第27話 一度だけの共有
古い大学の図書館の、隅の閲覧室を私は再び頼んだ。
午後の早い時刻、その室にはほとんど誰もいなかった。
向かいの椅子にその者はもう座っていた。
机の上には、私の物が、いくつか、置かれていた。
弟の書きかけの紙片の薄い写し。
地階で受け取った質問の言葉を、後で書き写した小さな紙。
三つの記録の一番端の縁の写し。
そして、その者の上着の内側から、いつかの薬の瓶の蓋が、ひとつ、机の上に置かれた。
蓋の縁の上に、細い水滴が、ひとつ、乗っていた。
---
「先生」
その者はいつもの呼びかけで、私の方へ口を開いた。
「お願いしたいことがございます」
「先生のお書きになる、戻すための言葉の手前で」
「私の痛みを短い時間だけ、先生にお預けしたいと思っております」
私は応える前に間を置いた。
そして蓋の上の水滴を再び見た。
「あなたを」
口を開いた。
「実験台にしたくはありません」
「実験台とお呼びになる前提の方を」
その者は言った。
「ひとつ、外していただきたいのです」
「先生は私の手の置き場を本人の手に戻すと書いてくださいました」
「戻された場所から私は自分で選んでいます」
「実験台になるではありません」
「先生の言葉の、一番端の方を自分で確かめに来ました」
その十数行の言葉の中に、力みは、なかった。
なかった代わりに、その者が自分の言葉で立て直した姿が確かに立っていた。
立った姿の手前で私は自分の手を、また、半歩引いた。
---
二人は、互いの手を、机の上で重ねなかった。
重ねれば、また、私の手が、その者の選んだ位置に被さる。
被さらないために、中央には、その蓋を、ひとつ、置いた。
蓋の縁の上の水滴の、その向こう側に、弟の紙片の薄い写しを、私が、向きを揃えて、置いた。
紙片の半端な角度の文字の方を、その者に向けて、置いた。
向けたまま私はしばらくその者の応答を、待った。
「先生」
短い沈黙の後、その者は再び口を開いた。
「お願いがございます」
「短い時間でお願いいたします」
「私の中で止めてくださいと申し上げた時にはお止めいただきたいのです」
止めて、の短い拒否をその者ははっきりと置いた。
私はその拒否の手触りを、自分の中で改めて測った。
止める。
地下の広間で、魔女が、自分の手のひらに向けて、繰り返した言葉だった。
その言葉の内側に彼女は別の姿を、隠していた。
今、その同じ言葉の内側に、別の形は、入っていなかった。
入っていない代わりに、その内側には、本人の停止権が、細く残されていた。
「お止めします」
そう、答えた。
「あなたが止めてくださいとおっしゃる、その瞬間に」
「私はお止めします」
「ありがとうございます」
その者はその言葉を、自分の方ではなく、机中央の蓋の縁へ向けた。
置いた瞬間、その者の手がわずかに開いた。
---
その者の手は机上の蓋の縁の手前で止まっていた。
そこからこぼれた冷気が、水滴の端の上で薄く立った。
その輪郭を見てから、私も、机の中央の手前までゆっくりと手を伸ばした。
伸ばす途中で、私の指の腹は少し汗で湿っていた。汗の縁に、机の冷たさが触れて、皮膚がかすかに震えた。
向かい合った相手の指は、震えていなかった。代わりに、目線が、私の顔の輪郭から一度だけ外れて、戻った。
互いの手は、触れて、いなかった。
二つの手の間には、その蓋が、ひとつ、置かれていた。
その縁の上で、二人の中にあるものが、それぞれの側から向かい合った。
向かい合った瞬間、私の中に、ひとつの姿が入ってきた。
形は、声でも、景色でも、なかった。
皮膚で受け取るのに最も近かったが、皮膚の表面で受け取ったのではない。皮膚の下の、普段は何も伝えない場所で、ひとつの問いが、その者の口の中の問いと同じ形で、立ち上がった。
立ち上がった問いは、ある一瞬の、その者自身に対する不確かさの形だった。手首の骨の内側に、知らない鍵を掛けられているような感覚が、そこに乗っていた。
「この手はもう自分のものではないのかもしれない」
そういう形だった。
その重さを私はその時、自分の内側で抱えた。
抱えた重さは、紙の上で読んだ、利用される者の側の問いの重さよりも、ずっと、近かった。
近かったことの方が、私の中で、まず、喉を、塞いだ。
---
ほぼ同時に、中央から、異なる重さが、その者の手の中に入っていった。
私の、ある熱だった。弟が火山の縁で最後に持っていた皮膚の熱の色、四枚の地図の上で今薄い赤の方角に寄り始めていた色、その色を、長く、ひとりで抱えていた。抱えた重さの一部が、その瞬間、机の中央を通って、その者へ移った。
移った熱を、相手の手が、受け取った。
受け取った先で、火山灰を吸い込んだ後のように、喉の奥に熱い粉が残る感覚が、その者の方に薄く立った。
受け取った瞬間、相手の口の中で、短い音が、ひとつ、立ち上がりかけた。
声に、なる前にその者は低くこう言った。
「止めて、ください」
その言葉をその者は震えない声で、置いた。
私はその言葉を聞いた瞬間、自分の手の中の熱をゆっくりと自分の方へ引き戻した。
引き戻した熱はもう中央へは伸びなかった。
その者の手にあった不確かさの輪郭も、机の中央から、自分の方へ引き返した。
二つの手の間には、今もう何も、立っていなかった。
---
二人はしばらく中央の蓋の縁の方を、見ていた。
蓋の縁の水滴は、まだ丸い形で、そこに、乗っていた。
水滴の端の白さはもう誰の方にも寄っていなかった。
「先生」
しばらくして、その者は再び口を開いた。
「ありがとうございました」
「先生は止めてくださいました」
「魔女の側ではその瞬間がなかったのですね」
私はその一行にすぐには応えられなかった。
応える前に私は自分の手の中に、まだその者から渡された輪郭の名残りが薄く残っているのを、確かめた。
確かめた残りの重さは、紙の上の問いよりも、ずっと、重かった。
預けてもらった。
そう呼ぶしかなかった。
預けてもらわない知識は、別の手の中で、別の言葉に変えられる。
預けてもらった知識は、預けてくださった者の、止める権利の手前でだけ、私の手に渡される。
「私が」
私は低く口を開いた。
「探していたのは」
「届かせる力ではなかったのですね」
「止められる、届き方の方、だったのですね」
「はい」
その者は頷いた。
「先生のお書きになる、戻すための言葉の中に止めてくださいという声を入れていただかなければなりません」
「入れていただかない言葉はまた、別の手の中で止められない側の力に変えられます」
私はその一行の上で、また、指先を半歩引いた。
---
その日の帰り道、私は自分の机へ戻りながら、ひとつのことを、確かめた。
「兄さんにも、届くと、思ってる」
その声を私はずっとはっきりとした自信の声として、聞いていた。
しかし、午後の閲覧室で、その者から預けられた重さを受け取った後、私はその一言を、異なる角度から聞いた。
届かないかもしれない、と、自分ではっきりと感じながら、それでも、弟はその一言を、戸口の手前で、置いた。
その不確かさの重さを私は長く、自分の手の中では、抱えていなかった。
抱えてこなかった。
その重さの形が、今その者から私へ預けられた重さと、よく、似ていた。
似ていたということを、その帰り道、初めて自分の中で見直した。
---
机に戻った夜、私は自分の追補文の続きの位置に、新しい一行を、書き加えた。
名も、場所も、言葉も、すべて、ご本人で、お選びください
お選びになる中に、いつでも、止めてくださいという声を残せる場所を、こちらで、用意します
二行目を私はしばらく画面の上で、止めて、見ていた。
止めて、ください。
その言葉の中にもう命令の角度は、混じっていなかった。
混じっていない代わりに、預け合いの形の中の、本人の停止権の輪郭だけが薄く立っていた。
その立ち方の中で私はその夜、ひとつのことを、自分の口の中で形にした。
痛みは、その日確かに届いた。
しかし、届いた痛みは、預けてくださった者の、止めてください、の手前まで、しか、私の中で、抱えてはいけないものだった。
被せないために、その日、私は自分の手を、自分の方へゆっくりと引き戻した。
引き戻した手の位置で私は声を落として、言った。
一度だけでもという言葉の中に私は初めて、止めてくださいという声を、入れなければならなかった。




