◆第六話『空白の記憶』
感じていた温もりのひとつが消えた。
やがて扉が開閉する音も聞こえてくる。
目を瞑っていたからか、余計にそれらを感じることができた。
ゼノは意識を覚醒させ、まぶたを持ち上げた。
映り込んだのは薄闇に包まれた自室。すぐそばでは、ミリィが静かな寝息をもらしながら丸まっている。……どうやら部屋から出ていったのはシャラのようだ。
最近はよく3人で寝ていたこともあり、すぐそばに2つの温もりがあることが自然となっていた。シャラが起きたことにすぐ気づけたのも、きっとその自然が崩れたからだろう。
ミリィを起こさないよう慎重にベッドから出たのち、部屋をあとにした。
シャラがどこに向かったのか。
ほぼ感覚的ではあるが、予想はついていた。
中央塔の上階にはほぼ寝室がないため、ほとんどひと気がない。そんな静かな中を歩いてテラスに出たのち、階段を上がっていく。やがて屋上に辿りついたとき、銀の髪をなびかせる女の後ろ姿が映り込んだ。
「ここは風も強い。長居すると風邪をひくぞ」
そう声をかけながら、シャラのそばに向かった。
おそらく彼女も足音から気づいていたのだろう。
振り返ることなく、ただ空を見続けていた。
「……ごめんなさい。眠れなかったんです」
「なにか考え事でもしてたのか?」
こちらの問いを受けて、シャラが目線をわずかに下げた。しばしの無言の間を経て、意を決したように口を開く。
「ゼノに隠していたことがあるんです」
あわせて向けられた真剣な目は大きく揺れていた。
まるでなにかを恐れるように体もかすかに震えている。
彼女がなにを口にしようとしているのかはわからない。ただ、安心できるようにとなにも言わず、ただ待ち続けた。
「……わたしには昔の記憶がないんです」
やがてシャラがそう静かにこぼした。
まったく予想できなかったことだ。
どう反応すればいいのかわからなかった。
ただ、彼女が勇気を出して話してくれたことだ。
もっと深く知りたいとそう強く思った。
「何歳頃までの記憶がないのか、聞いてもいいか?」
「記憶がはっきりしているのはいまから5年ほど前……16歳頃からです。親はいなくて、ただ姉がいるだけの状態でした」
「ソフィアからはなにか聞いたのか? 昔の自分のこと」
いいえとばかりにシャラは首を振った。
「姉は過去を話すことを避けているようでした」
なにか後ろめたいことでもあるのだろうか。
あるいはシャラが凄惨な過去を経験していて、思い出すことで心に傷を負うことを危惧したか。理由は色々と考えられる。
いずれにせよ、ソフィアがなんの理由もなく、シャラに過去を話さないとは考えにくい。
「ただ、本能的に感じるんです。《空の果て》に行けば、きっとなにかがわかる、と」
――姉が《空の果て》を目指していた理由を知りたい。
協力関係となったのは、そんな動機からだったが……実際は、そうした側面もあったというわけだ。
帝国はその存在を鍵として追い求め、聖王セレス・ビアトルは白銀の翼竜が《空の果て》に近づくことをよく思っていない。白銀の翼竜が《空の果て》となにか深い関係を持っていることは間違いないだろう。
シャラが感じたように、《空の果て》に〝答え〟がある可能性は高い。
と、シャラが手すりに置いた両手をぐっと握りしめた。
唇をきゅっと締め、震わせる。
「ですが、同時に思ってしまうのです。過去を知ることで自分が変わってしまうのではないか、と……」
記憶が蘇ることでいまの自分がいなくなってしまうかもしれない。仮に共存できたとしても、その過去が忌避するものだったとしたら。都合の悪いことは幾つでも考えられる。
だが、それでも彼女は歩みを止めず、前に進もうとしている。それが正しいことだと信じているからだ。
ゼノは震えるシャラを右腕で抱き寄せた。
「心配する必要はない。なにがあっても俺がお前にそばにいる」
「……ゼノ」
安心したようにシャラが身を預けてくれた。
その柔らかな髪とともに頬を胸元にぴたりとつけてくる。
出会った当初は、ソフィアに重ねてしまうこともしばしばあった。だが、いまも感じる温もりは、シャラただひとりのものだ。
手放すつもりはない。
たとえどれだけの困難が立ちふさがろうとも、それは同じだ。
強くいま一度、シャラを抱き寄せた。
直後――。
『クラーラ様、起きていらっしゃいますか?』
交信術が頭の中に届いた。
この声はフォルツティア王国のアストラ使いのものだ。
ゼノはシャラを一度離し、「ああ」と応じた。
「どうした? なにかあったのか?」
『先ほど哨戒機が接近する1隻の帝国船を発見しました』
「捕捉されたか」
もとより世界の大半が帝国の手に落ちている状況だ。どこにいても見つかる可能性は高く、予想できた事態だ。
ともあれ、まだ戦争明けで体勢は整っていない。帝国の船が戻ったほうから距離をとる形ですぐさま進路を変えるほかないだろう。次なる手段を早々に考えはじめる中、交信先のアストラ使いが困惑気味な声で話を継いだ。
『ただ、どうもあちらはただちに仕掛けてくるつもりはないようなのです』
「……いったいどういうことだ?」
『アストラによる交信術を用いて伝言を残していったそうなのです。内容は――』
次の言葉を聞いた瞬間、ゼノは思わず顔を顰めてしまった。
あまりにもあからさまで、帝国らしい下衆なものだったからだ。
『――6日後の正午、南要塞島にてボスクィル商会の頭領デヘナ・ベナの処刑を執り行う、と』




