第29話 南へ戻る
机の上に私は再び自分の物を並べた。
帳面。薄い紙の写し。氷の粉。岸辺の石片。弟の書きかけの紙片。
その隣に、この数日の言葉を並べた。
管理。鎮静化。止めてください。空欄の人数。
最後に、機関の申請書を、一枚置いた。
題目の欄にはこう書かれていた。
南極大陸内、追加調査のための、再渡航申請
理由の欄は、まだ空白だった。
私はその欄の前でしばらく自分の指先を、止めていた。
止めた指先の下で私は長く、ひとつの言葉だけを、書き直していた。
追加確認
その言葉以上の、別の理由を、その夜、機関の欄の中には、書けなかった。
書けば、私の真の理由の方が、また、別の手の中で、別の言葉に、握り直される。
握り直される前に、書ける、ぎりぎりの言葉を私はその夜、書いた。
置いた言葉は、空欄の半分ほどしか、埋めていなかった。
埋めていない半分の方は、別の場所で、別の言葉として、誰かに託す必要があった。
---
その夜遅く、机の縁にもうひとつ、他の影が、立った。
ある古い読み手の方だった。
研究室の戸口の手前で、その方はこう言った。
「先生」
その呼びかけの入り方は、職業の手の角度ではなかった。
長く、私の研究室の灯りを、外から見続けてきた者の、声の角度だった。
「今、お出かけになれば」
「先生はお戻りにならないかもしれません」
私は間を置いた。
その間に、私の口の中で、ある一行が、立ち上がりかけた。
「戻るために行くのではありません」
その答えの方を私は口にしようとした。
しようとして、止まった。
その答えは弟があの夜、口にしなかったかもしれない言葉に似ていた。
私はそれを自分の言葉として使うことをやめた。
握り直せば、古い読み手の側の心配まで、別の言葉に変えてしまう。
私はその夜、その答えを、口にしなかった。
口にしない代わりに、小さく頷いた。
「ご心配を」
私は低く口を開いた。
「お預かりします」
「ご心配の重さを機関の理由の欄の中には入れられないままで」
「私の手元に別の場所として置かせていただきます」
その方は頷いた。
頷きの中に、納得は、なかった。
その方には、ある古い諦めの輪郭が立っていた。
その諦めを、その夜、軽くする側に、立つことが、できなかった。
---
戸口が閉まった後、机の上に、他の薄い封筒がもう一通、置かれていた。
差出人の名は、ここでも書かない。その名を守る理由はもう十分だった。
中身は、短かった。
「先生」
冒頭は、また、同じ呼びかけだった。
「お忙しいところをお見守りしております」
そこで一行分、文字の間が空いていた。
「私をお連れにならないでください」
「私はまだ、自分の手の置き場を自分の机の上で立て直している途中です」
「連れていただける位置にはまだ立っておりません」
少し行を空けて、続いていた。
「ただ」
その一行は別の場所に、ひとつだけ、置かれていた。
「お帰りにならないつもりの、お出かけの場合は」
その前に、紙の上で短い空白が置かれていた。
「それを私の知らない場所ではお決めにならないでください」
「お決めになる場所だけは私にも見せてください」
「知らされなければ、私はまた、別の手の中で別の言葉に握り直される位置に立たされてしまいます」
その手紙の最後の一行はこう書かれていた。
「先生の選択を私の見えないところで決めないでください」
私はその手紙を、二度読んだ。
二度目に読み終えた時、私の喉の奥が、また、塞がった。
塞がった喉で私はひとつのことを、自分の中で引き受けた。
魔女はその日、兄たちに、問わなかった。
問わなかったまま彼女は自分の大魔法の姿勢に、入った。
入った姿勢の中で彼女は本人の選択肢を、本人の手の中には、戻さなかった。
戻さなかった。
それが、彼女の罪の一番古い形だった。
私はその夜もう少しで、同じ形の手前に、立ちかけていた。
---
私はその夜、三通の短い書面を書いた。
ひとつは、信じる者へ。
お連れする位置には、私も、立ちません
私の選択の方を、お見せいたします
南極大陸の、ある地点へ、戻ります
お戻りにならない可能性も、私の中で、自覚しております
自覚していることを、お隠ししたくは、ありません
古い読み手の方へもう一通も書いた。理由の欄には書けなかった重さの方を、ご心配の重さの隣に置かせていただきます、とだけ書いた。
機関の窓口宛の三通めは、申請書の理由の欄に書ききれなかった部分の、短い別紙の姿を取った。
三通の書面の上に、私の指先の影はもう半歩、引いた位置から、見ていた。
引いた位置の上で、三通は、それぞれの宛先へ揃いかけていた。
揃いかけた三通の中に、ひとつだけ、共通して、置かれていない場所が、あった。
許可という言葉だった。
私はその夜、誰にも、許可を、求めていなかった。
求めない代わりに、自分の選択の輪郭を、誰にも、隠さない位置に置いていた。
それが、その夜の私にできる、ぎりぎりの告げ方だった。
---
数日後、私は南へ向かう機の中に、いた。
機内の温度は、十分に保たれていた。窓は薄く曇っていた。息は、白くは、ならなかった。
しかし、私の喉の奥の方は、また、冷えていた。
冷えたまま私はしばらく窓の外の白さを、見ていた。
白さは、雲の上の白さだった。
その白さの中に、いつかの地下の広間の白さの色は、まだ入っていなかった。
だが、その白さはもうひとつの方向だけに向き直っていた。
向き直った先の白さを私はその時、初めて異なる角度から、見直した。
その白さはもう遺構の白さではなかった。
止められた生活の白さでも、なかった。
逃げる白さでも、なかった。
問いの形をした白さだった。
その問いの形の中央へ、私の足は、今自分の重さでゆっくりと降りていこうとしていた。
降りていく前に私は再び自分の手を、自分の前で、低く開いた。
開いた手の中に、止めてくださいという声が、まだ預かりのまま、置かれていた。
預かりの重さを、その中央で、自分の手の中だけに握り直す側には、立たないと決めた。
私は南へ、戻っていた。
今度は、落とされたのではなかった。
自分の足で、同じ問いの下へ、向かっていた。




