第22話 選択肢を返す
朝、私は窓を一度だけ開けた。外気は冷えていたが、皮膚の方はもう外気の温度を確かめる癖を、半ばで失っていた。窓を閉め、椅子へはすぐには戻らなかった。
廊下の自販機の前で私は一度、足を止めた。硬貨を入れる私の手元の隣で、清掃の方が、空のポリ袋の口を、強く握っていた。袋の角の擦れる音が、廊下の照明の音より、ほんの少しはっきりしていた。挨拶を交わすほどの近さではない。ただ、硬貨の落ちる音と、その袋の角の音とが、廊下の上で短く揃った。
紙コップの端の温度を、両方の手で受け取って、それから、椅子へ戻った。
机の上の公開資料は、昨夜のまま、開かれていた。
第十二頁の脚注の縁に、私の指先の影が、まだ薄く残っていた。
その脚注から、削られていた一行があった。
変わり方は、本人の罪では、ない
私はその一行を自分の手記の中で書いた者だった。
書いた者として、その一行が、削られた位置を再び見ていた。
削った者を、責める気には、なれなかった。
なれなかった代わりに、私の中で、別の問いが、ひとつ、立っていた。
その一行は本当に、運ぶための姿を持っていたか。
本人に、何かを返す形を用意していたか。
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昨夜の私は削られていたその一行を、まず惜しんだ。
惜しんだ気持ちを、今朝、私は目の前に並べて見直した。
その一行は本人に、罪を置かなかった。
それは確かに書きたかったことだった。
しかし、罪を置かないということと、選択肢を返すということとは、別の場所にあった。
別の場所にあるということを、昨夜までの私ははっきり掴めていなかった。
罪は置かれていなくても、手の置き場は、別の手の中に握られたままでありうる。
その可能性を私はもう退けられなかった。
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病室の白さが、目の前に薄く戻ってきた。
毛布の中に握り込まれた、両手。
結露の端の、内側へ引きずられた、二ミリの氷の線。
私のところへ、二度と、いらっしゃらないでください
私はその者に向けて、悪鬼ではありませんと、口にした。
その名は本人に向けられた負の名を、削るための言葉だった。
だが、削るかどうかを選ぶのも、本来は本人の仕事だった。
私は善意で、その者の手前に、自分の手を被せていた。
被せた手の下でその者は自分の輪郭を、自分の口で立て直す場所を失った。
その場所を失わせたことを私は今朝もう退けられなかった。
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ちょうど、その朝もう一通、机の上に、他の薄い封筒が、置かれていた。
差出人の名は、相変わらず、ここでは、書かない。
中身は、短かった。
「先生」
冒頭は、いつもの呼びかけだった。
「先生の限定の印刷物に心から、感謝いたします」
一行分の間を空けて、別の文が続いていた。
「ある機関の方々から、聞き取りのお申し出が私のところにも参りました」
「私は自分でお断りしました」
「お断りした後の、機関の方々の文面の中に先生の手記の、ある段落の言い回しがそのまま置かれておりました」
そこから少し行を空けてもう一行、続いていた。
「先生の手記は私が立て直すための足場を確かにひとつ、用意してくださいました」
「その同じ手記が私を別の手の方へ運ぶための入口にもなっておりました」
「運ばれる位置に私は立ちません」
「立たないと決めた者のための言葉を先生はまだ書いておられないように見えました」
「書いておられないことを責めるつもりはありません」
「その言葉の方を今先生から待っています」
その短い手紙を私は机の前で、二度読んだ。
二度目に読み終えた時、私の息が、また、ひと拍だけ浅くなった。
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その手紙の上に私は昨夜の公開資料の表紙を再び重ねた。
重ねた瞬間、二つの紙の端が、机の上で少し揃わなかった。
揃わなかった縁の方を私はしばらく見ていた。
公開資料の側の人たちを、その朝も再び悪意の者として、扱う気には、なれなかった。
外側で別の手が動き始めているということを、その人たちは、私よりずっと早く知っていた。
知っていたから、その人たちは、自分たちの側で、抑えようとした。
抑えようとする手つきの中に確かに本人と社会のための、ひとつの誠実が、混じっていた。
しかし、その誠実が、本人の選択肢の手前に自分の手を被せた瞬間、その誠実は、既に檻の縁の姿に変わっていた。
変わっていることを、その人たちは、おそらく、まだはっきりとは掴んでいなかった。
掴めていない場所へ私は今別の言葉を差し出せるかもしれない。
差し出せるとして、その言葉はその人たちの誠実を否定する言葉ではない。
否定する代わりに、本人の手の置き場を、その人たちの誠実の手前に再び立てる語だった。
そのような語を私はまだ自分の手記の中に、書いていなかった。
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私は書きかけのファイルを、開いた。
第一行は、今も、第一行のままだった。
私は南極の氷の下でひとりの女に出会った
その一行の下に私はこれまで、書き加える形を、まだ整えていなかった。
整っていないということだけが、その朝、書きかけの一行の下に残った。
認めた上で私は書式の枠の付かない、他の薄いファイルを、机の上にもう一枚、立てた。
立てたファイルの上に私はしばらく自分の手を、止めていた。
止まっていた手の中で、ひとつの姿が自分の口の中に立った。
本人の選択肢を、本人の手の中に、戻す
その一行が、最初に立った。
書いた言葉の下に、続けるべき文の輪郭は、まだ揃っていなかった。
揃っていない代わりに私は短い、追補の文を、揃えようとした。
論争の文ではなかった。
反論の文でも、なかった。
私の手記の中で削られたあの一行の、本当の続きとして、本人に戻されるべき形だけを書くつもりだった。
揃えようとした最初の数行は、画面の上に、おおむねこう並んだ。
私は私の手記の中の、ある一行をこう書いた
変わり方は、本人の罪では、ない
この一行は、本人に、罪を、置かないための、ひとつの姿だった
しかし、この一行だけでは、手の置き場までは、本人に戻らない
罪を置かないということと、選択肢を、本人の手の中に戻すということとは、別の場所にある
私は私の手記の中にもう一行を、書き加えなければ、ならない
変わり方は、本人の罪では、ない。だから、置く名も、置く場所も、置く語も、すべて、ご本人で、お選びください
そこまで、書いた。
書いた行の中で、最後の一文だけ、私はしばらく画面の上で、止めて、見ていた。
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最後の一文の中の、お選びくださいという言葉を私は何度も読み返した。
読み返しているうちに、自分の手が、画面の縁からわずかに退いていることに気づいた。
退かなければ、その言葉は嘘になった。画面の縁に手が被さったままでは、「お選びください」は命令になる。
私は画面の縁から半歩引いた。
その位置で私はひとつのことから目を逸らせなくなった。
私が返そうとしていたのは、真実ではなかった。
真実は、別の手の中にも、既に半分、握られていた。
別の手の中にあるとしても、その言葉そのものを、こちらの手だけに、取り戻す術は、私には、なかった。
戻したかったのは、別のものだった。
本人の手の置き場だった。
半歩引いた私の手元に、本人の手がもう一度戻れるだけの、ごく狭い空間が立った。
そのごく狭い空間の形を私はしばらく見ていた。
私はその追補の文を、まだ誰にも送らなかった。
送らないまま、宛先の欄だけを開いた。
空白の欄は、私が書いたどの文よりも、今本人の選択肢に近かった。
見ていた縁の上に、若い者の手紙の端と、公開資料の表紙の端と、書きかけのファイルの縁とが、今わずかにずれた角度で、揃いかけていた。
揃いかけた縁の方角に向けて、私はひとつの言葉を口の中で言った。
「戻す」
その言葉の中にもう命令の角度は混じっていなかった。
混じっていない代わりに、本人の手の置き場の方角だけが薄く立っていた。
その立ち方の中で私はその朝、自分の手元を見ていた。
私が返そうとしていたのは、真実ではなく、手の置き場だった。




