第121話 アーリング兄様
「ヴィヒレァっていう魔術師の名前は聞いたことあるかい?」
「いいえ」リネアは答えた。「でも、緑色ですね」
「緑色?」
「リムグレーペの隣の地域では、緑色のことを『Vihreä』と表記するのです。一種の方言です」
「そうなんだ。北のほうの出身なのかな」
そんな話をしていたときだった。
いつの間にか花を見飽きていたらしいフィヨーラが、不意に立ち上がった。
「見てくださいまし、お兄様! 白い蝶々ですわ!」
「そうだね、蝶だね……」
大人になってしまった僕は、蝶では喜べない。
「捕まえますわ!」
フィヨーラは無邪気に蝶々を追いかけ始めた。
その、ふらふらとした足取りは見ていてひどく危なっかしい。
彼女が向かう先には、離宮の景観を彩るための大きな池があった。
「姫様! そちらは!」
遠くの回廊から僕たちを見守っていた侍女たちの、悲鳴にも似た声が飛ぶ。
だが、フィヨーラの耳には、そんな声は届いていない。
彼女は池の縁ギリギリの場所で、水面近くを飛ぶ蝶に夢中になって手を伸ばす。
そして―――案の定、足を滑らせた。
「きゃっ!」
バランスを崩し、彼女の身体が水面へと傾いでいく。
僕は最短距離で地面を蹴り、倒れ込むフィヨーラの身体を、その腕で抱きとめる。
本人には言えないが、重い……。
僕の腕の中で、フィヨーラは一瞬きょとんとしていたが、すぐに状況を理解したのか楽しそうに笑った。
「まあ! お兄様、すごいですわ! お空を飛んだみたい!」
彼女には危険が理解できていないのだ。
たぶん、僕が動いていなければリネアが動いていたのだろうが……。
遠くの回廊から侍女たちがこちらへ走ってくる。
「フィヨーラ様!」
「大丈夫でございますか!?」
侍女――エスリキラが、震える声で僕に言った。
「アーリング様……! 姫様をお助けいただき、本当にありがとうございます」
侍女たちは僕に向かって深々と頭を下げた。
「いえ、無事で何よりです」
「本当に、アーリング様……。姫様のことを、本当にお願いします。どうか……」
「できる限りのことをします」
「姫様を幸せにしてあげてください」
「頑張ります」
「え? 幸せにしてくれるの?」フィヨーラが微笑む。「結婚してくれるってこと?」
「いや、それは……」
「してくれないの〜!?」
「アーリング様、どうか、姫様をお助けください」侍女が深々と頭を下げる。「そういえば、テレヴォ様を救出された際、フィヨーラ様の裸を見られたとか。殿方として、責任を取る必要があるのではございませんか?」
話をややこしくするのはやめてくれ!
「お兄様、フィーのお裸をご覧になったのですか!? まあ、えっちですわ!」
フィヨーラがきゃっきゃと手を叩く。
「違いますよ、姫様。あれは事故というか、その……」
「フィー、お嫁さんになりますわ! お兄様のお嫁さん!」
「アーリング様」とエスリキラが改めて僕に向き直り、真剣な眼差しで言った。「姫様は……ご覧の通り、今の精神状態は不安定です。ですが、もし、アーリング様が姫様のそばにいてくださるのなら、これほど心強いことは……」
完全に外堀を埋めに来ている。
僕が助けを求めるように背後のリネアに視線を送ると、彼女はいつも通りの無表情だった。
「あの、僕には心に決めた人がいますから」
「あら」エスリキラは言った。「じゃあ、仕方がありません。フィヨーラ様には妾になってもらうしかないですね……」
「私、お妾さんなの?」
子供がなんてことを言っているんだ!
そもそも第一王女を妾になんてできるか!
「僕は、リネアと結婚するんです」
「やめておいたほうがいいと思いますよ」という声が聞こえてきた。
いきなり何を言うんだ、と思った、そこに……。
車椅子に乗った少女がいた。
急に現れた、という感じだった。
魔術による転移だろうか?
その人物は、たしかに緑色のローブを身にまとっていた。
「どうも、はじめまして、アーリング兄様。ヴィヒレァと申します」




