第12話 知らないふり
魔女はその問いに即答しなかった。
答える前に彼女は広間の床の方へゆっくりと手を伸ばした。
伸ばした指先は、床の縁の、ごく細い結露の上で止まった。結露は、まだ流れていなかった。玉になる手前で、薄い水の膜が、縁の側で揺れていた。
その水の膜が、彼女の指先へゆっくり移った。移った水滴は、彼女の指の腹で、一度、ほどけた。ほどけた水音は、聞こえるか聞こえないかの位置にあった。
その音の手前で私はもう次の問いを続けられなかった。
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戦況はもう互いに手を伸ばせる距離ではなくなっていた。
岸寄りの線は、両側からの命令の重ね書きで薄くも厚くもなれなくなっていた。
そこに立っていた者たちのうち、声を持って戻る者はもうほとんどいなかった。
ある朝、一つの本陣で、ひそかな動きがあった。
敗北しつつある側だった。
岸の外、海の側へ、自分たちの一部を移そうとする動きだった。
外と言う時、その者たちはそれを「逃げる」とは呼ばなかった。
「届かせる」と呼んだ。
「届かせる」ことの中身は、しかし、外の世界へ自分たちの力ごと出ることだった。外の世界には、まだ線の引かれていない者たちがいた。弱い者たち。最初の、まだ手しか持たなかった者たち。
線の引かれていない者たちの方へ、力を持った者が出てしまえば、そこに残された者たちは、ほどなく、息ができなくなる。息ができなくなる者の数は、その朝の時点で、まだ誰も数えていなかった。
数えれば、止まる手があったかもしれない。
数えなかったことが、その朝のもう一つの罪だった。
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その日の昼、妹は王家の広間の奥の、小さな部屋にいた。
その部屋は、初代王の封印に関わる古い記録が、唯一、残された部屋だった。
古い記録の一行に、妹は一度、目を止めた。
初代王の封印は、同じ血の冷気をも越える。
その一行を彼女は読んだ。
読んだ。
けれど読み終えた後、その一行だけを、自分の中の記録から外した。
部屋の中で彼女は目を伏せていた。
伏せた目の中で彼女は夢の続きを見ていた。
夢は、長い夢ではない。
夢の中に、暖かさがあった。
暖かさは、岸寄りで緩み始めた氷の、内側から差し込んでくる種類ではなく、別の種類の暖かさだった。
線の引かれていない場所から、地に伏せたまま立ち上がってくるゆっくりとした暖かさだった。
夢の中で、二本の足だけで歩く者が、その暖かさの中を一度戻ってきた。
戻ってきた者の手の中には、何も持たれていなかった。
何も持たれていない手の中に、しかし、他の何かが薄く宿っていた。
夢の中で、その者の顔は、笑うようでもあり、笑わないようでもあった。
夢の中で、その者の影が、別の影の上に重なった。
重なった影の足元で、土の上に置かれた小さな石器が、誰かの足に踏まれて割れた。
重なった影の中から、短い悲鳴のような音が一度だけ立ち上がった。
しかし、夢の中の音は、すべて、聞こえる手前で消えた。
消えた音の代わりに、夢の中で、無数の手のひらが、地に開かれた。
開かれた手のひらの数を彼女は夢の中で最後まで数え切らなかった。
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夢から覚めた時、妹は、自分の爪の白さに気づいた。
その白さは夢の中で見た無数の手のひらの白さに、似ていた。
似ていると認めたくはなかった。
認めたくないというそのこと自体を彼女はすぐに自分の中で別の場所へ押した。
押した先は、彼女自身にもはっきりとは見えない場所だった。
そこへ押したということだけを彼女はその瞬間、覚えていた。
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夜、妹は王家の広間の壁の前で、一人、立っていた。
壁には、初代王の封印の、ごく古い線が薄く残されていた。
その線は誰のためのものでもなかった。
線そのものが、線を保つために、線でいるというだけの線だった。
妹はその線の前で、自分の片手を壁の方へ伸ばす。
伸ばした手は、壁には触れなかった。
触れる手前で彼女は自分の手を見つめた。
「止める」
低く彼女は自分の手に向けて言った。
「止める、だけだ」
「殺すではない」
「止める、だけだ」
三度、彼女は同じ言葉を、自分の手に向けて置いた。
置くたびに、その言葉の中のある形が、奥の方へ押し込まれた。
その形は彼女自身が、既に知っていた形だった。
既に知っていながら彼女はその姿を、自分の手の内側に、外からは見えない場所に収めた。
収めたとも、隠したとも、正確には言えなかった。
彼女はその形の方へもう目を伏せた。
伏せた目の中で、その形は確かに存在していた。
存在していることを彼女はその夜、自分の口で認めなかった。
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兄たちのことはその時、壁の前に立つ彼女の中で、ごく端の方にあった。
長兄の名も、次兄の名も、彼女はそこではっきりとは口にしなかった。
しかし、自分の手の内側に押し込んだ形の中に、二人の影が確かに混ざっていた。
混ざっていることを彼女は知っていた。
知っていながら彼女はその夜、二人の名を呼ばなかった。
呼ばなかったのは、忘れたからではない。
呼べば、その形の上に、二人の顔がはっきりと立ち上がる。
立ち上がれば、彼女はもう、その手を壁の側へ伸ばす姿勢に入れなくなる。
入れなくなることを彼女はその夜、避けた。
避けた。
それが、その夜の彼女のもう一つの罪だった。
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広間の床の線が、また私の前に置かれていた。
魔女はまだ、自分の指先を結露の水の上に置いたままだった。
水滴は、ほどけ続けていた。
ほどけ続ける音の中で彼女は低く言った。
「私は知らなかったのではありません」
「すべてを知っていたのでもありません」
「ただ」
声は静かだった。
「知っていた部分だけで」
「知らないふりをしたのです」
その告白を私はその場ですぐには受け止め切れなかった。
受け止め切る前に、私の記憶が一度戻った。
あの夜、私は弟に「心配だ」とは告げた。
「心配だ」とだけは言った。
「心配だ」の先に、本当は続く言葉があった。
その続く言葉の方を私はその夜、口にしなかった。
口にせず、私は支度をする弟の手ばかりを見ていた。
手ばかりを見ていることで、弟の顔には視線を伏せていた。
伏せたまま私は自分の中の本当の続きの言葉を、別の場所へ押した。
押した先を私は長い間はっきりとは思い出さないようにしてきた。
その時、私はこの広間を、過去の場所としてだけ見ていないことに気づいた。
誰かの言いかけた言葉が、まだ床の線のどこかに残っているように見えた。
「あなたは」
問うた。
「兄上たちのことを本当に止めると言って、止められると思っていたのですか」
返事の代わりに、結露の水が彼女の指先で一拍だけ止まった。
「私は止めるという言葉を口に出した時」
低く彼女は言った。
「その言葉の内側に別の形が既に入っていることを知っていました」
「知っていながら、その形の方には目を伏せました」
「それは」
私の声はそこで少しだけ割れた。
私は魔女に向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、分からなかった。
「止めるという名前で殺したということではありませんか」
魔女はそこで、自分の指先を結露の水から離した。
離した指先を彼女はもう片方の手のひらの内側へゆっくりと折り込んだ。
折り込んだ指先の白さの中に、夢の中で見た無数の手のひらの白さが、今再び立ち上がっていた。
「私は」
低く彼女は言った。
「止めるという言葉の中に」
「殺すという姿を隠しました」
その一言の後、彼女はゆっくりと自分の両手を自分の前へ開き始めた。
開く動きは、いつもの広間の動きとは違っていた。
別の場所で、別の姿を、迎えに行く者の手の動きだった。
両手が、開ききる手前で、私の問いは一旦止まった。
止まった問いの先に、彼女のもう言葉にはなっていない呼吸が、低く続いていた。




