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南極の氷が解けるとき、魔法は名前を失った  作者: つのん。
第二章 融けはじめた名前

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第17話 戻った机

机の上は、出かける前とほとんど同じだった。


違っていたのは、その前に座った私の目の方だった。


観測隊の本部から研究所までは、二度の乗り換えと、一晩の宿泊を挟んだ。空港から職場までの送迎車の窓越しに、街路樹はもう色を落とし始めていた。日付の上で言えば晩秋だったが、現地から戻ったばかりの皮膚にはむしろ穏やかすぎる気温だった。


研究室は、私が出る前と、同じ状態のままだった。机の上のフィールドノートも、書きかけのまま、同じ頁で止まっていた。誰も触っていなかった。誰かが触る理由がなかった。


部屋は十分に暖かかった。


息も、白くならなかった。


それなのに、私の喉の奥だけは、まだ戻っていなかった。


温度ではなく、外れて戻らないものの冷えだった。


---


机の上に私は持ち帰った物を、並べた。


帳面、線で写した壁画の薄い紙、氷の粉を入れた小さな器、岸辺の亀裂の端の石。


そして、弟が、出かける前の夜、机の上に残していった、書きかけの紙片。


書きかけの内容は、いつか共著で書こうと話していた、ある文章の冒頭だった。私が古気候の数値を整え、弟が現場の所見を入れる。半分まで書いた段階で弟はそれを置いて、火山の方へ向かった。残された文字は、彼の所見の途中で止まっていた。中央付近に、現場の風の向きについての短い覚書があり、最後の一文の語尾は、句点の手前で擦り消されていた。


紙片だけは、出発前から、ずっと、その端に、置かれたままだった。南極から戻ったということは、ここから動かなかった紙片の方が、私の方角を待っていたということでもあった。


私は紙片を一旦横へよけた。他の物の脇に並べると、それだけが異なる重さで沈んだ。その重さを私はまだ引き受けきれなかった。


---


午前のうちに、施設の医師が、私の身体の方を、繰り返し確かめた。


所見の冒頭欄には、普段と同じく、男性、四十前後と短く記されていた。


低体温の兆候。


凍傷の有無。


脱水。


睡眠不足の徴。


確かめる手は、職業の手だった。


丁寧で、迷いがなく、必要な場所だけを、必要な時間だけ、触れた。


触れた場所は、いつも皮膚の方だけだ。


皮膚より深い場所には、誰の手も、入ってこなかった。


「奇跡的な帰還です」


若い研究員が、後で言った。ノートを開き、聞き取りの準備をしていた。その顔は、明るく、礼儀正しく、好奇心を、隠しきれていなかった。


「あの深さから、ほぼ無傷で戻られた例はこれまでありません」


私は応える前に間を置いた。応えるべき言葉が、私の口の中に、揃っていなかった。彼の言う「奇跡」と、地下で私が受け取ったものとは、同じ言葉では、結べなかった。奇跡と呼ぶには、私は選ばれて落ちていた。無傷と呼ぶには、私の喉の奥が、まだ戻っていなかった。


代わりに私は小さく頷いた。研究員は、その小ささを、疲労として、受け取った。


---


夜、私は報告書の書式を、画面に開いた。


機関の決めた書式は、項目が、並んでいた。


発見日時。


発見場所の座標。


地質的状況。


構造物の規模と分類。


試料の採取状況。


帰還経路と所要時間。


ひとつずつ、私の手は、項目を埋めようとした。


埋まらなかった。


発見日時の欄に、カーソルを置いたまましばらく動かさなかった。


書ける数字は、あった。


しかし、その数字の中に、岸辺の亀裂で開かれた手のひらの温度は、入らなかった。


座標の欄へ移った。


緯度と経度を私は地図上で確かに覚えていた。


覚えている数字を、入力した。


入力した瞬間、その数字の隙間に、井戸端の老女の白い息の輪郭が薄く乗った。


乗った輪郭は、数字の間で、ほどけなかった。


ほどけない輪郭の方が、数字よりも、机の上でははっきりとした重さを持っていた。


私は入力したばかりの座標を、消した。


消したまましばらく画面の白さを、見ていた。


画面の白さは、地下の柱の白さとは、似ていなかった。


似ていないと私は認めた。


認めた瞬間、画面の白さの方が、私の中で、異なる意味を持ち始めた。


この白さには、座標だけが入った。


温度も、書記の机の半端な一文字も、止められた生活の白さも、入らなかった。


私は報告書の書式を一旦閉じた。


閉じた指先が、自分でも震えていた。震えは、低体温の徴ではない。医師の手ではたぶん触れられない場所の震えだった。


---


手元に置いた紙片の方へ、目を戻した。


弟の書きかけは、半端な角度で、止まっていた。


紙片の半端な文字を見た瞬間、戸口の手前の弟の声が戻った。


「兄さんにも、届くと、思ってる」


私はその夜、応えなかった。


代わりに、その夜の前半に置いた言葉だけが、手元で戻った。


その夜の前半、弟は火砕流の予兆を、自分の身体で見届けるつもりだと言った。


私はそれは現場の研究者がやることだ、お前は数値を読む側で足りるはずだと返した。


弟は数値だけ読んでいれば、現場に立つ意味がないと返した。


私は最後にこう言った。


「届かない、言葉に」


「命を賭けるな」


その二つの言葉だけが、紙片の端で、まだ互いに向かい合っていた。


向かい合ったまま、どちらも消えなかった。


消えないものの上で私はもう一度思った。


届かないと決めたのは、いつも私だったのかもしれない、と。


南極の広間の入口で立ちかけたその思いは、机の前ではっきりとした輪郭を持った。


輪郭は、まだひとつの言葉には、なっていなかった。


しかし、輪郭の方はもう消えなかった。


---


私は報告書の書式を再び開かなかった。


開かないまま、別の白紙の、書式のないファイルを、画面の上に立てた。


書式のないファイルの上に、私の手はしばらく止まっていた。


止まったまま私はひとつの言葉を選んだ。


運ぶ。


最初に出てきたのは、その言葉だった。


そこに続けるべき次の言葉は、まだ揃っていなかった。


揃っていない代わりに、別の言葉が、自然に、出てきた。


私はその言葉を、画面の上に、置いた。


「私は南極の氷の下でひとりの女に出会った」


それだけだ。


その先の言葉を、その夜、書ききらなかった。


書ききらなかったその一行は機関のどの書式にも、属していなかった。


それでも止められた生活の白さの方を、その一行は確かに引き受けようとしていた。


引き受けるということを私はまだ誇らなかった。


誇ることはせず、その一行をしばらく見つめた。


見つめたまま、紙片の半端な角度の文字の上に、目を戻した。


紙片の文字の上に、私の指先の影が薄く乗っていた。


乗ったまま、止まっていた。


止まった影の中で私は自分の喉の奥の冷えが少しだけ別の方向へ動いたことに気づいた。


気づいたが、その動きを、温まったとは、私はまだ呼ばなかった。


呼べる場所は、ここではない。


別の場所だった。


別の場所は、まだこの机の上の、書きかけの一行の先にあった。


---


机の上の、帳面、薄い紙、氷の粉、小石、紙片。


それらはもう地下の広間の物ではなく、机上に並べられた、運ぶための形だった。


それなのに、机の前に座った私の方はもう同じ場所には、いなかった。


私はその夜、機関のどの書式にも、提出できない報告を、書き始めていた。


机は、戻ってきたのに、戻った私の方がもう同じ場所には、いなかった。


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