第1話 分かれ道
やっと物語がはじまります。
この作品は世界観に入っていただくために一気読みがいいのですが。
その一言の余韻が広間に残った。
耳ではなく、皮膚の奥に。
何が遅かったのか。問わなければならないのは私の方だ。だが返すべき言葉は見つからなかった。
広間の奥で氷とも石ともつかないものが低く鳴った。彼女はその音を聞いた上で答えなかった。
女は再び沈黙に戻り、空気の温度の境目、影の落ち方、床の固さ。彼女の周囲だけが、私の知らない作法で語り続けていた。その中に、私が来ることを前から知っていた者だけが持つ、奇妙な落ち着きが含まれていた。
靴の中の足の指が徐々に冷えていく。暖かさは彼女のすぐそばに留まり、私の位置までは届かない。
「あなたは誰か」「ここはどこか」「私はなぜここにいるのか」。どれも口に出した瞬間に違ってしまう問いに思えた。
膝の上で重ねられた両手のうち、左の指先だけが数ミリ内側へ折れた。布の襞は動かない。指先だけに、意志があった。
口が再び開いた。
「私は」
そこで止まった。
「呼び方を忘れた」
その言い方は自分の名を忘れた者の言い方ではなく、名を呼ぶ者が長くいなかったと認めている響きだった。数秒、彼女の視線は自分の手元へ落ちた。
「ここに残った者の、最後のひとり」
それが彼女の選んだ自己紹介だった。
ここに残った。
最後のひとり。
広間の壁が、急に広くなった気がした。
答えなかった。忘れたと言った者にもう一度名を問うのは無作法に思える。
「あなたを待っていた」
そう言った時、彼女は「私は」とは言わなかった。目の前の私個人ではなく、私の背後にある何かを見ているような響きが、その短い一言の奥に残った。
「あなたと言ってよいのか分からない。誰かを、と言った方が近い」
声は低い。最初に発した時より、軋みは少ない。沈黙の中で固まっていた何かが少しずつほどけ始めるようだった。
「話してもよいか」
頷いた。頷いた覚えはある。それが伝わったかは自信がない。彼女の視線は私から少し外れて、柱の方を向いていた。同意を必要としていなかったのかもしれない。
頷いた後で、同意してよかったのかと遅れて考えた。聞いてしまえば、聞く前の私には戻れない話があるかもしれない。語り始めた彼女の声はもう止まらなかった。
> 「私たちは力を持っていた。一人ひとりが十分に。
> だから誰かと協力しなくてもよかった。誰かに助けてもらわなくてもよかった。
> それが私たちの誇りだった。
> それが私たちの弱さだった」
「弱さだった」の余韻が消える前に柱の根元に刻まれた線が一度だけ白んだ。光と呼ぶには弱く、反射と呼ぶには意志がありすぎる、そういう種類の白さだった。
その「誇り」と「弱さ」の近さに私は引き寄せられた。肯定の言葉と、否定の言葉を彼女は何も挟まずに並べた。
彼女の言う「私たち」が誰のことなのかはまだ知らない。だがその「私たち」が私の知る人類とは違う場所に立っていることだけは口調から伝わった。
彼女は自分たちの建てたものについて少し話した。柱を立て、壁を彫り、その内側に魔法を編み込んだが、それは街ではなく、道も市場も広場も必要としなかった。互いに会わずとも生きられたから、共有のための広い空間が必要なかったということらしかった。
文明という言葉の中に私はいつも他者を含めていた。彼女の語る文明からは、他者の必要だけが抜き取られていた。
文明と呼ぶには、共同のものが少なすぎる。そう言いかけて、私は口を閉じた。
魔法。
その言葉以外では彼女の言う力を指せなかった。彼女が本当にそう発音したのかは分からないし、私の理解がそこへ置き換えたのかもしれない。
彼女の言葉を信じたわけではない。それでも、信じないための足場が、私から少しずつ消えていた。遺構も彼女の身体も、この場所の温度も、私の否定を静かに拒んでいた。
それは私が学んだ古代文明史のどれにも当てはまらない。互いに出会わずに育つ文明というものを私は知らない。
学者の習性がまだ残っていた。聞いた端から頭の中で並べ直す癖が自然に動きかけ、しかしその分類が彼女の語りを傷つけるような気がして、途中でやめた。
声の調子が変わった。歴史の遠景から彼女自身の記憶に近い話へ移った。
寒い場所では、彼らは穏やかだった。互いを尊重し、傷つけ合わなかった。
しかし温かくなると、別の生き物になった。
視線が、膝の上の手に落ちた。
> 「私たちの心は空気の温度と結ばれていた。
> 寒ければ、争わずにいられた。
> 暖まれば、自分の力に酔った。
> 私たちはそれを生まれつきだと言った。
> 生まれつきという言葉は言い訳にもなる」
言い訳にもなるという最後の一文で床の文様の一部が暗く沈んだ。光が消えたのではない。そこだけ、古い傷のように黒く残った。
温度と精神を結びつける仕組み。それを聞いた瞬間、氷床の中の気温の記録と、今の地球の上がりつつある気温が同じ線上に並びかけた。しかし、その線を追わなかった。今は彼女の言葉の前にいる時間だ。
そこで私は口を開いた。
「あなたは」
彼女は私の方を見ない。
「私のことは後でよい。先にここにあったものを話しておきたい。話せるうちに」
話せるうちに、と彼女は言った。その言葉の後で、彼女の周囲に残っていた温度がさらに薄くなった。皮膚と同じくらいの温度を保っていたはずの空気が、広間の冷えに押し戻されていく。話せなくなる時間が迫っているのか、身体が持たないのか、判断はできなかった。
「私たちの中には」
そこで語り口が変わった。
身体の動きではない。声が硬くなる。それだけで変化は見えた。
「魔法を使えなかった者がいた」
聞き返さなかった。いや、聞き返す勇気がなかった。
「魔力量が極端に低い者。彼らは私たちの中で私たちと同じには扱われなかった」
扱われなかった、と彼女は言った。差別されたではなく。それでも意味は届いた。
「やがて彼らはここを去った。この大陸を出て、外の暖かい世界へ」
「私たちがそう、決めた」
「決めた」の前で声が一度だけ沈んだ。自分自身に向けて、それを言ったように聞こえた。
「彼らがどこに辿り着いたのか私は知らない。私たちはその追跡をしなかった。送り出した時点で私たちにとって、彼らは終わっていた」
「終わっていたのは彼らではなく私たちだったのかもしれない、と今は思う」
そこで一度、彼女の目が閉じた。目が開くと、顔がゆっくりこちらへ向き直る。
彼女の言葉が一つひとつ異なる意味を立ち上げていく。ここを出て、外の暖かい世界へ送られた者たちというその輪郭の先に、私の知らない何かが立ちかけた。私は息の手前で、それを押し戻した。
「私たちは寒さを選んだ。私たちは自分の生まれつきの穏やかさを寒さで保とうとし、彼らは私たちが選ばなかった方へ送られた」
声はもう揺れない。先ほど沈んだ一瞬は、彼女の中で閉じられていた。
胸の奥が彼女の声に押されて、静まっていく。拒絶でも理解でもない感覚がゆっくり立ち上がる。
私の目を初めて正面から見た時、息がそこで一度だけ止まった。
その視線に私は遅れて気づいた。彼女が見ているのは私だけではなく、私の背後に連なる、名も知らない者たちだった。
「あなたたち人類は私たちの分かれ道の片側にいる」
実はプロローグと第1話で15000文字ほどだったんですが、できるだけ読みやすいように細かな描写はAIにいるいらない判定をしてもらい削りました。
人間が書くと冗長になり、AIが削るとやりすぎるきらいがあるので、とても繊細な作業となりました。
導入で離脱されないようにするのは大変なのです。




