第126話 事件発生
僕は、リネアと二人、月明かりだけを頼りに離宮の庭園をゆっくりと歩いていた。
「記憶を失うのは、ある意味では幸せでしょうね」とリネアが言った。
「それは、フィヨーラ様の件?」
僕は、記憶をなくして幼児退行を起こしているフィヨーラを連想していた。
「いえ、一般論です」
感情を抑えた、平坦な声だった。
僕は昨夜のテレヴォとの一件を思い出していた。
忘れたいこと。
それは、つまり……。
「ごめんね」僕はすでにテレヴォとの件を謝っていたが、再度頭を下げた。「忘れたいくらい、嫌な記憶だよね」
「いいえ。そのことは良いのです」リネアは無表情で答える。「旦那様が、どれだけの女性を抱こうとも……。私のことを一番愛してくださっているならば、それで良いのです」
「僕がテレヴォと結婚したほうが良いっていうのは、本心?」
「はい」とリネアは答えた。
「僕は、リネアのことを愛している。きみと結婚するつもりだ」
僕の言葉に、リネアは無言のまま答えなかった。
「忘れたいことって、何? 僕と結婚するのが、嫌な理由は? ヴィヒレァの、相性占いを気にしているの?」
「……旦那様は、知らないから無邪気でいられるんです」
「きみが、ずっと何かに悩んでいることはわかるよ。僕に言いたくないことがある。そうだね?」
リネアは肯定も否定もしなかった。
ただ、無言で僕の目を見ていた。
「何か、辛いことがあるなら……。僕も一緒に背負うよ」
「旦那様」リネアは言った。「知らなければ、幸せなんです。知れば、地獄に堕ちます」
「一緒に堕ちるよ」
「知れば、私のことを嫌いになります」
「嫌いになんかならないよ。リネアには、わかってるはずだ。僕が、どれだけきみのことを愛しているか」
再びリネアは黙った。
ゆるやかに時間が過ぎていく。
ふと、リネアが口を開いた。
「明日、すべてをお伝えします」
◇◇◇
僕たちは、離宮から少し離れた場所に確保した宿舎に戻っていた。
ハーラルとフィヨーラの最後の夜を邪魔しないよう、侍女たちもこの宿舎で待機している。
万が一に備え、何かあればすぐに駆けつけられる体制は整えられていた。
テレヴォはハーラルが崩御したあとの対応について検討すると言って、王都の中心部へと戻っていた。
宿舎の一室。
シリヤが窓辺に立ち、離宮の方角へと意識を集中させていた。
「……よし。これで、離宮全域をカバーする広域魔力探知結界の展開、完了です」
「来てくれてありがとう」僕はシリヤに会えて嬉しかった。「例の資料の進捗は、どう?」
「ええ、まあ、ぼちぼちですね。いまのところ、特におかしなデータはありません」とシリヤは言った。「まあ、ちょっと飽きてきたところだったので、良い息抜きです」
「広域魔力探知結界というのは……具体的には、どういうもの?」と僕は尋ねた。
「離宮内で魔術が使われれば、即座に私に通知が来ます。ただし、ハーラル様のいらっしゃる室内は検知外にしています」
「それは、どうして?」
「痛みを緩和するような魔術が、そもそもあの部屋全体に掛かっているんですよ。それを検知していると、アラートが鳴りまくってわけがわからなくなりますので」
なるほど。
「ありがとう、シリヤ。助かるよ」
僕はシリヤに近づいていき、後ろから抱きしめた。
「わぁ! 急に、どうされたんですか?」
驚く彼女の髪に顔をうずめる。
太陽のような、温かい匂いがした。
「きみといると落ち着くよ」
「どういう意味ですか? リネアさんといたら、落ち着かないんですか?」
「そういうわけじゃないけれど……」僕は迷ったが、言った。「ちょっと、不安なんだ」
「喧嘩でもされたんですか?」
「喧嘩……なのかなぁ」違うような気がする。「なんだか、ちょっと不安なんだよね」
当のリネアは離宮の警備を行っている。
他の者は邪魔だ、ということでひとりで警備を申し出ていた。
テレヴォも、リネアの能力を信頼しているため、彼女ひとりに警備を任せていた。
僕はリネアと一緒にいたかったけれど……。
リネアは、ひとりで考えたいことがある、と言っていた。
明日、僕はリネアから、どのような話を聞くことになるのだろうか……。
◇◇◇
「また『危険な配合』ですか……。因果なものですね」とヴィヒレァが言った。
僕の隣にはシリヤがいた。
彼女は僕の肩に頭を乗せて眠っている。
寝ている状態でも、検知システムは有効とのことだったが……。
「きみの言う『危険な配合』って、何?」
「前にも言いましたが、才能を持った子が生まれる可能性もありますけれど、同時に弱い個体が生まれる可能性も高まる。そういう、血の相性です」
「僕に問題がある、ということかな」
僕とリネア、キルステーナ、シリヤに対して、ヴィヒレァは『危険な配合』だと告げた。
普通、そんなに危険な配合はありえない。
そうなると、僕自身に問題があるのではないか、と考えたのだった。
「いえ、兄様に問題があるわけではありません。あるいは、お互いに問題があるというのが正しいです」
「……それは、どれくらい確かなの?」
「もちろん、産んでみないとわかりません。ただの確率論ですから。だから、気にしなくても良いのかもしれません」
「リネアが、すごく気にしているみたいなんだ」
「ボクは、気にしたほうが良いと思いますけどね」
彼女は一度言葉を切り、窓の外に広がる離宮の闇へと視線を移した。
「あなた方は、あまりにも『似すぎている』からですよ」
「似すぎている……?」
「ええ」ヴィヒレァは頷く。「リネアさんも、キルステーナさんも、そしてシリヤさんも。あなた方は皆、魂の根幹となる部分が同じ色をしている」
同じ色。
それは、僕の【神の瞳】では視ることのできない領域の話だった。
「まあ、ボクに言えるのはここまでです」
ヴィヒレァは、もう僕たちに興味を失ったかのように、車椅子を静かに反転させた。
「僕は、この世界から悲しみをなくしたいだけ。あなた方がどのような『配合』を選び、どのような結末を迎えようと、それはあなた方自身の問題です。……ですが、兄様」
彼女は扉の前で一度だけ振り返り、僕の瞳をまっすぐに射抜いた。
「愛は尊い。どのような選択をされたとしても、幸せなら、それで良いと思いますよ」
ヴィヒレァは微笑んだ。
彼女の笑顔を、はじめて見たような気がした。
「さて。ボクはお家に帰ります。また明日の朝、こちらへ伺います」
「ああ、おやすみ……。どこに住んでいるの?」
「王都に部屋を借りています。公爵が手配してくれた部屋です」
「また明日」
「はい。また明日」
◇◇◇
その夜、僕は一睡もできなかった。
夜明け前の、一番暗い時間。
僕が窓の外を眺め、思考の海に沈んでいた、まさにその時だった。
―――バタンッ!
凄まじい勢いで、宿舎の扉が開かれた。
廊下を駆けてくる、複数の慌ただしい足音。
「アーリング様! アーリング様、いらっしゃいますか!」
部屋の扉が、ノックもなしに開かれる。
そこに立っていたのは侍女のエスリキラだった。
「大変です……!」
彼女は震える声で、その報せを告げた。
「リネア様が……! 離宮の廊下で倒れているのが発見されました……!」
「―――っ!?」
僕は、彼女の言葉を最後まで聞かずに駆け出していた。
キルステーナとシリヤが、僕の後ろからついてきていた。
リネア、無事でいてくれ……。
離宮の回廊にたどり着くと、侍女たちが集まり、不安げに何かを囁き合っていた。
その輪の中心、冷たい大理石の床の上にリネアは倒れていた。
国王陛下の寝室の、すぐ扉の前で。
「リネア!」
彼女は意識を失っていた。
呼吸はしている。
外傷もない。
ただ、その顔は、まるで全ての血を失ったかのように、真っ白だった。
僕が彼女の身体を抱き起こそうとした、その瞬間。
「―――きゃあああああああっ!」
侍女の、甲高い悲鳴が響き渡った。
声は、ハーラルの寝室からだった。
僕達は、その方向へと駆けた。
部屋の中は静かだった。
ベッドの脇で侍女の一人が泣き崩れている。
僕たちの視線は、ベッドの上へ向かった。
ハーラル七世が、そこに横たわっていた。
その顔は穏やかだった。
シリヤがベッドへ近づいていき、冷静に国王の首筋に指を当て、瞳孔を確認する。
「……脈拍、ゼロ。対光反射、なし。……魔力反応も完全に沈黙しています」
シリヤは、淡々と事実を告げた。
「亡くなっています」
崩御。
キルステーナが「ああ……」と嗚咽を漏らし、その場に膝をついた。
僕もまた、その事実に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……あら」
場違いなほど無邪気な声がした。
ベッドの脇。
そこに一人の女性が座っていた。
純白のドレスを身にまとった、第一王女フィヨーラ。
幼児退行していたはずの彼女は、僕たちが入ってきたことに気づくと、ゆっくりとこちらを振り返った。
彼女は泣き崩れる侍女と、ベッドで眠る父の亡骸を、きょとんとした顔で見比べる。
そして、こてん、と不思議そうに首を傾げた。
フィヨーラは、ベッドに横たわる父を、その細い指でつんと突いた。
「……ねえ」
彼女は僕たちに向き直ると、ハーラルを指で差して尋ねた。
「このおじさん、だーれ?」




