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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第21話 保護という檻

朝、研究所の郵便受けの前で私はしばらく動かなかった。封筒の差出人の欄を読まずに一旦上着の内側へ収めた。机に戻る道のりは、普段より長く感じた。


ある国の制度の側と、それと連携する研究の合議体が、共同の名で発表した薄い公開資料が、その日、私の机の上に届いていた。


表紙には、ひとつの言葉が、大きく、置かれていた。


保護。


その下にもう一行、別の言葉が、添えられていた。


ある種の、まれな先天的体質を有する者に対する、保護と、研究協力に関する、暫定的枠組みについて。


私はその一行を、口の中で再び読み直した。


ある種の、まれな、先天的体質。


三つの言葉が、それぞれ、他の方角に揺れた。


揺れたまま私は表紙を、開いた。


---


中身は、二十頁に満たなかった。


保護施設。


保護対象。


保護下にある協力者。


保護期間。


同じ言葉が、頁ごとに働きを変えていた。


外の刺激を調整する。


外界との接触を調整する。


本人が御しきれるまで、ご滞在を継続いただく。


別の欄にはこう書かれていた。


本人の安定が確認されるまで、外部接触は段階的に調整されるものとする


調整。


その言葉の中に、会えないというありさまが、最初から入っていた。


ご滞在、と、書かれていた。


御しきれる、と、書かれていた。


どの言葉にも、鍵という字はなかった。それなのに、頁をめくるたび、扉の閉まる位置だけが、増えていった。


表紙の右上には、暫定版を示す小さな番号が振られていた。誰が責任者なのかは、最後の頁まで読んでも分からなかった。


---


「研究協力」という言葉は、第五頁から、頻度を増やした。


保護下にある協力者、と表記された者は、本資料公開の時点で、合計、七名、と記されていた。


年齢、性別、地域、職歴は、項目名を伏せた表に置かれていた。


匿名化と書かれていた。


しかし、現在地、外出の頻度、外部との連絡手段は、どこにもなかった。


ないことが、本人たちのプライバシーの保護として処理されていた。


---


その夜、私は他の経路から、いくつかの断片を集めた。


二つは、報道の側の、小さな記事だった。


ひとつは、保護施設の所在地らしき方角の、地元紙の、短い続報だった。


別のひとつは、別の都市の、ある事件の付随報道で、保護下にあった協力者の一人が、最終的に、本人の選択でない理由で、施設の側を離れた、と触れていた。


本人の選択でない理由という一節の前に、その記事は、それ以上、書いていなかった。


その一節だけが、記事の中で、他のどの言葉よりも不自然に軽かった。


三つめは、紙ではない。


ある古い読み手の方が、口頭の伝聞として、私に預けてくださったものだった。


ある分野の若い者が、ある現象を、職場で、一度、起こした。


その者はすぐに、ある機関の人と話し合う場所へ、移された。


移された後、その者の元の職場の同僚は、本人としばらく連絡が取れなくなった。


連絡が取れないということを、職場は、ご本人の意向として、受け取った。


そう受け取った職場の若い者たちは、今も、その受け取り方を、疑っていない。


疑わないということが、現代の小さな部屋で、刻まれた板の脇にもう一度細い線を加えていた。


---


公開資料の第十二頁の脚注に私は自分の手記の中の、ある段落に近い言い回しを見つけた。


引用ではない。


引用の形を、その脚注は、避けていた。


避けた代わりに、私が地下で受け取った説明の中心だけが、別の言葉に置き換えられていた。


人類の側の、一番最初の手の形から分かれた、別の手。


その内側に薄く残されている冷気が、まれに、何代も後の者の中でもう一度立ち上がること。


私が、地下から運んだ説明の、最後の一行を私は自分の手記の中でこう書いた。


変わり方は、本人の罪では、ない


この一行を、公開資料の脚注は、書いていなかった。


最後の一行を、その脚注は、ごく丁寧に、削っていた。


削った代わりに、その脚注は、別の一行を足していた。


適切な、管理下の、観察と、協力を、本人と社会のために、推奨する


本人と社会のために、と、その脚注は、書いていた。


そこに、本人の選択肢という言葉は、ひとつも、書かれていなかった。


---


私はその脚注の前で、薄い綴じの印刷物をしばらく見ていた。


机の上の、帳面、薄い紙、氷の粉、岸辺の小石、弟の書きかけの紙片。


これらは、ある夜、運ぶための形として、机上に並べたものだった。


その並びはもう運ぶための形だけではない。


別の手が握る対象へ、知らないうちに半分ずり出していた。


私の息が、ひと拍だけ、浅くなった。


塞がった喉で私は地下の広間の方角を、思い出した。


魔女はその日、自分の手に向けてこう置いた。


「止める、だけだ」

「殺すではない」

「止める、だけだ」


止めるという言葉の内側に、殺すというありさまが入っていた。


今、保護という言葉の内側にも、別の形が入っていた。


その名を彼らは口にしていなかった。


けれど本人にはもう見えていた。


檻、だった。


---


私はその夜、その者たちを、悪意の者として、扱う気には、なれなかった。


公開資料の言葉の中には、人類を守るという意図も確かに混じっていた。


外側の世界には、既に本資料が触れているような体質を利用しようとする手が動き始めていた。


実際に、ある民間企業が、冷却現象の再現実験を本人の同意なしに試みた形跡もあった。公開資料の機関は、その手の方を、抑えようとしていた。


公開資料の外側では、既に別の名が動いていた。ある記事は彼らを「冷気体質者」と呼んでいた。


抑えようとする手つきの中に、本人と社会のためという重さも確かにあった。


その重さを私は否定しないと決めた。


否定しないこと、と、引き受けることとは、まだ別の場所にあった。


その場所に置いたままで私は再び自分の印刷物の表紙の方を見た。


表紙の上の、書きかけの一行は、まだ第一行のままだった。


私は南極の氷の下でひとりの女に出会った


その一行はその夜もう机の上の私の側だけのものではなかった。


既に、別の手の中に、半分、握られていた。


握られた半分の方を私は今取り戻す術を、持っていなかった。


---


夜遅く、机の前で私はひとつのことを避けられなくなった。


地下の広間で、私が、魔女に向けて、置いた一言があった。


「あなたが私を落とした意味を無意味にはしません」


その一言の中で私は伝えるという形だけを用意していた。


伝えるという形だけでは、足りない。


足りないという言葉だけが、その夜、口の中に残った。


伝えただけの真実は、伝わった先の手の中で、別の形に、握り直される。


握り直された先で、本人の選択肢はもう本人の手の中には戻らない。


戻さなければならなかった。


戻すという姿を私はまだ、ひとつの言葉として用意していなかった。


真実は、外へ流れ始めていた。


しかし、届いた先でもう別の手に、握られていた。


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