第145話 鉄の古狼、ビョルン・ハマル
「……遅かったな、アーリング」
ビョルン・ハマル。
僕の剣の師匠であり、父の親友。
そして、王国最強と謳われた騎士団長。
だが、目の前にいる男は、僕の知る「老いた師」ではなかった。
白髪混じりだった髪は燃えるような赤毛に戻り、顔に刻まれていた皺は消え失せている。
全盛期。
いや、それ以上か……。
「その体は、どうされたのですか?」と僕は尋ねた。
「聖女アルマの力でな。一夜限りの力だが……」
「師匠。なぜ、こんなことを……」
命を賭けてまで。
自分の育てた後輩たちを、皆殺しになど……。
「今日は死ぬのに、とても良い日だ」ビョルンは言った。「退屈だったのだよ、アーリング。平和な世にな」
彼は大剣を片手で軽々と持ち上げ、切っ先を僕に向けた。
「老いて、錆びつき、畳の上で死ぬなど御免だ。私は戦場で死にたい。だが、ここにいる奴らでは足らん。だから、お前を待っていた」
ドンッ!
地面が爆ぜた。
速い。
目で追うことすら困難な速度で、ビョルンが肉薄する。
「させんッ!」
反応したのはビルギットだった。
彼女は即座に僕の前に滑り込み、大盾を構えて防御態勢を取る。
だが。
――ゴガァッ!!!
轟音と共に、大盾ごと、ビルギットの巨体が吹き飛んだ。
「ぐあっ……!?」
ビルギットは数メートル後方の石壁に叩きつけられる。
「援護します!」
ヴィルデが叫び、矢を放つ。
シリヤが氷の礫を撃ち出す。
リネアが死角から短剣を突き立てようと影から飛び出す。
しかし、ビョルンは笑っていた。
「ぬるい!」
一閃。
ただの剣圧が暴風となって巻き起こり、ヴィルデの矢も、シリヤの魔法も、そしてリネアの身体さえも、まとめて薙ぎ払った。
仲間たちが、一撃で無力化される。
圧倒的すぎる「武」の暴力。
理屈も戦術も通用しない。
「どうした、アーリング! お前の仲間はその程度か! 守るのではなかったのか!」
ビョルンが吠える。
僕は……剣の柄を握りしめていた。
手が震えているのを自覚する。
「アーリングよ。一騎打ちといこうではないか。さもなくば、皆、殺してしまうぞ」
僕は一歩、前に出た。
ビョルンの正面に立つ。
師匠は嬉しそうに目を細めた。
「そうだ。それでいい。そうでなくてはな」
ビョルンが構える。
自然体でありながら、どこにも隙がない、完璧な「無」の構え。
「来い、アーリング!」
「……行きます、師匠!」
僕は地面を蹴った。
――カキンッ!
重い。
だが、僕は退かない。
剣戟の嵐。
金属音だけが連続して響き渡る。
一合、二合、十合。
互いの剣が交わるたびに、師匠の想いが伝わってくる。
『もっと強く!』
『もっと速く!』
『私を超えてみせろ!』
言葉はなくとも、その剣が語っていた。
これは殺し合いであり、同時に、最後の稽古なのだ。
「はあっ、はあっ……!」
僕の呼吸が乱れる。
体力も、魔力も、削られていく。
だが、ビョルンの顔には疲労の色はない。
むしろ、戦いの中でさらに若返っていくかのように、その剣の冴えは増していく。
「どうした! 限界か! そんなもので、我が友、グレンフェルを止められると思ったか!」
ビョルンの一撃が、僕の防御をこじ開ける。
肩を掠め、鮮血が舞った。
「ぐっ……!」
「甘い! 優しすぎる! 人を斬る覚悟もないものが、生き残れるはずがない!」
追撃が来る。
死の予感。
その瞬間、僕の脳裏に、リネアの言葉が蘇った。
『旦那様の罪は、私の罪です。共に背負わせてください』
そうだ。
僕はもう、ただの優しいだけのアーリングではない。
愛する人たちと、罪も、地獄も、すべてを背負って生きていくと決めたんだ。
「……覚悟なら、あります!」
僕は叫んだ。
【神の瞳】が、ビョルンの動きを捉える。
彼の豪剣の、ほんの僅かな隙間。
全霊の力を込めた一撃の直後に生じる、魂の揺らぎ。
――そこだ。
僕は防御を捨てた。
ビョルンの大剣が振り下ろされる。
それを紙一重で――皮膚一枚を切らせる距離でかわし、懐へと飛び込む。
「なにっ!?」
ビョルンが驚愕に目を見開く。
僕の剣が、下から上へと、流れるような軌道を描く。
「――はあああああっ!」
閃光。
僕の剣が、ビョルンの大剣を弾き飛ばし、そのまま彼の胸を深々と貫いた。
時間が止まった。
僕の手には、肉を断った生々しい感触が残っている。
目の前で、ビョルンの動きが止まった。
彼は、自分の胸に突き刺さった僕の剣を見下ろし、そして……。
少年のような、屈託のない笑みを浮かべた。
「……見事だ、アーリング」
ドサリ、と。
巨木が倒れるように、ビョルンが仰向けに倒れ込んだ。
僕は慌てて駆け寄り、彼を抱き起こす。
溢れ出る血が、僕の手を赤く染めていく。
「師匠……!」
「泣くな、馬鹿弟子が……」
ビョルンは血の泡を吹きながら、震える手で僕の頬に触れた。
「これでいい……。私は武人として死ねる……。最高の弟子に看取られてな……」
「師匠、なぜですか。なぜ、このようなことを……」
「あいつは……グレンフェルは、私の友だからな」
ビョルンは、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あいつがこれから行おうとしている『儀式』。世界を敵に回してでも成し遂げようとするその狂気。私は、その露払いを引き受けたまでだ」
「そんなことのために……!」
「そんなこと、ではないさ。私は武人だ。理屈や正義など知らん。ただ、友が地獄へ往くというのなら、その背中を押してやるのが友というものだろう」
彼の瞳が、再び僕を捉える。
「アーリングよ。グレンフェルを止めるかどうかは、お前次第だ」
「僕次第……?」
「ああ。止めないという選択肢も、ある。それだけは忘れるな」
「父上は、何を為そうとしているのですか」
「あいつは……いつだって、愛のために生きている」
彼の呼吸が、いよいよ浅くなっていく。
握っていた手が、冷たくなっていくのがわかった。
「行け、アーリング。……お前は、本当に強くなったな」
ガクリ、と。
僕の頬に触れていた手から力が抜け、崩れ落ちる。
鉄の古狼、ビョルン・ハマル。
その瞳は開かれたまま、虚空を見つめていた。
師匠は死んだ。
僕が、殺したんだ。
その時だった。
地鳴りが響いた。
北の空、クラール湖の方角から、天を衝くような巨大な魔力の柱が立ち昇ったのだ。
空が紫色に染まり、大気が震える。
「あれは……」と僕は呟いた。
「なんらかの術式だと思われます」とシリヤが言った。「いったい、グレンフェル公爵は、何を……」
「……魔王になろうとしているのでしょうね。きっと。愛のために」とリネアがつぶやいた。




