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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第23話 檻の中の手

私が研究室の戸を開けた時、机の上に、薄い綴じの紙の束が置かれていた。


置いた者は、まだ研究室の中にいた。窓の側で、こちらに背を向けて立っていた。


窓ガラスの下端に、その人の指の跡が四つ残っていた。


拭いきれなかった跡だった。


その人はその跡の方を見たまま、低くこう言った。


「これは私から渡したものではありません」


私はその一言の意味を、その日のうちに、聞き返すことはできなかった。


置いた者の名は伏せる。


その名を守る理由はもう前に述べた。


紙の束は、機関の正式の書式の形を、していなかった。


書面の角度は、職業の手の角度を保っていた。


頁を開いた最初の半頁は、黒塗りの面だった。


黒塗りは、職業上、一番丁寧な角度で、ほぼ等しい間隔の線で、引かれていた。


塗られた下に、元は、ある名と、ある所在地と、ある日時が、書かれていたはずだった。


塗られていた。消したのではない。塗っていた。元があったことだけは、塗った側も隠していなかった。


最初から書かない、と、塗るでは、別の形だった。塗った者の側の、ある誠実が、その違いの中に薄く立っていた。


その小さな誠実を、その朝、まず、自分で、受け取った。


---


頁の中身は、ある保護施設の、ある一人の協力者に関する、面会と、所見の記録だった。


合計、十二回。


整理欄の冒頭には、対象の輪郭が簡潔に書かれていた。三十代前半。元の職歴は教職、とだけ書かれていた。その一語のせいで私はしばらく次の行へ進めなかった。家族構成の欄は、塗られていた。


最初の三回は、職員側からの聞き取りだった。


四回目以降は、検査室での所見が、続いた。


検査室の所見の側は、技術的な語が、ほとんどだった。


技術語の合間に、本人の発話が挟まれていた。


発話は、すべて、本人の口語の側で、書き取られていた。


書き取られた口語の中の、いくつかの言葉の上に、黒塗りが、ぽつりと、置かれていた。


塗られたのは、本人の名と、地名と、時刻、それから、ある特定の人の名だった。


ある特定の人の名というのは、本人の家族か、本人の知人らしき人の名だった。


そこも、塗られていた。


塗られたまま、本人の発話の側だけは、塗られない側で、ほぼ、そのまま、残されていた。


本人の発話の側を、塗らなかったというところに、塗った者の側のもう一つの誠実が、立っていた。


その誠実の上で私は本人の発話の方をゆっくりと読み始めた。


---


四回目の検査室の所見の冒頭にこう書かれていた。


「対象に手を開いていただくよう依頼する」


その一行は技術側の標準的な書式の一行だった。


書式の一行の下に、本人の、短い発話が、挟まれていた。


「今は開きたくありません」


その短い拒絶を本人ははっきりと口にした。


口にした発話の隣の欄に、技術側の所見がこう書かれていた。


「本日の協力可能範囲を再確認する。御無理を強いないよう、十分に配慮する」


協力可能範囲。


私はその言葉を、口の中で、確かめた。


協力を頭に置かれた語は、本人の拒否を、拒否として、扱わなかった。


拒否を、協力の範囲の調整として、扱った。


拒否という語は、その頁のどこにもなかった。


拒否は、拒否のまま、そこに残されなかった。


扱った側は、悪意を、持っていなかった。


悪意がなかったことの方が、その記録の中で、一番重く、立っていた。


---


五回目の検査室の所見の中で、技術側の言葉はこう続けた。


「観察の継続のため、本日も可能な範囲で手をお開きいただきたい」


その一行の隣に、本人の発話が、また、挟まれていた。


「観察というのは」


そこで記録の筆が、一度止まっていた。


「私の選択ですか、それとも施設の側の決まりですか」


「両方です」と、技術側が、答えていた。


「両方というのはどちらの側がより、強く、立つのですか」


「本人の御意思を最大限、尊重いたします」


「最大限の、上限の方はどこにありますか」


そこから先の、二行は、黒塗りだった。


二行の黒塗りの下で、本人の発話の続きと、技術側の応答の続きとは、塗られていた。


塗られたまま本人はその日、手を、開いた、と、所見は最後に書いていた。


所見の末尾には、「開手確認」とだけ、記されていた。


そこに、本人の沈黙は、記録されていなかった。


---


七回目の検査室の所見の最後の頁に、本人の発話だけが、ひとつ、塗られない側でこう残されていた。


「私の手は」


その問いの前に、書き取りの行がひとつ空いていた。


「私の、ものですか」


その問いを私は机の上で再び読み直した。


読み直した瞬間、目の前の温度の方が、私の中で沈んだ。


沈んだ温度の側で、私の声は一旦出てこなくなった。


その問いに対して、技術側が、どう応えたかは、その所見の中には、書かれていなかった。


書かれていない代わりに、その日の所見の最後の一行にこう書かれていた。


「協力的に検査を完了。引き続き、御本人の安全と御協力のために観察を継続する」


協力的に。


その言葉を私は舌の奥で、転がした。


---


私はその時、地下の広間の方角を思い出した。


魔女はその日、自分の手に向けて、「止める、だけだ」と置いた。


その「止める」の内側に、別の姿が確かに入っていた。


その形の方には、彼女は目を伏せた。


伏せた目の前に、今別の言葉が、机の上で、立っていた。


協力。


観察。


安全。


三つの言葉は、どれも丁寧だった。


丁寧なまま、拒否を調整に変え、選択肢を最大限という上限の中へ入れ、本人の位置だけを少しずつ本人から遠ざけていた。


三つの形の名を、技術側は、自分たちの口では、口にしていなかった。


口にしないままで、本人にはもうそれらの形がはっきりとした輪郭で見えていた。


その輪郭を本人はひとつの短い問いで、紙の上から私へ向けて差し出していた。


「私の手は、私のものですか」


その問いはもう検査室の側の所見の枠の中には、収まらなかった。


---


紙の束を、その日、机の上でしばらく閉じなかった。


閉じないまま私は目の前に並んでいた別の二つの縁を再び見た。


ひとつは、若い者の手紙の端だった。


もうひとつは、ある病室の窓の結露の端の白さの、私の記憶だった。


紙の束は、その日、目の前にもう一つの縁を立てた。


立てた縁の上に、本人の名は、塗られていた。


塗られていたまま、その者の手だけが、短い問いの中で、こちらへ差し出されていた。


その三つの縁が、目の前で、ひとつの三角の形を立てた。三角のひとつの辺に、若い者の側の、「運ぶ入口に立たない」が、立っていた。もうひとつの辺に、病室の毛布の中の握り込みの方角が、立っていた。最後の辺に、紙の束の中の、塗られた本人の問いが、立っていた。


三つの一辺は、互いを、仲間には、していなかった。仲間にしない代わりに、三つは、私の判断の手前で、三角の姿のまま薄く立ち上がっていた。


その三角の形の中に私はその時、自分の手の位置を、確かめた。


確かめた位置の上で私はひとつのことをもう避けられなくなった。


私は紙の束の中の本人を、救いに行く側には、立たない。


立てないということではない。


立たない。


そう決める必要があった。


立てば、私の手が再び本人の手の置き場の手前に、被さる。


被さった手の下で本人はまた、自分で、自分の輪郭を、立て直せなくなる。


立て直せる位置の方角を、本人に、残さなければ、ならなかった。


そのために私は今机から半歩、引いていた。


半歩、引いた位置のまま、私の中で、できることが、あった。


紙の束の中の、塗られた頁の下の本人が、まだ「私の手は、私のものですか」を口に出せる位置を、機関に戻すための、ひとつの言葉を書くことだった。


その言葉は紙の束の側に向けて、書くのではなかった。


紙の束の側から半歩引いた位置にいる、別の手たちに向けて、書く語だった。


---


紙の束を、その日、開いたままで置いた。


開いたままの頁の中に、塗られた黒の縁と、本人の問いの縁とが薄く向かい合っていた。


黒塗りの下にあった名は、最後まで読めなかった。


読めなかったのに、その手だけは、短い問いの中で、私の机の上に残っていた。


向かい合った縁の上で私は最後にその問いを、読み直した。


「私の手は、私のものですか」


その問いを、本人が口にした時、本人の手はもう本人の意思とは、他の方角で、開かされ、閉じられ始めていた。


その日、検査室の中で、本人の手は、最後に、開いた。


所見には、開いた、とだけあった。


けれど、本人にとってそれが開いたことだったのかは、どこにも書かれていなかった。


その手は握られていたのではない。


握る形を、教え込まれていた。


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