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第124話 尊厳死

「私を殺してくれないか?」


 一瞬、ハーラルが何を言っているのか、理解できなかった。


「ハーラル様、それは、どういう意味でしょうか?」


「言葉通りの意味だ」


「……殺してさしあげますか?」とリネアが僕に耳打ちをする。


 絶対にやめろ。


「アーリング君、驚かせてすまなかったな。なにも、ここで剣で刺殺してほしい、というわけではない」


 ハーラルは深く息を吐き、僕の目を見た。


「実は……私の体は病に犯されているのだ。アーリング君。私はもう、限界なのだ」


 シーツを握りしめるその手は、骨と皮ばかりに痩せこけ、紫色の痣がいくつも浮かんでいる。


「身体が、内側から焼かれているようなのだ。眠ることも許されず、ただ、この痛みが過ぎ去るのを耐えるだけの日々……。もう、疲れたのだよ」


 その告白は、あまりにも痛切だった。


「キルステーナさんの力で、痛みを和らげることは……」


「はいっ!」


 僕が言い終わる前に、キルステーナがベッドのそばに駆け寄っていた。

 彼女は祈りを捧げ、その両手から、温かく柔らかな聖なる光を溢れさせる。


「おお……」


 光がハーラルの痩せた身体を包み込むと、彼の苦悶に歪んでいた表情が、ほんのわずかに和らいだ。

 だが、それだけだった。

 一時的な鎮痛にしかなっていないのだ。


「無駄だと思います」という冷たい声がキルステーナの祈りを遮った。


 部屋の隅に控えていたヴィヒレァが、車椅子をゆっくりとベッドのそばまで進めていた。


「僕が診断しましょう」


 彼女はハーラルの身体を診断すると、一切の感情を排した声で告げた。


「魔力回路そのものの劣化と、それに伴う悪性変質ですか……」


「どういうことだろうか」と僕は尋ねた。専門外なのだ。


「魔術回路の至る所に、魔力の流れを阻害する澱のようなものが固着し、それが悪性の腫れとなって魂そのものを圧迫しています」


 彼女は一度言葉を切ると、淡々と続けた。


「……そして、その腫れは、もはや局所的なものではありません。血流に乗るように、全身の魔力回路の末端にまで飛散しています。もはや、いかなる治癒魔術も聖なる力も意味をなさないでしょう」


 ヴィヒレァは僕に向き直り、淡々と付け加えた。


「余命は、持って一ヶ月が限界です」


 その残酷な診断に、キルステーナが「そんな……」と息を呑む。


 だが、ハーラルは意外にも穏やかな表情で、ふっと息を吐いた。


「……やはりな」


 その声は安堵すら含んでいるように聞こえた。


「他の魔術師にも診てもらったが、皆、言葉を濁すばかりでな。そうだろうとは思っていたよ。自分の身体のことは、自分が一番わかっている」


 ハーラルの、その覚悟を前に僕は言葉を失った。


 【賢者の知識】が、ある単語を提示する。

 『安楽死』――そして、『尊厳死』。


 僕は治療師だ。

 人の命を救うのが仕事だ。


 だが、今、目の前の患者は、救いようのない苦痛の中で安らかな死という名の『救済』を求めている。


「ハーラル様」僕は間をおいて、考えてから告げた。「そのご決断については、テレヴォ王女……いえ、テレヴォ陛下にも、お伝えし、ご相談すべきことかと存じます」


「ああ、もちろんだとも……」


 ハーラルは苦痛に顔を歪めながらも、力なく頷いた。


「あの子にも、覚悟を決めさせねばなるまい……。だが、アーリング君。私には、もう時間がないのだ」


 彼は痩せこけた手で僕の手を掴んだ。

 その力は、驚くほど弱い。


「この痛みが、私から『私』を奪っていくのがわかる……。狂って死ぬのだけは、御免なのだ。頼む……これ以上、苦しませないでくれ……」


 その悲痛な願い。


 僕は、そこでようやく気づいた。

 ここへ来る時、僕たちを案内してくれた年配の侍女。

 彼女の目が、泣き腫らしていた理由。


 僕に「どうか、ハーラル様をよろしくおねがいします」とすがりついてきた、あの時の絶望的な表情。


 侍女たちも、ずっと知っていたのだ。

 尊敬する主君が、日々、人としての尊厳を失っていく姿を、すぐそばで見ていた。


 彼女たちの心もまた、引き裂かれていたのだ。

 一日でも長く生きてほしいと願う心と、これ以上苦しむ姿を見たくないと願う心の間で。


 残された時間は本当に少ない。


◇◇◇


 リネアに頼み、テレヴォを連れてきてもらうことにした。


 僕たちはハーラルの部屋を出て、離宮の待合室でリネアとテレヴォの帰りを待っていた。

 窓の外は、すっかり暗くなっていた。

 月明かりが床に差し込んでいる。


 僕の隣で、キルステーナは祈るように両手を固く組んでいた。

 その指先が、微かに震えている。


「私……悔しいです……」


 絞り出すような声だった。


「聖女の力などと、人々は私を崇めてくださいます。ですが、私は……ハーラル様のあの苦しみを、一時的に和らげることしかできなかった。何の救いにもなれなかった……。聖女の力なんて、本当に……無力です」


 彼女の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。


 僕は、そんな彼女の肩に、そっと手を置いた。


「無力なんかじゃないよ、キルステーナさん。君がいたから、ハーラル様はほんの少しでも、あの激痛から解放されたんだ。君の光は、確かに彼を癒した」


「ですが……!」


「僕だって同じだ」


 僕は自嘲するように、そう呟いた。


「僕の力は人の心の傷を癒やすことしかできない。魂の在り様を視ることはできても、死そのものに抗う力はないんだ。結局、僕も……無力だ」


 目の前で消えていく命を救えない。

 治療師として、これ以上の無力感があるだろうか。


 結局のところ、人は皆、できることをするしかないのだ。


 重い沈黙が部屋を支配する。


 その静寂を破ったのは、車椅子の軋む、乾いた音だった。


「――兄様」


 ヴィヒレァが不意に言った。


「死ぬことに幸福を感じる人間を殺すのは、正義でしょうか?」


 あまりにも唐突で、あまりにも核心を突く問いだった。


 キルステーナが、はっとしたように顔を上げる。


 僕は、すぐには答えられなかった。


 正義。

 幸福。

 殺す。



 僕は、ゆっくりと言葉を探すように答えた。


「……わからないよ、ヴィヒレァ」


「わからない、ですか」


「ああ。この国では、人の命を奪うことは、どんな理由があれ罪だ。それが、一般的な正義の答えだろう。……でも」


 僕は、先ほどのハーラルの、苦痛と覚悟に満ちた瞳を思い浮かべた。


「僕が今、向き合っているのは、正義や罪といった、そんな大仰な話じゃない」


「では、何です?」


「尊厳だよ」


 僕は、必死に考えながら言葉を紡いだ。


「一人の人間が、人間としての尊厳を保ったまま、最期を迎えたいと願っている。狂気に飲み込まれる前に、自分で在るうちに、安らかな眠りにつきたい、と。それは、彼に残された、最後の自己決定権だと考えることもできる」


 治療師の役目は患者の苦痛を取り除くことだ。

 だが、もはや治療法がなく、生きていることそのものが耐え難い苦痛となった時、僕たちに何ができる?

 ただ延命させ、尊厳が失われていく様を見続けることが、本当に『治療』と呼べるのだろうか。


「僕は、それが正義かどうかは、わからない」


 僕はヴィヒレァの瞳を見つめ返した。


「でも。患者が全ての苦しみから解放され、安らかに眠ることを心から望むのなら……。その、最後の自己決定に寄り添い、その旅路を敬意を持って看取ること。それこそが、僕にできる最後の治療なのかもしれないと、今は思ってる」


「なるほど」とヴィヒレァは言った。「よくわかりませんけれど、わかりました」


 僕にもよくわからない。

 何が正しいのかなんてことは……。


「兄様」ヴィヒレァが僕の目を見て言った。「ボクは、この世界から、悲しみを消し去りたいと思っているんです。どれだけ罪を重ねようともね」

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