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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第一章 氷の下の記憶

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第2話 弱い手

人類の起源を知れる回になります。

場面が動かないじゃないかって退屈に感じる方がいると思います。

設定やエピソードの作り込みで魅せたいという気持ちがどこから来たのか。

あとがきにて。

「人類」と彼女は言った。


私たちではない。あなたたちと言った。あなたたち、人類——その一語の中に、私の知らない誰かの距離が最初から折り込まれていた。


耳がその言葉を二度、三度と勝手に繰り返した。確かめたかったわけではなく、ただ触れずに済ませるための反芻だった。


声を返せない。沈黙の方が長い。それから短く問うた。


「……それはどういう意味ですか」


「言葉のとおり」


返答する声から軋みが少しずつ減っていた。ただし、息継ぎのたびに、千年か、それ以上の重みが声に降りる。


> 「あなたたちは初めから外の世界にいたのではない。

> 私たちがこの大陸の外へ送り出した者たちの

> 力を持たなかった、あの人たちの末に連なる」


身体の中で重さがずれた。立っているのに立っていないような感覚。落下の時に似ている、地面が消えた後の、最初の数秒の感覚。


口の中が急に乾いた。


学者の側の流儀なら、これは検証を要する仮説として扱える。複数の説明が立つ場合は整合性の高いものを採用するというのは私の流儀だった。だが今、その流儀の手元から、採用するための前提だけが抜け落ちている。


人類がより古い系統から枝分かれしてきたという話なら進化史の中にいくつもあったし、そういう枝分かれは何度でも頭で扱える。しかし、その系統に連なる存在が今目の前に座っているという形は、頭の中のどの仮説にも収まらない。彼女がここにいるという事実がそのまま、ひとつの矛盾として広間の床の上に置かれていた。


当然のものとしていた前提がひとつ、横にずれていた。


否定する材料もない。


「……今の私にはその仮説を笑って退ける材料がありません」


返事はなかった。代わりにもう一度息を吸う音が聞こえた。今度は語るための息だった。


「力」とは何かを問わなかった。問えば、答えが出ることが分かっていた。問わずに済んでいる時間の方がまだ救いに近い。


広間の柱に走る線が薄く明るんだ。数秒で消えた。声に応じたのか、こちらの沈黙の方に応じたのか、判じかねた。


> 「私たちの土地は寒かった。

> 私たちはひとりで夜を越せた。

> ひとりで冬を越せた。

> 獣を退けることができた。

> 火を呼ぶ者は声で火を呼んだ。

> 雪を退ける者は手のひらで雪を退けた。

> 互いを必要としなかった」


そこで視線が落ちた。膝の上で重ねられた両手の指の角度がわずかに変わっただけだ。


「私たち」と相手が言う時、その「私たち」に私は含まれない。「あの人たち」と言う時、その「あの人たち」が私を含む側を指す。文法ではなく、距離の取り方として、それは正確だった。


「あの人たち」の側に私は既に立っていた。立っていたことを今、自覚した。


> 「あの人たちは違った。

> ひとりでは夜を越せなかった。

> 冬を越せなかった。

> 獣に追われた。

> 火を起こすことに何度も失敗した」


「あの人たちというのは」


「力のなかった者たち」


間が置かれた。


「私たちが海の向こうへ送り出した者たち」


「送り出した、ですか」


自分の声が思ったより冷えていた。


「捨てたという意味ではないのですか」


否定の言葉は、返ってこない時間が長かった。同じ言葉を選び直すように静かに彼女は言った。


「送り出したのです」


彼女は捨てたと言わなかった。その言わなさの方が、私には届いた。


> 「彼らは外の土地に着いた。

> そこは私たちの土地より、暖かかった。

> 弱い手が別の弱い手を握った。

> 呼ぶ息に別の息が返った。

> まだ言葉でなかった時からそれだけで意味はあった。

> 寒い夜には身体を寄せ合った。

> 火は燃やすために起こすものだが彼らはまず互いを照らすために起こした」


声はそこで一度切れた。


> 「食べ物はわずかでも分けた。

> 老いた者の話を若い者は聞いた。

> 聞くこともまた、生き延びる方法だった。

> 死んだ者を彼らは捨てなかった。

> 土をかけ、石を置き、花を置き、線を引いた。

> 線はいつの間にか文字になった。

> 彼らの手は岩の上に絵を残した。

> 戻ってこなかった者を忘れないために描いた」


最初の花はたぶん花と呼ばれていなかった。手に残った色のある草を、死んだ者のそばに置いただけだった。


息を一度深く吸った。冷えた空気が肺の奥でほどけきらない。指の先がヘッドランプの光の中で白い。


岩肌の絵、死者の傍の石、狩人が戻らなかった夜を描いた絵。彼女が言った形と、私の知っている遺物の形が、いくつも重なっていた。


彼らの弱さが互いを向き合わせる。社会学にも進化論にも似た構図はあったから、考えそのものは新しくない。それでも、今それを彼女の口から聞いていることに、説明がつかない。


私は人類を信じてこなかった。地質的な時間で計れば、人類の合意も制度も崩れる側にしか見えない。けれども、その判断にはひとつ見落としがあった。彼らが弱かったから集まったという出発点を。


その時、弟のことが浮かんだ。喉の奥で彼の声が一度だけ落ちて、長い間、のぼってこなかった。


戻したい。いつかの彼の一語が、今異なる角度で響いた。


私がずっと退けてきた言葉のはずだった。それでも今響いた。


それ以上は考えないようにした。


耳が次の言葉を待っていた。広間の音はすべて、彼女の周囲に集まっている。


「外の世界は私たちのいた土地より、暖かかった」


声音は変わらない。それでも広間の温度が下がった。床の文様が再び息をするように薄く明るんだ。


「暖かさは彼らを生かした。けれど、それだけではない」


抑えた声だった。その言葉は広間の空気の中でしばらく動かず、それから語りが続いた。


> 「暖かさは彼らに知恵を与えた。

> 暖かさは彼らの身体を強くした。

> 暖かさはそれからもうひとつ、私たちのものに似た何かを残していった。

> 持たなかったはずの、私たちの、影のようなものを」


「影」


聞き返すかわりに続きを待った。柱の根元の線がもう一度薄く明るみ、消えた。


> 「持たなかったと言った。

> けれど、まったくの無ではない者もいた。

> 私たちに似た性質が混ざっていた。

> 暖かさがそれを少しずつ表に出した。

> 知恵だけではない。

> 手を伸ばす力も、声を上げる力も、いつの間にか強くなった。

> 助け合うために伸ばした手は奪うためにも伸びるようになった。

> 囲んでいた火は放つ火にもなった。

> 誰かを欲しがった声は誰かを従わせる声にもなった。

> 死者の上に置いた花は敵の屍に積まれる石にも変わっていった」


彼らを生かした温度が、同時に別のものを育てている。その並列は、頭で理解する前に皮膚の方が先に揺れていた。


身体の表面は冷えているのに、内側で別の温度が動いている。それを何と呼べばよいのかまだ分からないというよりも、聞く側にいる私の中で、その名づけの場所だけが声に揺らされていた。


私が悲観と呼んできたものを彼女は別の名で、もっと長い間見てきたのかもしれない。


「あなたはそれをどこから知っているのですか」と問うた。「あなたたちは彼らを送り出した側でしょう」


問いの形より棘の方が先に出ていたことに、口に出して気がついた。私の中で気づかぬうちに動いていた温度が語尾に出ていて、声を発した後もそれは引かなかった。


答えは返ってこなかった。


代わりに首がわずかに傾き、膝の上の手が動いた。


「私は見届ける側だった」


それだけだ。


「見届ける」という言葉が宙に残り、彼女の沈黙にはまだ閉じきらないものがあって、私は待った。


そして短い言葉が続いた。


「彼らは一度戻ってきた」


映画『キサラギ』はアイドルの焼身自殺の謎をレンタルルームの1室で解決するという話です。

ファン達が周忌を偲ぶために集まり、その部屋以外の場面がないのですが、ストーリーやエピソードの作り込みで魅せるとても素晴らしい作品です。(正確には過去の回想シーン内にて別の場面はあります)

いずれ小説を書くならそういう魅せられる作品を(えが)きたいと思っていたので本作品の1部ではネタバレではありますが、倣います。

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