第19話 信じる者
# 第19話 信じる者
手紙は研究室の机の上に、一通だけ置かれていた。差出人の欄には、見覚えのない名が書かれていた。裏側に所属の表記はなかった。
その名は伏せる。私の用心からではない。その者の用心の方を、後で私がまだ守る側に立ちたかったというだけのことだった。
手紙は短かった。
「先生のある一行について、お伺いしたいことがございます」
一行分の間を空けてもう一文が続いていた。
「先生の、『私は南極の氷の下でひとりの女に出会った』という、あの一行です」
その一行を含む薄い印刷物は、五部しか作っていなかった。
三部はまだ私の机にあり、二部だけを、古い読み手に渡していた。
差出人の名は、そのどちらにも属していなかった。
二部のどちらかから、薄い経路で、その一行だけが、別の手に渡ったのだと思われた。
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会う場所は、相手の希望で、機関の外の、小さな閲覧室にした。
私の研究室ではなかった。
ただ、人の出入りの多い場所でも、なかった。
古い大学の図書館の、隅の閲覧室だった。
その室には午後の早い時刻、ほとんど誰もいなかった。
私は約束の時刻より、十分ほど、早く着いていた。
着いた時、その者はもうそこにいた。
私が椅子を引く音に気づくとその者は一度だけ息を止めた。
止めた息を吐ききる前に、上着の内側へ指を当てた。
そこに何かの小さな硬さを確かめる癖があるように見えた。
若い、と、まず思った。
学部生か、せいぜい修士の途中という年齢の若さだった。
服装は、目立つ色を、一つも使っていなかった。長く洗われた布の質感だけが、襟元から薄く立っていた。
机の上には、薄い綴じの私の印刷物が、一冊、置かれていた。
私の印刷物の上に、その者の右手が、軽く、乗っていた。
手は、関節の輪郭が皮膚の表面から薄く立つほど細かった。爪の縁は短く切り揃えられていた。
視線は、私の顔の輪郭を一度だけ確かめた後、机の少し手前で止まる癖があった。長く本を読み続けてきた者の、視線の置き場の癖だった。
ふつうの手だったということに私は自分でも引っかかった。
私はその時、自分が、その手に、何を期待していたのかを、まだはっきりと名づけられなかった。
名づけられないまま私は向かいの椅子に、座った。
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「先生」
声は高くはなく、低くもなかった。本に慣れた者の、息の置き場の浅さだけが、その短い呼び方の中に薄く乗っていた。その呼び方で私は弟の声を思い出した。弟は私を、兄と呼んだ。今、目の前の呼び方は、その弟の呼び方の延長に重なってしまった。
置かれた位置を、その瞬間、自分で別の位置へずらしたかった。ずらせなかった。ずらせないまま私は自分の右の指先を、机の下で、内側へ折った。折ったことに、相手はたぶん気づいていなかった。
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「あの一行を」
その者は机の上の私の印刷物の方を、見ずに、言った。
「私は長く、自分の、おかしさとして扱っていました」
「先生のあの一行を読んで初めてそれをおかしさではない形で見直せました」
見直す。
その言葉の手触りを私は自分の中で改めて測った。
長机の端で、私の言葉に別の名が与えられた時とは、同じ手つきではない。
その者の中では、同じような手つきが、他の方角に、動いていた。
「見直せたというのは」
私は口を開いた。
「どんな、おかしさ、ですか」
その者はまた一度だけ息を止め、自分の右手を、机の上の印刷物の端から、軽く、上げた。
上げた手は、自分の前で、低く開かれた。
開かれた手のひらにその者は上着の内側から取り出した、小さな薬の瓶の蓋を、ひとつ、置いた。
置いた後、その者は蓋の角を、机の木目と平行になるまで少し動かした。
動かし終えると、指先だけを膝の上へ戻した。
その蓋は金属の縁を持っていた。
縁の上に、細い水滴が、ひとつ、乗っていた。
水滴は、その者の体温で、温まっていなかった。
温まっていないということを、その水滴の端の形ではっきりと見た。
冷えたというほど、冷えてもいなかった。
その者の手のひらで、その水滴の端が、その者の指の動きとは、別の方向に、細く揺れていた。
揺れの幅は、私の指先の、二ミリの線の幅と、ほとんど同じだった。
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「私は」
低くその者は言った。
「自分がおかしいのではなく」
「何かを思い出しているのかもしれません」
その言葉をその者は自分の手のひらの水滴の方を見ながら、置いた。その言葉の中に、力みは、なかった。力みがなかったことの方が、私の中で、力みを、引き出した。
私の喉の奥が少し揺らいだ。揺らいだ喉で私は頷くつもりだった。頷きの形を、自分で、用意した瞬間、その形の中に、他の動きが、混ざった。
私はその者の手のひらの水滴に向けて、自分の右手を、伸ばしかけた。伸ばしかけた手は、机の手前で、止まった。その指先の影が薄く、相手の薬の瓶の蓋の縁の上に、乗った。影の上で、水滴はもう揺れなかった。揺れない代わりに、私の指先の方が少し震え始めていた。
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私はその瞬間、自分で、ある思いをはっきりと抑え込んだ。
希望というほど、明るい形ではなかった。
これで、ひとり、私の方へ来たというありさまだった。
来たと認めた瞬間、私は再び自分の喉の奥で、他の声を聞いた。
「兄さんにも、届くと、思ってる」
その一言だった。
聞いた瞬間、私は目の前の手のひらの水滴の方をはっきりとは、見なくなった。
見ないまま私は自分の机上の、書きかけのファイルの第一行の方を、自分で再びたどった。
「私は南極の氷の下でひとりの女に出会った」
その一行はまだ誰かに届かせるための形を、私の中で、用意していなかった。
しかし、既に目の前の者の手のひらに、異なる白さで、届きかけていた。
届きかけていたという事実そのものが、今私を、一番、揺らしていた。
揺れの中で私は自分の手を一旦机の下へ、引いた。
引いた手の中で、机の下で、私の手が止まった。
何かを置きかけていることだけは、分かった。
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「私は」
口を開いた。
「あなたを信じる者として、迎えたいと思っています」
その言葉を私はその者の手ではなく、相手の顔を見ながら、言った。
「けれど」
「今、その姿を自分で受け取ろうとすると」
「私はその形の中に別の人の影を置いてしまいそうになります」
その者は自分の右手の上の薬の瓶の蓋を静かに机の上に、戻した。
戻した縁の水滴はもう揺れていなかった。
揺れていない代わりにその者は低くこう言った。
「先生」
「私は先生の弟さんの代わりに来たのではありません」
その一言をその者は力まずに、言った。
その言葉の中に、優しさは、なかった。
なかった代わりに、その者の、自分で立て直した輪郭が確かに立っていた。
「先生が私を誰かの代わりに置かれることはお断りいたします」
その一言の後、その者はわずかに笑った。
笑った口は、礼儀のための笑いではなかった。
自分で、自分の輪郭を、立て直した者の、薄い笑いだった。
その笑いの上で私は初めて自分の手を、机の下から、机の上へ、戻した。
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戻した手の上に私はもう相手の手を、重ねようとは、しなかった。
代わりに、薬の瓶の蓋の縁の水滴の方をしばらく見ていた。
水滴の端の白さは、今既に室温の側に、なじみ始めていた。
冷えたままではなかった。
その者の手の中の温度は、今『未確認』と名づけられた、私の机の上の物たちとは、別の方向に、動いていた。
その動きを私はしばらく見ていた。
見ているうちに、私の中で、ひとつの姿がはっきりとした輪郭を、持ち始めた。
その者はまだ若かった。
若いというのは、年齢のことだけではない。
その手には、まだ誰かに分類されきっていない硬さがあった。
私は信じる者を得たのではない。
その手を、見落とさずに済んだだけだ。
信じた者の手は、私が思っていたよりも、ずっと、若かった。




