第125話 私を抱いて
僕とテレヴォは離宮の庭を歩いていた。
月光が僕たちの道筋を照らしている。
夜の離宮は、昼間とは比べ物にならないほど冷たい空気に満ちていた。
すでにフィヨーラの容態については伝えていた。
驚いてはいたけれども、あの童女のようなフィヨーラを見て、テレヴォは少し安心したようだった。
あの狂気的な状態に比べれば、現在のほうが幾分かましだと考えたのだろうか……。
言葉もなく、ただ道を進んでいく。
フィヨーラのことだけではない。
他に、伝えなければならないことがあった。
だが、僕は、どのように伝えるべきなのかを、ずっと考えていた。
立ち止まる。
「僕は、きみに伝えないといけないことがある」
「うん」テレヴォはうなずいた。「父のこと?」
「……ああ、そうだ」
僕は言葉を選んだ。
どんな言葉を選んだところで、それは残酷な刃となり、テレヴォの心を傷つけるだろうことはわかっていたが……。
「ハーラル様の体は、病に侵されている。いかなる治療も、もはや効果がない。余命は……あと一ヶ月程度だ」
テレヴォの肩が小さく震えた。
だが、彼女は何も言わない。
ただ月を見上げる。
それから、僕は、最も重い真実を告げなければならなかった。
「そして……ハーラル様は、ご自身の尊厳を守るため、安らかな死を望んでおられる。彼の病気は、ひどく全身が痛むもので、脳に転移し、進行すれば、狂気に堕ちる。その前に、人間としての最期を迎えたいという話だった」
沈黙が落ちた。
あまりにも重い沈黙だった。
風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
テレヴォは月を見上げたまま、ずっと押し黙っていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、彼女はゆっくりと僕に向き直った。
その瞳は潤んでいたが、涙はこぼれていなかった。
「わかった」
絞り出すような、震える声。
「娘として、そして……女王として。私は、父の意見を……尊重します」
気丈だった。
あまりにも気高かった。
「ありがとう、アーリングくん。父の、最後の願いに寄り添ってくれて……」
彼女がそう言って、無理に微笑もうとした、その瞬間だった。
ぽろり、とこぼれ落ちる。
「……でも……っ」
彼女は震える手で、僕の服の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「お願い……アーリングくん……」
「……どうしたんだい」
「私を抱いて」
「それは……」
「いまひとりにされたら、心がバラバラになって、壊れちゃいそう」
◇◇◇
離宮の一室に用意された、簡素な休憩所。
月明かりが、床に脱ぎ捨てられたままの彼女のドレスのシルエットを、ぼんやりと照らし出していた。
僕はベッドに横たわっていた。
隣から伝わる、か細く震える体温。
二人分の熱で微かに湿ったシーツの感触だけが、妙に生々しい。
かけるべき言葉が見つからなかった。
僕の胸に顔をうずめたまま、テレヴォの、むき出しになった肩が小刻みに震えている。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
やがて、押し殺していた嗚咽が、か細い声となって漏れ出した。
「……いや」
それは女王としての仮面が完全に剥がれ落ちた、ただの娘としての魂の叫びだった。
「本当は……父様が死ぬなんて、嫌……っ」
彼女は僕にしがみついてきた。
「なんで、父様が……。私、まだ、何も……ありがとうって、ごめんなさいって、伝えられてない……」
彼女の熱い涙が、僕の肌を濡らしていく。
「私、これから、どうしたらいいんだろう」そしてテレヴォは小さく漏らした「……助けて」
「大丈夫だよ。大丈夫だから……」
僕がそう呟くと、彼女はさらに強く僕の胸に顔を押し付けてきた。
僕は、彼女の小さな背中を、ゆっくりと、あやすようにさすり続けた。
「僕は、いつでも君のそばにいる。君が女王として、しっかりと立てるようになるまで、そばで支え続けるから」
テレヴォは僕の胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で呟いた。
「……嘘つき」
「え?」
「どうせ、アーリングくんはフィエルヘイムとかいう田舎に帰っちゃうくせに……。私を、一人にして……」
その言葉は、非難というよりも、捨てられることを恐れる子供のような寂しさに満ちていた。
「そばにいるよ。大丈夫。きみが大丈夫になるまで、僕はそばにいるから」
「約束?」
「ああ、約束する」
「ありがとう」テレヴォは言った。「あなたの一番になれなくても、私……。あなたのことを愛している」
◇◇◇
僕とテレヴォは部屋から出て、皆の待つ部屋へと向かった。
そこにはリネア、キルステーナ、ヴィヒレァの三人が待機していた。
というか、キルステーナはリネアの肩に頭を載せて寝ていた。
僕の入室に気づくと、キルステーナはよだれを拭き、慌てて起きていましたよ、という顔をしていた。
微笑ましい。
「皆様、お待たせしてすみませんでした」とテレヴォが言った。「もう大丈夫です」
キルステーナが悲しげに目を伏せる。
僕がリネアと視線を合わせようとすると、彼女は、じっと僕の目を見つめ返してきた。
そして、僕のそばに音もなく近づくと、僕にしか聞こえない声で、そっと耳打ちした。
「……旦那様。やはり、テレヴォ様とご結婚なさるのが、国にとっても、旦那様にとっても、最善かと存じます」
僕が返事をしようと思った、そのときだった。
車椅子に乗ったヴィヒレァが、僕とテレヴォを交互に見て言った。
「なるほど……。兄様とテレヴォ様。魔力的な波長も、魂の親和性も極めて良好ですね。まさしく『完璧な配合』です」
『危険な配合』と『完璧な配合』
人間は、そんな理論通りにはうまくいかないものだ、とは思った。
「あ! お兄様!」
廊下の向こうから、甲高い、無邪気な声が響いた。
フィヨーラだった。
僕の姿を見つけると、彼女はぱあっと顔を輝かせ、こちらへ駆け寄ってくる。
「お兄様! 遅いですわ! フィー、退屈でしたのに!」
彼女は、何の躊躇もなく僕の腰にぎゅっと抱きついてきた。
その無邪気な仕草に、僕はどう反応していいかわからず固まってしまう。
「フィヨーラ姉さま」
テレヴォは言った。
「……父上に、ご挨拶に行きましょう。二人で、ちゃんと、お話をしないと」
「なあに? パパ、起きたの? 遊んでくれる!?」
フィヨーラが無邪気に喜ぶ。
テレヴォは頷いた。
「ええ、行きましょう」
◇◇◇
テレヴォはフィヨーラの手を引いた。
まるで、幼子を連れるように……。
僕は、その二人のあとを歩いていた。
三人だけである。
リネアにも待機していてもらっていた。
国王の寝室。
ハーラルは穏やかな表情で、二人の娘を迎えた。
一時間ほど前に、キルステーナにより痛みの緩和ケアが行われたとのことだ。
それで疲れてキルステーナは寝ていたということらしい。
テレヴォがベッドのそばに膝をつく。
「父様……。アーリングくんから、お話は伺いました」
「……そうか。……すまないな、テレヴォ。最後まで、重荷を背負わせて……」
「いいえ……」
テレヴォは、震える声で首を横に振る。
涙が溢れそうになるのを必死でこらえているのがわかった。
「父様の、最後の……ご決断。娘として、そして……ノルガルドの次期女王として、謹んで、お受けいたします。どうか、安らかに……お休みください……っ」
気丈に告げられた言葉。
だが、その声は震え、涙が静かに彼女の頬を伝っていた。
その、あまりにも重い空気を、最初は理解できずに、きょとんとしていたフィヨーラ。
彼女は、姉の涙と、父の弱々しい姿を、交互に見比べていた。
そして。「安らかに」「お休みください」という、決定的な言葉。
幼い彼女の精神には、まだ『死』という概念は理解できないようだ。
だが、気づいてしまっているようだった。
大好きなパパが、どこか遠くへ行ってしまう。
もう、二度と、遊んでもらえなくなってしまう。
「……いや……」
彼女の小さな瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「いや! パパ、どこにも行ったら嫌!」
それは幼子の、純粋で、どうしようもない『拒絶』の叫びだった。
「パパ、どこも痛くないもん! フィーと遊ぶんだもん!」
その必死の姿に、ハーラルは、心の底から困ったように弱々しく眉を下げた。
「……フィヨーラ。わがままを、言うものでは……ない……」
「フィヨーラ姉さま!」
テレヴォが、たしなめるように強い声を上げた。
「お父様がお困りでしょう! 最後は、もう、安らかに……」
「いやだっ! いやだいやだいやだっ!」
フィヨーラは、ただただ泣き叫ぶ。
その姿は僕の胸を締め付けた。
気高い女王の『決断』と、純粋な幼子の『拒絶』。
どちらも、父を想う、紛れもない愛の形だ。
そして、そのどちらもが、今はあまりにも切なかった。
僕は、治療師として何もできない。
ただ、家族の最期を、見届けることしか……。
「……よかろう」
重い沈黙を破ったのは、ハーラルの声だった。
彼は、痩せこけた手を懸命に伸ばし、泣きじゃくるフィヨーラの頭を優しく撫でた。
「……フィヨーラ。……泣かせて、すまなかったな」
「パパ……?」
「今晩は……そうだな。……久しぶりに、パパと、一緒に寝よう」




