第18話 未確認の記録
〔編集者注:この日の機関の公的記録には、当該隊員の単独の研究発表は記載されていない〕
その朝、私は通勤の電車を一本見送った。窓の外の街路樹はもう色を失っていて、駅前のベンチに座っていた男が、コートの袖口を引きながら、誰かに電話の声を返していた。声の中身は聞き取れなかった。ただ、その男の声には、こちらへ向かって何かを譲ろうとする時の角度があった。私はその角度を、自分の中でしばらく預かったまま、改札を抜けた。改札を抜けた瞬間、地下から戻って以来、私の指先が周囲より一段低い温度を保つようになっていた。そのことに、自分でも再び気づいた。
研究所の長い廊下を抜け、会議室の前に立った時、ドアの取っ手の温度が、廊下の空気とは違っていた。
会議室は、暖房が、ほどよく効いていた。
長机の中央に私は自分の物を、いくつか、並べていた。
帳面のうちの、公開を許される範囲の写しが、薄い紙で、複写されたもの。
壁画の線を、私が写し取った紙が、数枚。
地下から持ち帰った氷の粉を、他の小さな器に集めたものが、ひとつ。
岸辺の亀裂の端の、石片が、ひとつ。
その横に、私自身の手書きの、地下構造の見取り図が、一枚。
見取り図は、機関の正式の書式に、沿わせて書いた。
書式の枠に収めるために私は地下で受け取った言葉のうちの、一番重い側を一旦書式の外へ置いた。
置かなければ、枠に、収まらなかった。
枠の中に収まった発表用の原稿は、その朝、十六分の長さに、整えられていた。
短いほど、誠実な発表に見える。その程度の作法は、私もよく知っていた。
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長机の上座には、機関の上席の研究員が、二人、並んでいた。
その左右に、他の機関から招かれた、二人の評者が、座っていた。
末席に、若い研究員と、書記が、それぞれ、ノートと、記録用の機器を、置いていた。
合計、七人だった。
七人とも、私に対して、礼儀正しかった。
話し始める前に彼らは一度、立ち上がり、私の帰還の労を、ねぎらった。
ねぎらいの言葉は、丁寧で、抑制が、利いていた。
利いた言葉の中に、医師の手と同じ角度が、混じっていた。
皮膚の方には届くが、皮膚より深い場所には入らない、職業の角度だった。
私はねぎらいに、頭を下げた。
下げた頭は、相手の顔の方ではなく、長机の端の、見取り図の端を見ていた。
縁の上に、私の指先の影が薄く乗っていた。
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発表は、十六分で、終えた。
書式に沿って、所定の項目を、所定の順に、並べた。
並べ終わった瞬間、私は自分の発表が、地下で受け取った言葉のうち、一番軽い側だけで、整っていることに、気づいた。
気づいたが、訂正する場所はもうその場には、用意されていなかった。
最初に口を開いたのは、上席のひとりだった。
落ち着いた声でこう言った。
声の柔らかさより先に、結論の置き場所だけがもう決まっている声だった。
「興味深い、ご報告でした」
「いくつか、論点として、未確認、と整理せざるを得ない部分がございます」
未確認。
その言葉が、口の中で、別の温度を持って響いた。
「壁画の写しは貴重ですが原本との照合の機会が現時点ではありません」
「原本が現地にあるというご報告である限り、我々はこれを未確認の写しとして扱うほかありません」
小さく頷いた。論点として、彼の言うことは、間違っていなかった。間違っていないということが、まず、私を、息苦しくさせた。
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他の評者が、続けた。
外部の機関から来た、五十代の女性だった。
彼女は資料よりも容器を、体験よりも手順を、先に見る顔をしていた。
「氷の粉と石片の方は」
「採取の過程で現地の通常の物質との、汚染の可能性を否定できません」
汚染の可能性。
「容器もご自身の素手で何度か、触れておられます。我々はこれらの試料を汚染された可能性のある試料として、ひとまず、保留させていただきます」
その言葉は敵意を持っていなかった。
侮蔑も、していなかった。
私の手の中で確かに地下から運んだあの粉が、その言葉の中で一旦別の物に、置き換えられた。
置き換えられた瞬間、その粉の上に、井戸端の老女の白い息の輪郭が薄く乗ったような気がした。
気がしたというだけで、終わった。
それを誰かへ伝える術が、その場には、用意されていなかった。
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上席のもうひとりが、その時だけ、資料から顔を上げた。
「現地で最後に温かいものを召し上がったのはいつですか」
その問いは壁画とも、試料とも、見取り図とも、直接には関係しなかった。
私は一瞬、答え方を失った。
温かいもの。
その言葉だけが、地下の広間の温度からひどく遠かった。
「落下の前です」
そう答えると、上席は小さく頷き、手元の紙の端に何かを書き込んだ。
質問はそれだけで終わった。
終わった後も、その小さな脱線の方が、部屋の中でかえって生々しく残った。
「まあ、遭難直後ですから」
末席で、誰かがそう低く言った。その一言だけは、誰も記録しなかった。
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地下構造の見取り図の方には、若い研究員が慎重に所見を述べた。
彼は、私を見るたびに、一度だけ視線を下げた。
敬意と指摘を、同じ声に乗せきれない顔だった。
「見取り図にご記入のない、構造区画がいくつか、ございます」
「特に王家の広間と先生がお呼びになっている区画とその奥の、初代王の封印の図と書かれた室の、座標と寸法と入退室の方位の記録が欠落しております」
私はそれらを、記入しなかった。
記入できなかった。
書式の枠へ入れようとした瞬間、その区画の温度が、書式の数字の中から、抜け落ちた。
抜け落ちた温度を、書式の上で再び立ち上げる手は、私には、用意されていなかった。
若い研究員の所見は、続いた。
「我々はこちらを記録の欠落として整理させていただきます」
記録の欠落。その言葉を私は自分の中でなぞった。
未記入ではない。記入しようとして、できなかった、でも、なかった。書式の側から見て、欠落しているというありさまだった。
その形は私からは、見えなかった場所だった。見えなかった場所を彼らは丁寧に、見つけた。見つけたまま、その場所を、未記入の欄として、整理した。
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最後にもう一人の評者が、低く口を開いた。
年配の男性のものだった。
機関の外の、長く現場を経験した者の声だった。
「申し上げにくいのですが」
そう前置きをした。
その前置きの位置で私は息を止めた。
「あの深さから、ほぼ無傷で戻られたということは極めて稀な事例として、我々も認識しております」
「とはいえ、稀な事例には稀な事例なりの、生理的な反応が伴います」
「低酸素、低体温、長時間の孤独、視覚と聴覚の単調。それらの組合せの中で現場の方が後にはっきりと現実として扱いきれない断片をお持ち帰りになることがしばしば、ございます」
「我々はこれを遭難時の錯覚と呼んでおります」
錯覚。
その言葉を、口の中で、飲み込めずにいた。
錯覚と呼ばれた瞬間、地下の女だけではなく、弟の戸口の声まで同じ箱に入れられた気がした。
その評者は、私を、悪意で、見ていなかった。
見ていないどころか、職業上の一番丁寧な角度で、私の方角に向き合っていた。
私の報告を潰そうとしているのではたぶんなかった。
私に残る傷を、扱える名前の方へ逃がそうとしている顔だった。
向き合いながら、彼は、私が地下で受け取ったものを、錯覚という名へ移した。
その手つきを確かにどこかで、見たことがあった。
地下の小さな部屋で、板の脇に、細い線を加えた者たちの手つきだった。
その者たちもまた、悪意を持っていなかった。
「分かりやすくしただけだ」
そう言った者たちと、今私の前で、議事録のための言葉を丁寧に並べる評者と、同じ手の動きが、長机の端で、初めて重なった。
重なった瞬間、私の喉の奥が、また、塞がった。
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私は何も、言い返さなかった。
言い返す言葉は、あった。
しかし、その言葉を口にすれば、私は再び地下の彼女の手つきの方を、別の場所で、繰り返してしまう気がした。
止めるという姿を私はもう自分の口からは、出したくなかった。
出さないまま、私の右の指先は、長机の端の、見取り図の端の上でしばらく止まっていた。
その指先の上に、細い水滴が、ひとつ、乗っていた。
地下から戻った後、私の指先は、ときおり、周囲より一段低い温度を、自分でも気づかぬまま、保つことがあった。会議室の暖房と、その指先の差が、たまたま作った水滴だった。
その縁が、ある瞬間薄く白く立った。
二ミリほどの線だった。
私はその線をしばらく自分の手元で見ていた。
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書記が、顔を上げた。
長机に置かれたままの肘が少し表面を擦った。長く同じ姿勢で書き続けてきた者の、一番楽な置き方だった。
書記の机の上の機器が少し音を変えていた。
書記は、機器の表示を確かめ、上席の方を見た。
上席のひとりが、低く訊いた。
「室温に変動がございましたか」
書記は、ノートに書き込みをして、答えた。
「ええ。ごく軽微です。〇・三度ほど、下がっております」
「換気の関係でしょうか」
「換気記録上は操作はございません」
「では機器の側の、誤差の範囲ですね」
「誤差の範囲、です」
その短いやり取りを私は自分の指先の上の、二ミリの線を見ながら、聞いていた。
二ミリの線は、その間、消えていなかった。
消えないまま、書記のノートには、「室温変動〇・三度」とだけ、書き留められた。
私の指先の上の二ミリの線の方は、書記のノートの、どの行にも、書き留められなかった。
書き留められなかった代わりに、その線の白さの方が、今長机の上で、一番はっきりとした輪郭で、立っていた。
立っていた輪郭を、誰の方角にも、指さなかった。
指せば、それも、室温の側に、整理し直される気がした。
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研究会は、所定の時刻に、所定の手続きで、終わった。
最後に、上席のひとりが丁寧に、私の労をねぎらった。
ねぎらった上で、議事録上の名称を確認した。
壁画の写しは、未確認の写し。
氷の粉と石片は、汚染の可能性のある試料。
地下構造の見取り図は、記録の欠落を含む見取り図。
私が報告した体験そのものは、遭難時の付随事象。
それぞれの名称を私は議事録の欄で、目で追った。
追ったどの名称も、私が、長机の前で発した言葉の、元の形を、していなかった。
しかし、どの名称も、私の言葉を、否定しては、いなかった。
否定するではない。
別の名を、与えていた。
その日、私の言葉は、否定されたのではない。
別の名を、与えられた。
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会議室を出た時、私は長机の上の物を、ひとつずつ、自分の鞄の方へ、戻した。
戻した物のうち、氷の粉と、石片だけは、機関の試料庫の方へ、預ける手続きが、必要だった。
手続きの紙を渡された時、私は紙の端を確かめた。
紙は薄く、軽く、暖かい部屋の空気の中で、白かった。
その白さは書記のノートのページの白さと、ほとんど同じ白さだった。
廊下は、来た時より、長く感じられた。試料庫の前で、係の者にいくつかの欄に署名をし、二つの容器を渡した。受け取った手はすぐに別の棚へ向かい、私の手はしばらく空のままで残った。研究室への戻り道、すれ違った同僚は、私の顔を一度見たが、立ち止まらなかった。「奇跡的な帰還」という言葉が、廊下の空気のどこかで、誰かの口の手前まで来ていたのが、伝わった。
机に戻った夜、私は自分の指先の上の、二ミリの線の方を、見た。
線はもうそこには、なかった。
なかった代わりに、その線の白さの方は、今度は、机の上の弟の紙片の端の上に薄く移っていた。
紙片の端の白さは、暖房の効いた部屋の中で、まだ冷えたままだった。
机の上の他の物はもう室温の方に、なじみ始めていた。
しかし、紙片の端と、議事録の名称が与えられた物たちだけは、その夜、私の机の上で、室温の側へ、戻っていかなかった。
彼らが未確認と呼んだものだけが、私の机の上で、まだ冷えていた。




