第117話 はい
「アーリング殿」伯爵は言った。「ご覚悟!」
剣を持つ手は震えていた。
月明かりに照らされた彼の顔には、深い苦悩と、抑えきれない激情の色が浮かんでいた。
息子マティを救われたことへの『恩義』。
そして、妻カイサをスヴェレ――僕の弟に殺されたことへの『憎悪』。
二つの相反する感情が、彼の魂を内側から引き裂いているのが、僕の【神の瞳】には視えていた。
次の瞬間、伯爵の身体が弾かれたように動いた。
武人ならではの、鋭く、無駄のない踏み込み。
切っ先が僕の喉元へと迫る。
だが、その剣が僕に届くことはなかった。
音もなく。
影が、僕と伯爵の間に滑り込んだ。
リネアだ。
いつの間に動いたのか、僕には全く捉えられなかった。
彼女は、迫りくる剣閃を最小限の動きでいなす。
そして、その白い手が寸分の狂いもなく伯爵の手首の一点を打った。
―――カラン。
乾いた音が響き、伯爵の手から剣が滑り落ちる。
リネアは、返す刀で伯爵の重心を崩し、その膝裏を軽く蹴り上げた。
王国屈指の武人であるはずのファルク伯爵は、その場に膝をついた。
あまりにも、あっけない幕切れだった。
リネアは無力化された伯爵を一瞥すると、言った。
「冥土の土産に聞いておきます。なぜ、わざと負けたのですか? もし本気で死を望んでおられるのなら、旦那様を巻き込むような真似は、おやめください」
あまりにも容赦のない言葉だった。
伯爵は何も答えない。
「そこまでだ、リネア」
僕の言葉に、リネアは小さくうなずいて一歩下がった。
伯爵は動かなかった。
ただ、その肩が小刻みに震えている。
やがて、その震えは嗚咽へと変わっていった。
「……う……ぅ……」
最初は、押し殺すような声だった。
だが、それは慟哭へと変わっていく。
「うわあああああああっ!」
子供のように、声を上げて泣いていた。
地面に額をこすりつけ、その拳で何度も、何度も大地を叩く。
貴族としての体面も何もかもかなぐり捨てて、ただ、泣いていた。
「なぜ……!」
涙に濡れた顔を上げて、伯爵が僕を睨みつけた。
その瞳に宿るのは、純粋な憎悪と、やり場のない悲しみ。
「なぜ……妻を救ってくださらなかったのですか……!」
魂からの叫び。
息子を救った恩人へ向けるには、あまりにも理不尽な言葉。
八つ当たりだ。
彼自身も、きっとわかっているはずだ。
それでも、そう叫ばずにはいられないのだろう。
愛する者を失った悲しみは、時に人を狂わせる。
その痛みを、僕は知っていた。
僕の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
日に日に衰弱していく母。
何もできず、ただその手を握ることしかできなかった、幼い僕の無力感。
目の前で泣き崩れる伯爵の姿が、あの日の僕自身と重なった。
僕は、彼の前に膝をついた。
「申し訳ありません、伯爵」
僕は、心の底から、そう告げた。
「全て、私の力不足です。私が、もっと早く気づいていれば。私に、もっと力があれば……。あなたの奥様を救えたのかもしれない」
僕の言葉に、伯爵ははっとしたように顔を上げた。
伯爵の瞳から、僕に向けられていた憎悪の色が、すうっと消えていく。
代わりに浮かんだのは、どうしようもなく深い後悔の色だった。
自らの、あまりにも身勝手な怒りに対する。
「……あ……。私、は……なんという、ことを……」
彼は自らの行いを恥じるように、再び地面に額をこすりつけた。
「申し訳ありません、アーリング殿……! 私は、あなた様という大恩人に対し、あまりにも……! この罪、万死に値します……!」
「顔を上げてください、伯爵」
僕は、その震える肩に手を置いた。
「あなたは何も間違ってはいない。ただ、愛する人を失った悲しみが、それほどまでに深かった。ただ、それだけのことです。誰もあなたを責めることなどできません」
僕の言葉に、伯爵はゆっくりと顔を上げた。
「ですが……私は……この溢れる悲しみを、どうすれば……」
「……奥様を、弔いましょう。伯爵」
「……え……?」
「正式な弔いは、領地に戻られてからなさればいい。ですが、あなたの心が今、ここで一つの区切りをつけたいと願っているのなら……。ささやかですが、この森で、奥様のための場所を作りませんか。あなたの手で、奥様への想いを形にするのです」
僕の提案に、伯爵は戸惑ったように僕の顔を見つめていた。
僕は立ち上がり、彼に手を差し伸べた。
「僕も手伝います。僕も母を亡くした時、何もできずにただ泣くことしかできなかった。でも、せめて何か、母のためにできることがあればと、そう願っていましたから」
僕自身の痛みを、初めて彼に打ち明ける。
共有された悲しみは、時に人を強く結びつける。
伯爵は、僕の手を握り返した。
その手はまだ冷たく、震えていた。
◇◇◇
僕たちは、森の中で少し開けた、陽光が穏やかに差し込む場所を見つけた。
そこには、ひときわ大きく、年輪を重ねた古い白樺の木が、まるでこの地の守り神のように静かに立っていた。
その根元に、僕たちは二人で周囲から集めてきた石を一つ一つ丁寧に積み上げていく。
言葉はなかった。
ただ、石と石が触れ合う乾いた音と、僕たちの息遣いだけが、朝靄に包まれた森に響く。
それは祈りのようでもあり、贖罪のようでもあった。
伯爵は、時折こぼれる涙を袖で拭いながらも、一心不乱に石を積み上げていく。
一つ積むごとに、彼の心の中にある整理しきれない感情が、少しずつ形を変えていくようだった。
怒りは悲しみへ、悲しみは追憶へ……。
そして追憶は、愛へと昇華されていく。
妻カイサへの最後の贈り物を作るための、彼の魂の作業だった。
やがて、小さな石積みの塚が完成した。
武骨で、何の飾りもない、ただの石の山だ。
だが、そこには伯爵の深い愛情と、言葉にならないほどの悲しみが、確かに込められていた。
それは世界でたった一つの、カイサ夫人のための場所だった。
伯爵は、完成した塚の前に膝をついた。
そして、深く頭を垂れる。
僕も、その隣に膝をつき、共に祈りを捧げた。
カイサ夫人の魂が安らかであるように。
そして、残された伯爵の未来に、いつか再び、穏やかな光が訪れるようにと。
リネアも少し離れた場所から、祈りを捧げてくれていた。
◇◇◇
どれほどの時間が経っただろうか。
伯爵がゆっくりと顔を上げた。
涙は、もうなかった。
その顔には、深い悲しみを乗り越えた者だけが持つ、穏やかで、澄み切った光が宿っていた。
「……アーリング殿」
彼は僕に向き直った。
「不思議と……心が、少し軽くなったような気がします。妻への想いは、少しも変わらないというのに……胸のつかえが、すっと取れたような……」
戸惑うような、それでいて安堵したような呟き。
僕は、そんな彼の魂の変化に頷き返した。
「伯爵。僕が知る異世界の知識によれば、それは『グリーフワーク』……悲しみを乗り越えるための、とても大切なプロセスの一部なんです」
「グリーフ……ワーク?」
当然、聞き慣れない言葉だ。
伯爵は眉をひそめる。
「ええ」僕は続けた。「人は、ただ悲しみに打ちひしがれるだけでは、なかなか前に進むことができない生き物なのだそうです。愛する人のために『何かをする』……たとえそれが、今僕たちがしたように、小さな石を積むような、ささやかな行為であったとしても。その能動的な関わりと、弔いという一つの『儀式』を通して自らの感情に区切りをつけることで、魂は少しずつ、本当に少しずつですが、癒やしへの道を見つけていくのです」
僕の説明を、伯爵は真剣な眼差しで聞いていた。
「僕たちは今、その『グリーフワーク』と呼ばれるプロセスを実践しました。あなたの手で奥様への想いを形にし、この場所に一つの印を刻んだ。それは、あなたの心が前へ進むための一歩になったはずです。悲しみは消えませんが、その悲しみと共に生きていく覚悟が、今、あなたの中に生まれたのです」
「なるほど……。異世界の叡智、ですか。深いものですね……。あなたのおっしゃる通りかもしれません」
伯爵は自らの手を見つめ、そして再び僕へと視線を向けた。
「アーリング殿……」
彼は、今までにないほど晴れやかな、そして力強い声で言った。
「ありがとう……。本当に、ありがとう……」
心の底からの、感謝の言葉。
「あなたは、私を救ってくださった。このファルク、生涯を懸けて、あなたにお仕えいたします。この命、あなたの理想のために捧げることを、亡き妻カイサの名誉にかけて、ここに誓います。どうか、この愚かな私をあなたの『剣』としてお使いください」
僕は少し迷ったが、言った。
「いつか……僕が困ったときに、余裕があれば助けてください」
◇◇◇
その後、ファルク伯爵は帰っていった。
「旦那様、命を狙われたというのに、お優しいですね」
「もともと、僕達を殺すつもりなんてなかったんだろうね。きっと、彼は行きの場のない気持ちをどうにかしたかった。もしかしたら、死にたかったのかもしれない。死んで、妻と同じところへ行きたかった……」
「その気持ちは、よくわかります」
「わかっちゃだめだよ」
「旦那様が死ぬときは、私が死ぬときです」
「長生きしてくれ」
本当に……。
さて、王都へ戻ろう。
そして、王とフィヨーラを救わなければならない。
「ねえ、リネア」僕は、ふと思いついたように言った。「愛してるよ。結婚しよう」
リネアは、一瞬、僕の言葉が理解できていなかったようだ。
しかし、彼女は無表情のまま答えた。
「はい」




