場所を見届けた。


見届けることが、私の最後の役割だった。


許されたとは、書かない。


救われたとも、書かない。


見届けた、とだけ、書く。


それ以上の角度を、私の側にはもう置かない。


---


地下の広間の、一番古い氷の層の、内側の音は、その夜以後ゆっくりと他の音に、変わり続けていた。


その音を私は長く、止める、ための音として聞いてきた。


止める、ための音は、その日からもう止める、の側には、立たなかった。


立たない代わりに、その音は自分の名を少しずつ失っていった。


封印という名でも、なかった。


魔法という名でも、なかった。


ある場所の、ある時代の、ある人々の選択の、短い形の跡だった。


跡。


その言葉だけが、まだ近かった。


跡の上に私は自分の名をもう置かない。


私は最後に再び彼の最後の頁を見直した。


彼の最後の頁の中央には、短い断片の輪郭が、今ひとつだけ、立っていた。


その輪郭は私の手元から、誰かの手のひらに向けて、伸びていた。


伸びた先にもう私の手の位置は、なかった。


なかった。それしか、置けなかった。


---


彼が最後に世界へ開いた形を私はもう、魔法とは呼ばない。


それはあなたたちが忘れたままにしていた形を、あなたたち自身の手に一度だけ戻したものだった。


戻されたものに、私の名はいらない。


魔法という名ももう合わなかった。


合わない名は、畳むしかない。


その先に立ち始める形の名を私は書かない。


それぞれの場所で、それぞれの手で、選び直していただきたい。


封印を保つ役目はもう私の身体に課されていない。役目が終わった器は、自分でしまうのが、私たちの古い作法だった。だから私はこの一行の後にもう立たない。


筆を置いた後、私の手の温度は、広間の床の方へ戻る。


もう魔法という名前で呼ぶ必要がない。


初めての作品を書き始めて2ヶ月でやっと完成しました。

最初の2週間で物語自体の大枠は全て決めていて、完成系から表現や会話のやりとりを"埋める"作業がはじまりました。

何度も何度も読み直し書き直しやっと完成できて感無量です。

毎日6時間程度、休みの日は14時間450時間を費やしたので読まれる読まれないにかかわらず、やり切った感で満足してますが、感想もいただけると嬉しいです。

次作の『不服の最適解』は人間が口にした言葉ではなく、その裏にある不満の構造を読み取り、本人が望んでいない形で問題を解消していくAIと、それに不満を抱く主人公の物語です。

ぜひ読んでみてください。

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