第149話 頑張ったのね
「それでも僕は、世界を救いたい」
その言葉に、父は微笑んだ。
「アーリング。リズィを救ってはくれないのか」
「はい」なぜか、目頭が熱くなっていた。ぐっとこらえて、僕は言葉をつづける。「僕は、母さんが愛したこの世界を守りたいんです」
「この醜い世界を、か」
「いえ、この美しい世界を」僕は言った。「父さん。あなたの愛は、美しい。けれど、世界だって、同じくらい美しい」
僕は言葉をつづけた。
「この世界は、不完全で、悲しいこともたくさんある。理不尽に奪われる人もいれば、自分の弱さに負けて罪を犯す人もいる」
僕の脳裏に、これまで出会ってきた人々の顔が浮かぶ。
恐怖に縛られていたヴィルデ。
罪悪感に溺れていたビルギット。
孤独だったシリヤ。
無力感に泣いたキルステーナ。
そして、自分の弱さと向き合ったテアや、オラブ侯爵、ファルク伯爵。
彼らは皆、傷つき、迷い、それでも必死に生きていた。
「恐怖を乗り越えて外の世界へ踏み出したヴィルデの笑顔は、美しかった。過去の罪を背負って剣を振るうビルギットの誇りは、眩しかった。シリヤの探究心も、キルステーナの温もりも……みんな、泥だらけになりながら、それでも光を探して生きている」
僕は父の瞳をまっすぐに見つめた。
「父さんの、母さんを想う愛は美しい。それは否定しません。でも……みんなが必死に生きているこの世界の方が、僕には美しく見えるんです」
そのとき、父の瞳から、涙がこぼれた。
「アーリング。頼む。一生のお願いだ。それでも……たとえ世界が美しかったとしても……この美しい世界を滅ぼして、リズィを救ってくれ」
そう言って、彼は深々と頭を下げた。
あの父が、泣いている。
プライドも、なにもかも、すべてをかなぐり捨てて……。
「父上」僕は言った。「なぜ、もっとうまくやらなかったのです」
父は頭を下げたまま、動かなかった。
「あなたならば、僕に気づかれることなく、この大魔術を完遂できたはずだ」
父は答えない。
「あなたは、一人で決断するのが怖かったんだ」
僕は、一歩、父へと近づく。
「世界を変えて、母さんを目覚めさせた時……。彼女に『こんなこと望んでいなかった』と拒絶されるのが」
父の肩が、びくりと跳ねた。
「母さんは、この世界を愛していた。その世界を壊して自分を蘇らせた夫を、彼女がどう思うか。あなたはそれを、誰よりもわかっていたはずだ」
僕は、ようやく父のことがわかったような気がした。
「父さんは、だから……わざと、自分を追い込んでいたんですね。この大魔術を実行しなければならない、という状況に、あえて導いた。アスラグを用意し、王とフィヨーラを狂わせたのも……僕に謎を解かせたのも、すべて、この状況に追い込まれるための布石だった」
僕の言葉に、父は何も答えなかった。
「いつか、すべての謎が解かれ、追い込まれるのを待っていた。違いますか?」
「わからんよ」それが父の答えだった。「自分がどうしたかったのかなんて、何も……。ただ、リズィに生きていてほしかった。そして、リズィが生きていける世界をつくりたかった。それだけだ」
「お父様」リネアが、そう呼びかけた。「あなたのお気持ちが、よくわかります」
「お前ならわかってくれるだろう」と父は微笑する。「だから、きっと、お前は王になるのだろうな」
「かもしれません」リネアはうなずいた。「お父様は、魔王にはなれませんでしたね」
「そのようだ」父は深々とため息を吐いた。「魔力の放出を止め、術式を解除しよう」
「それは、つまり……」と僕は言った。
「リズィが、目を覚ますときが来たのだ」
◇◇◇
父は棺のそばにあった操作盤に手を触れた。
そして、よろめきながら棺に歩み寄る。
彼は棺の縁に手をかけ、冷たい霧の中から、愛しい人の身体を抱き起こす。
凍てついていた彼女の頬に、すうっと赤みが差していく。
止まっていた心臓が、十数年の時を超えて、再び鼓動を打ち始めたのだ。
父の腕の中で、母の長い睫毛が震えた。
そして、ゆっくりと瞳が開かれる。
その瞳は、僕と同じ、深い翠色だった。
彼女は、ぼんやりと視線を巡らせていた。
状況など飲み込めていないはずだ。
自分が死んでいたことも、どれだけの時が流れたかも。
けれど、彼女は何も聞かなかった。
ただ、大好きな人の温もりだけを確かめるように、父の首に細い腕を回した。
「……おはよう、リズィ」
父の声は震えていた。
母は笑顔で、ふわりと微笑んだ。
「おはよう、グレン」
母の手が、父の老け込んだ頬に触れる。
その皺の一つ一つを、愛おしそうになぞる。
「随分とおじいちゃんになったのね」
その一言で、父の喉から慟哭が漏れた。
「すまない。リズィ。本当に、すまない……」
「どうして謝るの? おかしな人」
「……愛している」
それ以外、何も言えなかったのだろう。
父は母を強く抱きしめ、ただ泣いた。
母は、そんな父の背中を、優しく、あやすように叩いた。
「泣かないで。……よしよし。愛しい人」
なぜか、僕も泣いていた。
涙が止まらなかった。
やがて、母の視線が、父の肩越しに僕を捉えた。
「アーリングなの?」
父は深く息を吐いて、母の身体を離した。
母が、こちらへと歩み寄ってくる。
僕も吸い寄せられるように歩き出した。
足が震える。
幼い頃、いつも思い出していた、温かい笑顔が、そこにあった。
「お母様……僕です」
僕は母の前に膝をつき、差し出された冷たい手を、両手で包み込むように握りしめた。
「大きくなったわねぇ……」
母は僕の頬に触れ、愛おしそうに目を細めた。
「立派な顔つきになったわ。……グレンよりも、ずっといい男になったじゃない」
僕は泣き笑いのような顔で頷く。
「僕、頑張りました。……この世界で、お母様のいない世界で、それでも、みんなで、頑張って生きてきました」
「ええ。あなたも、頑張ったのね」
母は、すべてを見通すような瞳で僕を見つめ、そして、僕を強く抱きしめた。
いろいろと話したいことがあったはずだ。
いつか、天国で話そうと、考えていた。
でも、言葉が何も出てこない。
「リネアと……結婚するんです」僕は言った。
「そう……」母はリネアを見た。「アーリングを、よろしくね」
「はい」リネアは答えた。「たとえ世界を敵に回そうとも、必ず守ってみせます」
「大げさね」と母は微笑んだ。「なんだか、少し眠いかも……」
そして、母は目を閉じた。
ゆっくりと、呼吸が浅くなっていく。
「最後は、二人きりにしてほしい」と父が言った。
僕とリネアはうなずき、地下をあとにした。
――――――――――――――――――
【★あとがき★】
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