第13話 白い大陸
その朝、戦場の光は、いつもの戦場の光とは違っていた。雲が薄く伸びていた。その雲の下で、空気が重くなっていた。
重くなった空気の中で、両側の陣の声が、ほぼ同じ高さで揺れていた。揺れていたのは、敵を呼ぶ声と違っていた。次の合図を待つ、息の方だった。
妹は、そこにはいなかった。
妹がいたのは、王家の広間のもっとも奥の一室だった。
奥の一室の床の中央に、初代王の封印の図がある。図は線でできていた。線は外から内へ巻き、内側で一度止まり、止まった場所で名のひとつをかすかに残しているように見えた。残されていたかどうかは、その室にいる者以外には分からなかった。
妹はその線の中心に立つ。立った時、片方の手がほぼ無意識に内側へ折れた。岸辺の亀裂で折れたあの折れ方とも、広間で兄たちの間に立った時の折れ方とも違っていた。もう一段深い折れ方だった。指の関節の奥の方まで一度しまわれて、戻らない折れ方だった。
折れた手の内側に、外気がわずかに集まり始めた。外気はまだ「冷たい」と呼べる温度には届いていなかった。その室の音の輪郭だけが少し硬くなった。
妹はその硬さに驚いたが、驚きを表に出す前に、彼女の中の他の方の声がこう言った。
下げるだけ。
戦場の熱を、下げるだけ。
その一言を、妹は何度か、自分の中で繰り返した。
繰り返した回数は、後になって、彼女自身も覚えていなかった。
〔編集者注:ここから先の数頁分にあたる箇所は、紙は残っているが文字は判読できない。水濡れではなく、強く擦り消された痕跡がある〕
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戦場では、長兄が先に気づいた。
長兄は岸寄りの最後の塁の縁に立っていた。
塁の縁は、長兄の側の者たちが、ここから先は外に出さないと決めた線の上にあった。
長兄の手はその線の上に置かれていた。
置かれた手の下で、線の温度がほんの少し沈んだ。
沈み方は、自然の風の沈み方と違っていた。
長兄はそれを、皮膚の方が先に知った。
頭で「これは妹の手だ」と気づいたのは、その後だった。
気づいた瞬間、長兄の口の中に、若い日に同じ光を挟んだ岩の陰の、冷えた香りが上がった。
上がってきた香りは、長兄の足を一歩だけ前へ送らせた。
その一歩は塁の縁を越えなかった。
越える方向ではなく、岸寄りの自分の者たちの背中の方へ向かった。
長兄は自分の若い者たちに命じようとして、口を開いた。
開いた口から、最初に出かけたのは、下がれではなかった。
——あの子は、
その途中で、声が止まった。
気づいたのは、妹がそこまで追い込まれたことの方だった。
兄である自分ともうひとりの兄とが、互いの陣の側を伸ばし合った。
その伸ばし合いの結末の方を、今妹が一人で引き受けようとしている。
引き受けようとしているというより、引き受けるしかない場所まで、自分たちが妹を運んでしまった。
長兄はその「運んでしまった」の方を、初めて自分の責で見た。
見たが、見たことを、自分の若い者たちに告げる前に、足元の線の温度が、さらに深く沈んだ。
沈んだ温度は、長兄の膝の方まで上がってきた。
長兄は再び口を開いた。
開いた口から、二つめに出かけた言葉は、
——
声にならなかった。
声にならなかった代わりに長兄は自分の手を薄く開いた。
開いた手は、塁の縁の上ではなく、塁の縁の向こう側もう何の声も届かない先へ、短く差し出された。
差し出した先には、誰もいなかった。
誰もいなかったが、長兄の手の内側に、若い日に岩の陰で挟んだあの光が、ほんの一瞬だけ再び乗ったような気がした。
気がしたところで、長兄の手はもう動かなかった。
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ほぼ同じ頃、次兄は外縁の集落の縁の段の上に立っていた。
段の上は、本来の持ち場から外れていた。
次兄が立つべき場所は、自分の戦列の中央だった。
にもかかわらず、その朝、次兄はわずかな違和感を覚えて、本陣を少しだけ離れていた。
違和感は、空気の重さの方から来ていた。
重さは、空ではなく、地の方から上がってきていた。
その重さには、次兄の足の裏の方が先に気づいた。
足の裏が冷えた。
冷えたが、まだ「凍る」と呼べる冷え方とは違っていた。
段の石の継ぎ目に、普段は見えない細い筋が薄く白く立ち始めていた。
立ち始めた白い筋は、地図の上の線にも、岸の縁の線にも似ていなかった。
似ていなかったが、その線を見た瞬間、次兄は妹の手の折れ方を思い出した。
思い出した直後、次兄の喉の奥が、乾いた。
乾いた喉で次兄は自分の伝令の者の名を呼ぼうとした。
呼ぼうとして、呼ばなかった。
呼ばなかったのは、呼んだところで、その者が間に合わないことを、足の裏の冷えが先に告げていたからだった。
代わりに次兄は段の縁の方へ一歩進んだ。
段の縁の向こうには、外縁の集落の屋根が薄く並んで見えた。
屋根の下には、戦闘員ではない者たちがいた。
年寄りや、子や、火を消し忘れた家で布を畳んでいる者たちがいた。
次兄はその屋根の連なりの方向へ、ほんの一瞬だけ視線を伸ばした。
伸ばした視線の先で、最も手前の屋根の上に、白い筋が一本、ごく細く走り始めていた。
走り始めていた線を見て、次兄は息を呑んだ。
呑んだ息の中で次兄は気づいた。
気づいたのは、妹をここまで追い込んだのは自分の言葉だったということの方だった。
線を世界の外まで伸ばす。
その伸ばし方を、自分は妹の手の方角からも引き出してしまった。
引き出した結果、今妹は、自分の論理の極をひとり背負っている。
背負わせたのは、半分は自分だ。
次兄は半分、と口の中で繰り返しかけて、繰り返すのをやめた。
やめた代わりに、彼は長兄のいる方を見た。
長兄は遠く、見えなかった。
見えない長兄に向けて、次兄は問いかける時の口の形だけを作った。
その口の形だけは、後になって彼の側の伝令の者がわずかに記録に残した。
残された記録にはこうあった。
「次兄様は最後に兄上、と」
その後の言葉は、伝令の耳まで届かなかった。
届かないまま、次兄の喉の方が先に冷えた。
冷えた喉の上に、白い筋が、上から下へごく細く一本だけ降りた。
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奥の一室で、妹はそれらの場面を見ていなかった。
見ていなかったが、自分の手の上で集まっていく外気の温度が、想定より速く下がり始めたことには気づいていた。
速さは、はじめは小さな違いだった。
小さな違いを、妹は無視しなかった。
無視しなかったが、止めもしなかった。
止めなかったのは、止めるためにここまで来たという一文の方が、その室の中で自分よりも大きく立ち上がっていたからだった。
下げるだけ、と妹は再び自分の中で言った。
戦場の熱だけを一旦鎮める。
冷えれば、戦は止まる。
止まれば、外へ進む足も止まる。
そこから再び二人と話せる。
妹はその筋立てだけを、自分の中で何度も並べていた。
筋立ては、整いすぎていた。
一行だけが、その筋立ての外に落ちていた。
読んだはずの一行だった。
けれど妹は、その一行を自分の中で別の言葉に置き換えていた。
——止める。
——殺すのではない。
置き換えた言葉は、置き換えるたびにわずかに軽くなった。
軽くなった言葉の上に、妹は自分の決意を乗せていた。
乗せた決意は、その日の朝、ついに乗せ切れる重さになっていた。
妹はその罪の方を、まだ見ていなかった。
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外では、線が伸び始めていた。
戦場の中央から先に伸びた。
戦場の中央では、両側の戦列の縁がゆっくりと白くなった。その白さは布の質感を保ったまま、声を先に冷やしていった。戦場の者たちは互いに何かを呼びかけようとして、口を開きかけた位置のまま、自分の喉の奥から白い縁が立ち上がってくるのを、最後の一拍だけ感じた。白くなったのは装具ではなく、声の輪郭の方だった。
声の輪郭が白くなったというのは、後に残された記録に出てくる言い回しだった。その言い回しが何を指していたかは、その時の戦場の者には、誰にも分かっていなかった。
誰もが、ある瞬間、
「あ」
と短く声を上げかけた。
上げかけた声の半ばで、その声の主の喉が、上から下へ、内側から外側へほぼ同時に冷えた。
冷えた喉から言葉が抜け落ち、抜け落ちた後で、その者の腕が、相手の方向ではなく、自分の仲間の方へ伸び、伸ばしたまま戻らないその腕の先で、白い筋は装具の継ぎ目をほぼ等しい間隔でひとつずつ越えていった。その越え方には、生き物の動きにも、ただの寒さの侵食にもない、別の意思の角度が確かに含まれていた。
革帯の縫いの上に滲んでいた汗の筋が、線の通った位置で、ごく細く白く凍った。装具の縁にこびりついた血は、色は外側のまま、温度の側だけを失った。倒れかけていた者の頬は、頬の側の血の道を残したまま、輪郭の方が先に白くなった。
越え終わった戦場には、武器の輪郭と、人の輪郭と、馬の輪郭と、声の輪郭とが、それぞれに白く保たれたまま止まっていた。
止まったというのが正しいのかどうか、その時の戦場の者にはもう判断する側がいなかった。
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線は、戦場の縁を越えた。
越えたと気づいたのは、戦場の縁から半里ほど離れた、外縁の集落の井戸端の老女だった。
老女は井戸の縁に手を置いて、桶を引き上げていた。
引き上げる途中で、桶の水面が一度、揺れた。
揺れの揺り戻しが、来なかった。
揺り戻しの来ない水面を、老女は一度目で確かめた。
確かめた瞬間、井戸の縁の石の表面に、ごく細い白い裂け目が、内側から外側へほぼ等しい速さで走った。
走った線を見ても、老女は驚かなかった。
驚かなかったのは、自分の年では、新しい現象に驚く力がもう削れていたからだった。
桶の縄を握り直そうとした指が、握り直すよりも先に止まった。
止まった指の上に、自分の白い息がわずかに乗った。
乗ったまま、降りなかった。
老女は、口を開けかけて、開けなかった。
開けず、目線だけを家の方へ送った。
家の中からは、孫娘の声が、ちょうど出かけていた。
井戸端と家との間の、普段は三歩で繋がる短い距離の上で、二人の声が互いに向けて出かけた。
出かけたまま、届かなかった。
届かなかったのは、両側の喉が、同じ速さで内側から外側へほぼ同時に冷えたからだった。
その短い距離の上には、声の代わりに、白い縁が一本、横向きに薄く渡された。
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線は、集落の縁を越え、王家の広間の柱を上から下へひとつずつ撫でていった。
柱は、本来、白い石でできていた。
白い石の柱の上に白い筋がさらに乗ると、それはしばらくの間、石の白さに紛れて見えなかった。
紛れたまま、線は、柱の根元に達した。
達したところで、柱の周囲の床の文様が、内側へ沈んだ。
沈んだ文様の上に、その時その広間にいた一人の書記の手の影が薄く残った。
書記は、机の縁に肘を置いていた。
肘を置いたまま、書記の手の中の筆の先が、ある一文字の半ばで止まった。
止まった一文字は、最後まで書かれなかった。
書かれなかったまま、筆の先の方が先にごく細く白くなった。
書記は、自分の指が止まったことに、最後の一拍だけ気づいた。
気づいたまま、続きを書こうとした手の上に、白い筋が机の角から斜めに上ってきた。
線は、書記の手首の上で一度止まり、そこから書記の喉の方まで、ほぼ同じ速さで上った。
上り終えたところで、書記の机の上の紙の上には、半端な一文字だけが、白い静けさの中に、残された。
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奥の一室で、妹は自分の手の上の冷えが、室の外までもう戻らないことに気づいた。
気づいた瞬間、彼女は止めようとした。
止めようとしたが、自分の腕の力がもう自分の指先まで届かなかった。
届かない指先の先で、外気は自分の意思とは別の速さで動き続けていた。
妹は、口を開いた。
開いた口の中で、最初に出かけた言葉は、
——兄上、
だった。
その言葉は誰にも届かなかった。
届かないまま彼女は再び口を開いた。
開いた口で、二つめに出かけた言葉は、
——
声にならなかった。
声にならなかった代わりに、彼女の指の先が、さらに深く内側へ折れた。
折れた指の先の方で、外気はついに戦場の縁を越え、集落の縁を越え、広間の柱を越え、王家の最も奥の一室の壁の方まで戻ってきた。
戻ってきた外気の方が、彼女より先に、自分の罪の名を口にしかけた。
口にしかけた名を、妹は両手で受け止めようとした。
受け止めるよりも先に、外気の方が、彼女の腕の動きを上回った。
上回ったところで、妹は自分がもう戻れない場所に来たことを初めて知った。
知った瞬間、
「兄上」
と彼女は低く言った。
その言葉は長兄の方角にも、次兄の方角にも届かなかった。
兄たちの口から呼ばれるはずだった名は、その日、どちらの方角からも届かなかった。
届かなかった名の跡に、後の者たちは、別の名を置いた。
届かなかったということを彼女はその時、まだ理解していなかった。
理解は、もっと遅れて来た。
遅れて来た理解は、その室の壁の白さの中にゆっくりと降りていった。
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私はその語りの間、自分の手の置き場を何度か変えていた。
変えるたびに、広間の柱の方が低く鳴った。
低く鳴った柱の表面に、いつもより少し多く、細い白い筋が走っているように見えた。
気のせいだったのかもしれない。
気のせいでなかったとしても、その線はもうずっと前からそこにあったものだった。
私は柱の根元に視線を落とした。
落とした視線の先で、床の文様が内側へ沈んでいた。
私はこれまでこの広間の文様を、遺構の文様として見ていた。
遺構として見ていたというのは、これらの線や凹凸をもう動かない過去の側の物として扱うということだった。
扱っていた。
扱っていたことを、その時初めて疑った。
これは遺構ではない。
これは止められた生活の方だった。
止められたと思った瞬間、私の喉の奥が、塞がった。
塞がった喉で私は魔女に問うた。
問う声は、私の意図より低くなっていた。
「ここに書記がいたのですか」
魔女の視線は、一度だけ柱の根元へ落ちた。
少し間を置いてこう言った。
「いました」
「机の上に半端の文字が残されていたのですか」
「残されていました」
「井戸端には」
そこで、言葉が一度止まった。
「井戸端には桶を引いていた老女がいたのですか」
魔女は答える前に、目を伏せた。
伏せたまま彼女は言った。
「いました」
「その人は戦場にはいなかったのですね」
「戦場にはいませんでした」
「孫娘も」
「いませんでした」
私はそれぞれの問いを、一拍ずつ置いて並べた。
並べた問いの間に、否という言葉は一度も落ちなかった。
「それを」
問うた。
「あなたは止めるための数に入れていたのですか」
返事の代わりに、彼女の右の指先が内側へ折れた。
岸辺の話の中で折れたあの折れ方とも、広間で兄たちの間に立った時の折れ方とも違っていた。
私が見たことのないもう一段深い折れ方だった。
折れた指の先で、彼女の声が出た。
「入れて、いませんでした」
声は静かだった。
「入れていませんでしたというのは」
私は問い返した。
問い返した自分の声に、私自身が驚いた。
「数えなかったということですか」
魔女は答える前に、長く息を置いた。
長い間の後でこう言った。
「数えれば、止められなくなると思っていました」
「数えなければ、止められる、と」
「それは」
私は言いかけて一旦言葉を呑んだ。
呑んだ言葉の代わりに、別の言葉を彼女に返した。
「それは知らなかったことではない」
魔女の視線は、床の線の上に落ちたままだった。
やがて、彼女はこう言った。
「私は知らなかったのではありません」
「すべてを知っていたのでもありません」
「ただ、知っていた部分だけで知らないふりをしたのです」
その三つの一文を彼女は文ごとに区切って言った。
区切った間隔は、私の呼吸とは合わなかった。
合わない間隔の中に私は自分の指先がいつの間にか手のひらの内へ寄っていることに気づいた。
気づいたが、戻せなかった。
戻せないまま私は再び柱の方を見た。
柱はもう低く鳴っていなかった。
鳴らない代わりに、柱の表面の白い筋が一本だけはっきりとした輪郭を私の方へ立てていた。
その線は上から下へごく細く、一本だけ降りていた。
降りた線の先は、床の文様の沈み込みの中央に静かに止まっていた。
止まっていた線の先の方角に私はふと、机の半端の一文字の白さの方を見た気がした。
見えなかった。
見えなかったが、その一文字が確かにそこにあったことだけは、線の止まり方が私に告げていた。
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「あなたは」
私は低い声で問うた。
「世界を救ったのかもしれない」
「けれど、救われた者に」
「選択肢はありませんでした」
魔女はその一言を、まっすぐ受けた。
受けた瞬間、彼女の左の指先が開いた。
開いた指先は、何も握っていなかった。
握っていなかったが、その開き方は、岸辺の亀裂で初めて開いた時の開き方にほんの少し似ていた。
似ていたが、同じではない。
岸辺の開きには、まだ呼びかけが残っていた。
ここでの開きにはもう呼びかけが残っていなかった。
代わりに、ここでの開きには、自分の責の重さだけが静かに乗っていた。
魔女は目を伏せたままこう言った。
「はい」
その一言の後、彼女は長い間、何も付け加えなかった。
付け加えなかったことが、私の問いをその日はそれ以上進ませなかった。
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広間の外で、氷の層が再び低く鳴った。
私はその音を、はじめて白い大陸の音として聞かなかった。
聞いていたのは、白く止められた大陸の方の音だった。
南極はその日から、白い大陸ではなく、白く止められた大陸になった。




