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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第24話 広がる手記

薄い綴じの印刷物は、最初の五部の後で、私の手の中からゆっくりと外側へ流れ始めた。それはもう、私の手だけのものではなくなっていた。


三部は、私の机から出た。二部は、古い読み手の机へ渡った。そこから先は、別の手が、他の机で、同じ紙を起こした。追補文も、第一行も、ほとんど原姿のまま、引き継がれていた。


けれど、その紙が、どの机へ渡ったのかを私はもう正確には追えなかった。


---


ある若い者から、短い葉書が、届いた。


葉書は、机の上で、ほとんど音を立てなかった。


「先生の追補文の中の、お選びください、の言葉を私は自分の机の端に書き写しました」


「書き写したその言葉を私は毎朝、一度、読み直しています」


「読み直しているうちに自分の手がすこしずつ、その言葉の方角に向き直り始めました」


葉書の差出人の名は、書かない。


---


他の方角から、別の手紙が、届いた。


封筒は、葉書より少し重かった。


置いた時、紙の下の空気をわずかに押した。


差出人の側の握りの跡が、紙の端に薄く残っていた。


「先生のお書きになった、本人の罪ではない、の一行を私は毎晩、手の中で握り直しております」


「握り直しているうちにその一行が私の罪を外から拭うための布の形に変わり始めました」


「その布で何かを覆って、なかったことにしてしまいそうでまだ信じきれません」


「私は覆う側にはまだ立ちたく、ありません」


少し行を空けて、続いていた。


「先生の本は私にはまだ早すぎたかもしれません」


その手紙を私は机の端で、長く、読んだ。


長く読んだ後、机の端の温度の方が、私の中で、短く沈んだ。


その手紙の中の手は、開かれて、いなかった。


開かれていない手に、私の本は、今異なる重さで、届いていた。


その重さは、葉書の側の白さとは、別のものだった。


---


公開の場の側の動きも、別の速度で、流れ始めていた。


ある全国紙の文化欄に、私の追補文の一行だけが、短く引用された。


本人に、残す名も、残す場所も、残す言葉も、すべて、ご本人で、お選びください


引用される位置で、その一行は確かに原姿のままだった。


その一行に被せられた見出しは、別の姿をしていた。


魔法体質者の選択権


わかりやすい見出しだった。


私はその中の、魔法体質者という名を、自分の手記の中では、まだ一度も、書いていなかった。


書いた瞬間、本人の手は、その名の内側へ、半分、入れられる。


他の機関の小さな声明には、その名の代わりにもう一つ、別の言葉が、置かれていた。


対象者


その言葉も、私の手記には、なかった。


なかった言葉ほど、外側では、早く増えた。


増えていく数を、その日、自分でもう止められなかった。


---


ある秋の午後、私は地方の小さな読書の集まりに、招かれた。


会場は、古い書店の地階の、狭い席だった。


集まったのは、二十人ほどだった。


私は机の前で、原稿を持たずに、地下の広間で受け取った言葉のうち、いくつかを、自分の口でゆっくり話した。


演説ではなかった。


声を、張らなかった。


時々、息が短くなり、その短さの中で、机の端を、一度、見た。


見た縁の上に、いつもの帳面と、薄い紙の写しと、書きかけの紙片だけが、置かれていた。


紙片は、手元の、私に一番近い場所に、ずっと、置かれていた。


紙片の半端な角度の文字を私はその日再び読み直した。


読み直した時、私の声の角度は少し低くなった。


その低さの中で私は二十人の側に向けてこう言った。


「私の手記は誰かの手を開かせるためにも書きませんでした」


「閉じさせるためにも書きませんでした」


「今、誰かの手の方角が別の手の中に握られたままにならないように、と」


「それだけのために書いているということをお伝えしたかったのです」


二十人はしばらく静かだった。


静かさは、敬意のものでも、不同意のものでも、なかった。


それぞれの席で、それぞれの呼吸が、自分の場所へ戻る音だった。


最前列の側の、年配の女性が、ふいに、隣の席の方へこう低く言った。


「窓の方の隙間風が今日は強いですね」


問いかけは、私の話に向けたものではなかった。本人もそれを、気にしてはいなかった。隣の者が、短く頷いた。それだけのやり取りだった。


机の縁の方に降りていた私の手のひらの位置が、その短い隙間風の話の方で一旦普段の机の縁の側へ、戻った。


---


やがて、一人の手が、上がった。


声は、四十代ほどの、男性のものだった。


職業の手の角度ではない。


夜遅くに帰宅した後の、家族の側の食卓の端の角度を、普段、自分の手の中に持っている者の、声だった。


袖口には、仕事場の埃ではなく、洗い物の後の、わずかな湿り気のようなものが残っていた。


椅子に座り直す時、その人は隣の空席の背に、子供用の小さな上着を、軽く、引っ掛け直した。引っ掛け直しの手つきは、本人もたぶん、意識していなかった。


足元に立てられた鞄の上の方には、職場の書類の角ではなく、子供用の絵本の背が、半分だけ覗いていた。覗かせていたのではなかった。鞄に何を入れるかを選ぶ時、職業の手の角度より、家族の側の角度が少し先に動く者の、鞄の入れ方だった。


「先生」


その呼びかけを、その人もまた、私の方へ向けて、置いた。


「お話、ありがとうございました」


「ひとつ、お伺いしたいことがございます」


頷いた。


「先生のお考えで本人の選択肢を一番に置くというところはよく、わかりました」


「現実の問題として」


「もしも本人が自分の力を自分で御しきれていない場合」


「あるいは本人の力が別の誰かの命に確かに関わってきた場合」


「ではその方をどう、管理するのですか」


管理。


その言葉が、地階の小さな空気の中で立った。


私はその言葉にすぐには応えられなかった。


応えるための言葉が、私の中で、まだ揃っていなかった。


「今、ここで即答できる答えはありません」


そう、答えた。


「答えがないことをまず、お伝えします」


「本人の選択肢を第一に置くと私が書き続けることが別の誰かの命を軽くしているかもしれない。その重さを私はまだ引き受け切れていません」


その人は間を置いて小さく頷いた。


その頷きの中に、敵意は、なかった。


頷きの下の方に、その人の家族か、身近な誰かの命の重さが、短く立っていた。


立った重さの方を、その日、最後まで、軽くする側に、立つことが、できなかった。


---


集まりが終わった後、私は地階の階段を、一段ずつ、上った。


階段の途中で、書店の若い店員と、すれ違った。両手で抱えていた段ボールの底が、抜けかけていたらしく、いちど、足を踏み外しかけた。咄嗟に、私の片手の方が動いて、箱の角を、下から支えた。「ありがとうございます」と、店員はそう言った。早口に、ほとんど一語のように。私もまた、短く頷いた。それだけのやり取りだった。


上りながら私は自分の手の中の、書きかけの紙片の端の方を、確かめた。


確かめた縁の感触の上に、その日、地階で聞いた質問の言葉が薄く乗っていた。


乗ったまま、その言葉は紙片の端の白さの中には、収まらなかった。


収まらない言葉を私は自分の鞄ではなく、声の手前で再び言い換えようとした。


言い換えようとして、言い換えきれなかった。


そのことから、その夕方もう目を逸らせなくなった。


机の縁から始まった一行が、今机の外で、別々の重さを持っていた。


葉書の白さ。


その言葉を抱えた封筒の重さ。


見出しと声明の名。


地階で響いた管理の言葉。


どれも私の手記から出たものだった。どれももう同じ重さでは、戻ってこなかった。私はその全部を、自分の手の中にもう保ち切れなかった。


届き始めた言葉はもう私の手だけでは、持てなかった。


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