12 絶体絶命
2020.10/20 更新分 1/1
「あ、わたしがここに陣取っていると、従者さんが巻き添えになっちゃいそうですねー」
口の中でつぶやきながら、フィリアはてけてけと街路を移動した。
途方もなく巨大な蛾の姿をした邪神の眷族は、双眸を青く燃やしたまま、不動である。
「さあ、いいですよー! 思うぞんぶん、かかってきてください! わたしがお相手をいたします!」
それでも邪神の眷族は、動こうとしなかった。
その巨大なる羽を動かしているわけでもないのに、空中に静止したままである。それはやはり、夜の闇そのものが天にへばりついているかのような様相であった。
「さあさあ、どうしたのですかー? わたしは逃げも隠れもしませんよー! まさか、わたしの持つ聖剣に恐れをなしたわけではないのでしょう?」
「…………」
「あり? もしかしたら、本当にこの聖剣を怖がっているのでしょうか?」
邪神の眷族が、ふいに地上へと急下降した。
ただし、フィリアに向かってではない。壁際でうずくまったジェラに向かってである。
それを見て、フィリアは慌てて足を踏み出した。
「あー、そっちは駄目ですってばー! こっちですよ、こっちー!」
地面に近づくにつれて、その巨体は小さく分裂していく。
そうして無数の小さな蛾と変じて、人間の身を覆い尽くし、精気を吸い取るというのが、この邪神の眷族の攻撃手段であったのだ。
「もー! 駄目って言ってるのが聞こえないんですかー!」
街路を駆けながら、フィリアは聖剣を振り下ろした。
まだ邪神の眷族に届く距離ではない。
が――聖剣の刀身から深紅の輝きが渦を巻き、無数の蛾と化した暗黒のど真ん中に風穴を空けた。
金属をこすりあわせるような雄叫びをあげ、邪神の眷族はもとの高みに浮上する。
ジェラのもとまで駆けつけたフィリアは、「ふいー」と額の汗をぬぐった。
「危機一髪でしたねー。ところで、いま聖剣から炎が噴き出したように感じられたのですが、これはわたしの気のせいだったのでしょうか?」
フィリアはそのように問いかけたが、もちろん答えるものはいなかった。
邪神の眷族は、闇の向こうで青い眼光をぎらぎらと燃やしている。
「そういえば、この聖剣は『緋の灼炎』とかいうお名前をつけられているのですよねー。もともと炎の力が宿されていた、ということなのでしょうか?」
「…………」
「まあ、理由はなんでもかまいません。従者さんには、傷ひとつつけさせませんよー!」
フィリアは天空に、聖剣を突き上げた。
その刀身から生み出された真紅の輝きが、邪神の眷族の巨体を再び引き裂く。
邪神の眷族は雷鳴のような雄叫びをあげながら、さらなる高みへと舞い上がった。
「おやおや、何か企んでおられるご様子ですね。そちらまで飛び道具とかは勘弁してくださいよー?」
呑気につぶやくフィリアの頭上に、何か雨粒のようなものがはらはらと降り注いできた。
「おっと」と聖剣を振り払うと、奇妙な手応えが感じられる。妖魅でも斬り払ったような、鈍い感触であった。
「これは、もしかして……蛾の鱗粉みたいなものでしょうか?」
黒い塵のようなものが、邪神の眷族の巨大な羽から撒き散らされているのだ。フィリアの振り回す聖剣に触れれば跡形もなく消え失せてしまうので、それがどういう危険を秘めているのかは判然としなかった。
「でもでも、自分で触って確かめる気にはなれませんしねー。この手応えからして、きっと危険なものなのでしょうし」
フィリアは自分ばかりでなく、ジェラをも守らなければならなかった。
ジェラはぐったりとうずくまったまま、力なくまぶたを閉ざしてしまっている。ただ、黒い獣毛に包まれた背中はゆっくりと上下しているので、絶命していないことは確かであった。
「これ、地味ーに嫌な攻撃ですね! そして、嫌な予感をひしひしと感じます!」
フィリアの感じた嫌な予感は、ほどなくして現実のものとなった。
街路の向こうから、巨大な妖魅の影が近づいてきたのである。
それは蟷螂のごとき妖魅であり、なおかつ、1体や2体ではないようだった。
「あー、そっかそっか! この先には何体もの妖魅が待ちかまえているってお話でしたものね! それをこの場に集結させたというわけですか!」
際限なく降りかかってくる黒い塵の鱗粉を斬り払いながら、フィリアはわめき声をあげた。
「ずいぶんひどい真似をしてくれるものですね! もともと戦況はそちらが有利だったのに、これではあんまりじゃないですかー!」
「…………」
「って言っても、戦いに卑怯もへったくれもありませんもんねー。人間と妖魅は決して相容れない存在だというお話でしたし、おたがいに力を振り絞るしかない、ということですかー」
「…………」
「このままだと、わたしの命運も尽きてしまいそうです。覚悟を決めて、次の一歩を踏み出すことにいたしましょうかー」
フィリアは右腕1本で聖剣を振り回しながら、左腕を横にのばした。
黒い塵がその手の甲に触れると、針で刺されたような痛みが生じる。
左腕を引っ込めながら、フィリアは「なるほど」とつぶやいた。
「痛いし毒もありそうですけれど、素肌でなければ問題はなさそうですね。ありがたい話です」
つぶやきながら、フィリアは首もとの留め具を外して、外套を脱いだ。
その外套をジェラの上にふわりと投げかけてから、「さて」と迫り来る妖魅どもに向きなおる。
「まずは、あなたがたですね。お相手、お願いいたします!」
フィリアは頭上で聖剣を旋回させながら、妖魅の群れへと接近した。
あるていど近づいたところで、聖剣を横薙ぎに打ち振るうと、真紅の灼炎が渦を巻き、3体ばかりの妖魅を呑み込む。
妖魅どもは断末魔をあげて、地に伏した。
妖魅の巨体が塵に返ると、炎が消える。すると、次なる妖魅どもが黒煙をかき分けて前進してきた。街路はそれなりの道幅を有していたが、妖魅どもはあまりに巨体であったため、3体ていどしか横に並ぶことができなかったのだ。
「ふむふむ。地の利は我にあり、といったところでしょうか」
フィリアは同じ要領で、次なる3体を焼き払った。
そして、頭上に戻そうとした聖剣を、地面に向かって振り払う。
煉瓦の隙間から湧いて出た蜈蚣の妖魅が、それで塵に返ることになった。
「あいてててー! おもいきり鱗粉をかぶっちゃったじゃないですかー!」
フィリアは慌てて頭上の鱗粉を斬り払ったが、その頃には新たな蟷螂の妖魅が迫っていた。
そして足もとからは、蜈蚣の妖魅が次々と湧いて出る。
フィリアは「ああもう!」とわめきながら、聖剣で天から地までを斬り払った。
凄まじい勢いで灼炎が噴きあがり、頭上の鱗粉と、前方の蟷螂と、足もとの蜈蚣を、同時に焼き尽くす。
が、次の瞬間には同じ脅威が三方から肉迫してきた。
「ちょっとちょっと! これじゃあ、キリがないですよー!」
フィリアは無茶苦茶に聖剣を振り回し、それに応じて脅威を退けることがかなったが、じょじょに追い詰められつつあった。
鱗粉をあびてしまった頭や手の甲には、火のような熱が宿り始めてしまっている。それにつれて動きが鈍くなり、妖魅を優先して斬撃を繰り出すと、さらに鱗粉をあびて力を削られるという、ゆるやかなる破滅を迎えてしまったのである。
が、フィリアの力が尽きるよりも早く、もっと決定的な災厄が訪れることになった。
フィリアの左手側に立ち並んでいた家屋の屋根の上から、何か色鮮やかな物体が急降下してきたのである。
反射的に聖剣を繰り出そうとしたフィリアは、「うみゃあ!」と叫びながらそれを引っ込めた。
「み、南と東の従者さんじゃないですか! いったいどうされたのですか?」
『どうされたもへったくれもないよ! わけのわかんない毒をあびて、まともに飛べなくなっちまったのさ!』
念話でわめきながら、カーラはくちばしにくわえた鎚鉾を振り回し、頭上から降り注ぐ鱗粉を焼き払った。
その足から放り出されたロムロムも、「あうう」とうめきながら同じ作業に従事している。
『解毒の秘薬を飲んだけど、飲んだそばから毒をあびちまったら意味がないだろ! アタシが回復するまで、アタシを守りやがれ!』
「だ、だけどこちらも手一杯なのですよー! あ、人間の姿になられたら、外套とかで毒を防げるかと思われます!」
『ばーか! 人化の術式を使ったって、アタシらの装束は肉体の一部なんだ! それじゃあ素っ裸で毒をあびるのと変わらないよ!』
黄色い瞳を燃やしながら、カーラはそのようにわめきたてた。
『邪神の眷族に太刀打ちできるのは、不浄の聖剣を持ってるアンタだけだろ! 責任をもって、アタシたちを守りやがれ!』
「せ、責任と言われても困ってしまいますねー。だいたい、従者さんたちがおいでになったということは……」
せわしなく聖剣を振り回しながら、フィリアはちらりと左手側の空を見た。
巨大なる暗黒が、鱗粉を撒き散らしながら迫り寄ってきている。カーラとロムロムが受け持っていた、もう1体の邪神の眷族である。
「じゃ、邪神の眷族を同じ場所に集めてしまうのは、きわめて危険な行いなのではないでしょうか?」
『だったら、アタシらに死ねっていうのかよ? あんな化け物、アタシらだけで相手にできるもんか!』
「も、申し訳ないのです、兎さん。毒が抜けるまで、しばしお守りいただきたいのです」
「あうう、みなさんに頼られるのは光栄の至りなのですけれど、わたし自身が毒でへろへろなのですよー。それに、こうまで戦況が傾いたら、きっと邪神の眷族たちも――」
そのとき、フィリアの声が聞こえたかのように、邪神の眷族の1体が舞い降りてきた。カーラたちを追ってきたほうの個体である。
蟷螂の妖魅も蜈蚣の妖魅も、勢いを減ずることなく押し寄せてきている。それらを同時に迎え撃つことは、もはや不可能であった。
「えーん! もう、どうにでもなれー!」
フィリアは頭上から肉迫する邪神の眷族に背を向けて、街路の向こうに聖剣を振り下ろした。考えることを放棄して、もっとも手近な場所に迫っていた敵を迎撃してみせたのだ。
フィリアの繰り出した灼炎によって、蟷螂の妖魅は消滅した。
しかし、頭上はがら空きである。
カーラやロムロムの持つ魔道具では、邪神の眷族を退けることはできない。
さしものフィリアが、雲の上で母親の腕に抱かれる幻想に身をゆだねかけたとき――凄まじい轟音が、夜気を粉砕した。
フィリアは愕然と振り返り、そこに信じ難い光景を見た。
地面から生えのびた巨大な手が、邪神の眷族の巨体をわしづかみにしている。
それは、土くれで構成された巨人の腕であった。街路に使われている煉瓦を突き破って、そのようなものが現出していたのだ。
「キヒヒ。なかなか健気な姿を見せてくれるじゃねーか、下僕ども」
笑いを含んだ幼女の声が、響きわたる。
その声に、雷王鳥の姿をしたカーラが飛び上がった。
『ご、ご主人! お身体のほうは大丈夫なのですか!?』
「ばーか。大丈夫じゃなかったら、こんなくそったれな場所に出向いてくるかよ」
闇に閉ざされかけていた街路に、いくつもの鬼火が灯された。
そこに浮かびあがったのは、外套を纏った魔女ドルガの小さな姿である。
「右目と右耳は後回しにして、予定を1日くりあげたんだよ。このくそったれな邪神の眷族を木っ端微塵にぶっ潰すには、新しい右腕と右足だけで十分だろうからなあ」
まだその端麗なる面に白い包帯を巻いたままである魔女ドルガは、愉快でたまらぬように口もとを引き歪めた。
その青い瞳は、まるで野獣のように爛々と燃えている。
「さあ、それじゃあ殺戮のお時間だ。覚悟しとけよ、くそったれども!」




