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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第26話 痛みの手前

机の上に、三つの記録を並べた。


信じる者の手紙。


恐れる者の病室の記録。


利用される者の黒塗りの紙束。


私はそれぞれの端に指を触れなかった。


触れれば、また私の影が紙面に被さる気がした。


---


信じる者は、入口に立たないと返してきた。


恐れる者は、二度と来ないでくださいと言った。


利用される者は、私の手は、私のものですかと問うた。


三つの言葉は、別々の方を向いていた。


しかし、書かれていない場所は同じだった。


どの言葉の下にも、本人が自分で選べる余白がなかった。


私は三つを別のものとして見ていた。


信じる者。恐れる者。利用される者。


分類していた。分類という手つきが、私の中にも入っていた。


私は三つの記録を重ねようとして、途中でやめた。


重ねれば、紙の厚みはひとつになる。


けれど、信じる者の机の水滴と、恐れる者の毛布の皺と、塗られた頁の問いは、同じ厚みにはならなかった。


同じ厚みにしてしまう手つきの方が、今の私の中にも確かにあった。


その手つきを見た瞬間、私は自分の指先を、机の端から引いた。


---


その隣に、四枚の地図を置いた。


乾いた色はもう一つの方角へ寄り始めていた。


資源。配分。優先。手続簡略化。


その言葉の側にも、本人の手は立っていなかった。


地図の上の薄い赤を見ていると、弟の死んだ熱が、紙の下から戻ってくるようだった。


私は地図の縁から手を引いた。


引いた指の先で、机の上の三つの記録と四枚の地図が、ひとつの方角へゆっくり向き直っていた。


このまま文を書き続けても、間に合わない。


その思いが、初めて机上に立った。


---


弟の紙片を、三つの記録と四枚の地図の間へ、持っていった。


置こうとして、止まった。


紙片は、証拠ではない。


私に向けられた、返事の未完の形だった。


そこへ重ねれば、弟の言葉まで、私の考えのための材料にしてしまう。


それでも紙片の端は、机の上の乾いた赤と、病室の白さと、黒く塗られた頁の間でわずかに震えた。


「兄さんにも、届くと、思ってる」


声は紙片から出たのではない。


私が戻さなかった夜の、戸口の手前から戻った。


私は紙片を中央には置かなかった。


三つの記録の手前、自分の手前の縁に戻した。


そこだけが、まだ私の痛みの置き場だった。


その痛みを、他の痛みと同じ場所に置けば、私はまた、世界のためという名で弟を使うことになる。


私は紙片の角を、指の腹で一度だけ押さえすぐに離した。


紙は温かくも冷たくもなかった。


返事を待つものの軽さだけがあった。


---


人類は真実を伝えられても、互いに手を伸ばすとは限らない。


知識だけなら、資源にできる。配分にできる。管理にできる。人はそれを、自分の手の中で握り直せる。


けれど、知ることと、痛みを知ることは違っていた。


痛みが混じれば、その手は一度止まる。


止まる一拍がなければ、本人の手の置き場は戻らない。


そして、それぞれの机の上で少しずつ痛みを預け合っている時間はもうなかった。


ゆっくりでなければ届かないものがある。


だがゆっくり届かせている間に、別の場所で水は尽き、別の場所で手は握られ、別の場所で名前は上書きされる。


その二つの時間を、同じ机の上に並べた時、私は初めて、文だけでは届かない場所を見た。


---


弟のその言葉を私は長く、私だけに向けられたものとして抱えてきた。


けれど、その夜、兄さんという呼び名が、私一人の名ではないように見えた。


弟は私を通して、机の外側の誰かへも、その言葉を運ぼうとしていたのかもしれない。


その誰かの方角に、信じる者の手紙があった。


恐れる者の閉じた病室があった。


利用される者の黒塗りの頁があった。


四枚の地図の乾いた色があった。


---


地下の広間で魔女は自分の手に向けて、止める、だけだと置いた。


その「止める」の内側に、別の形が入っていた。


彼女はその形の方に目を伏せた。


私は同じことをしてはならなかった。


真実を伝えるだけでは、足りない。


選択肢を返すだけでも、まだ足りない。


誰かが、一度だけでも、すべての手へ向けて、自分の手を開かなければならなかった。


一度だけでも。


私はその言葉を口の中で置いた。


置いた瞬間、机上の三つの記録の縁を、見た。私はこの並びの方を、いつの間にか、自分の手で揃えていた。揃えた手つきが、既に誰かの手の置き場を、別の場所から、決め始めているのではないか。並びそのものがもう間違っているのかもしれない。


痛みを一度だけでも共有させるというその考えの方へ手を伸ばした瞬間、その中に既に誰かの手を奪う形が混じっているのを私は見た。それは魔女が封印の図の前で聞かなかった声と、同じ姿をしていた。


それでもと私は思った。


人類は互いの痛みを、一度だけでも、知る必要があるのではないか。


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