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第120話 緑色の魔術師 The Green Amnesia Case.

「それで、姫様の様子が急変したのは、いつからなのですか?」


 僕は部屋にあるテーブルで、フィヨーラに長年仕えているという使用人の女性と話をしていた。

 フィヨーラと遊ぶのはキルステーナに任せている。


 使用人の女性は憔悴しきった顔をしている。


「ええと……どこから話したら良いものか……」


「お好きなところからで良いですよ。順番も気になさらず。こちらでまとめますから。簡単な話でいくと、いつから様子が変わったのか、を一番知りたいですが」


「ええと、3日ほど前の朝から、急に……。朝、起きてすぐに私の名前を、幼い頃のようにお呼びになったのです。エスリキラという名前なのですが、エス、とお呼びになりまして……。寝ぼけているのだろうか、と思っていたら、あんなことに……」


「なるほど。では、その3日前の時点でフィヨーラ様はどこにいらっしゃったのですか?」


「フィヨーラ様は『忘れ去られた者の尖塔』にお住まいでした」


「幼児退行を起こす前に、誰かとお会いになりましたか?」


「いいえ……私ども侍従以外とは、直接対面していないはずです」


 侍従のなかに、精神系に作用するようなギフトや魔術が使える者はいるのだろうか……。


「それで……こちらの離宮に移られたのは、いつですか?」


「2日前でございます。グレンフェル公爵に報告したところ、こちらで静養したほうが良いとのことで……」


 なるほど。

 3日前というと、僕達がダンプダールでスヴェレと戦った翌日のことだ。


「ひとつ、気になることがあるんです」と侍女が言った。


 僕は彼女が語るのを待った。


「4日前のことです。ヴィヒレァという宮廷魔術師が訪ねてきたのです」


 ヴィヒレァ。

 聞いたことのない名前だった。


「その方は尖塔の調査をされるとのことでした。それで、一晩お泊りになられました。その翌日に、姫様が……」


「状況を聞くと、その人物が非常に怪しいですね」


「でも……姫様には会っていないはずなんです」


 直接会わずとも、他人の精神に作用できるだろうか……。

 専門家のシリヤに聞かなければわからないが、非常に難しそうな気がする。


「どこかで人目を盗んで会ったのかもしれません」


「いいえ、それが……少しややこしい話なのですが……」侍従は困ったような顔をする。「ええと、どこから話したら良いのか……。まず、フィヨーラ様の居室があるフロアには、魔力を感知する機構が設けられておりました。例の、テレヴォ様の件があって以来、姫様はテレヴォ様に殺される……という妄想に取り憑かれていたようなのです。よって、該当フロアで少しでも魔力が発動した場合、私どもに通知が来るようなシステムになっています」


「そうなると、フィヨーラ様自身も魔術は使えないわけですね」


「ええ、フロアでは使えません。でも、フィヨーラ様の居室内は感知機構の対象外ですから、使えます」


 なるほどなるほど。


「それで……」侍女は言った。「ヴィヒレァ様は、フィヨーラ様には会えないのです。魔力感知機構が発動しますから」


「えっと、どういうことですか? いまいち、よくわかりませんが……。魔術を使わなければ良いのではありませんか?」


「それが……ヴィヒレァ様は、足が不自由なのです。普段は車椅子に乗っていらっしゃいまして、魔術を用いて浮遊されているのです。フィヨーラ様のフロアの上下の階層も魔力感知の対象となっています」


 なるほど。

 魔術を使って、車椅子を浮かせなければフィヨーラのフロアにはたどり着けない、ということか……。


 ぱっと思いつくのは、その人物を誰かが連れていけばフィヨーラに会うことはできる。

 しかし、そもそも、ヴィヒレァが本当に犯人なのか、ということから考えないといけない。


「ありがとうございます。大体の事情はわかりました」


「姫様は……元に戻りますでしょうか?」


「わかりません」と正直に答えた。「最善は尽くします」


「はい。ありがとうございます」侍従は頭を下げた。「しかし……。もしかしたら、姫様は、あのままのほうが良いのかも、とも思います」


「どういうことですか?」


「はい……。テレヴォ様を憎むようなこともなく、ただ、ひたすら純粋に、子供のように……。また、あのような狂気に戻られるのではないか、という不安もあります」


 僕は少し考えてから答えた。


「フィヨーラ様にとって、もっとも良い方向に進めるように頑張ってみます」


◇◇◇


 侍女との話を終え、僕はフィヨーラ王女が待つ居室へと戻った。

 扉を開けると、そこにはなんともシュールな光景が広がっていた。


「さあ、キルお姉様! もっとお茶を注いでくださいまし!」


「は、はい……。どうぞ、姫様……」


 床に敷かれた絨毯の上で、小さなティーカップを前に、フィヨーラが満面の笑みでおままごとを主宰している。


 その正面に正座させられているのは、聖女キルステーナ。

 彼女は「聖女」の威厳もどこへやら、空っぽのカップに空っぽのポットから空気を注ぐという、虚無の作業を延々と繰り返させられているようだった。

 その顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。


「あ! お兄様!」


 僕の存在に気づいたフィヨーラが、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。

 そして、何の躊躇もなく、僕の腰にぎゅっと抱きついてきた。


「うわっ」


「遅かったですわ! もう、フィー、キルお姉様とのお茶会に飽きてしまいました!」


 そう言って僕の身体に頭を擦り付けてくる。

 その仕草は完全に幼い子供のものだ。

 だが、僕の身体に押し付けられている感触は、紛れもなく成熟した大人の女性のものだった。


(……まずい。近い)


 柔らかな膨らみと、彼女から発せられる甘い香りが、僕の理性を容赦なく揺さぶってくる。


「お兄様? どうかなさいましたか? お顔が赤いですわ」


 フィヨーラは不思議そうな表情をしていた。

 その無邪気すぎる瞳が、僕の罪悪感をさらに煽った。


(落ち着け。相手は『患者』だ。中身は五歳児なんだ……!)


 僕は必死に自分に言い聞かせ、咳払いを一つした。


「あー……いや、なんでもないよ、フィー。少し、部屋が暑いだけだ」


 僕は彼女の肩にそっと手を置き、できるだけ紳士的に彼女の身体を自分から引き離した。


「そうだ、フィー。お茶会もいいけど、少しお庭をお散歩しない? 外は良い天気だよ」


「まあ! お散歩! 行きますわ!」


 僕の提案に、フィヨーラは心の底から嬉しそうに飛び跳ねた。

 20代半ばの女性が嬉しそうに跳ねるのって、うーん、実際に見てみるとホラーだな……。


◇◇◇


 中庭を、僕たちは並んで歩いていた。

 監視の兵たちが多いけれども……たしかに、この状態のフィヨーラを外に出すのは危険だろう。


 フィヨーラは僕の左腕にぎゅっとしがみつき、片時も離れようとしない。

 そのたびに、柔らかい感触が僕の腕に伝わってくる。


「お花、きれいですわね……」とフィヨーラがつぶやく。


「そうだね」と僕は返した。


 その姿は狂気の王女ではなかった。

 たしかに侍女の言うとおり、このほうが彼女にとっても幸せなのかもしれない。


 だが、僕は……。

 元通りのフィヨーラに戻ってほしい、と思った。

 もともとは妹思いの姫だったはずである。

 いつしか、妹に対する劣等感が生まれ、それが天秤のギフトにより増幅されていたのだろうが……。


 僕の背後ではリネアが控えている。

 キルステーナはおままごとに付き合って疲れたのか、待っているとのことだった。


 フィヨーラがしゃがみ込んで、花をじっと見ている。


「これから、どうしたら良いんだろうね」と僕はリネアに尋ねた。


「なるようにしかなりません」


 まあ、それはそうだけれどもね。


「僕にできる範囲で、なんとかするしかないね」


「そうですね」リネアは言った。「元国王は、どうなっているのでしょうね」


 ああ、そうか。

 そちらも考えなければならないのだ。


 もしかしたら、元国王も記憶を?

 そちらにも会ってみる必要があるな……。


「ヴィヒレァっていう魔術師の名前は聞いたことあるかい?」


「いいえ」リネアは答えた。「でも、緑色ですね」

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